第77話 一針を自分で
ユリアさんの指は、針に触れていない時にも、針を避ける形をしていた。
人差し指だけをわずかに浮かせ、親指との間を空けている。私はその下へ布を入れた。長く同じ姿勢でいても、余計な力を使わずに済む高さだった。
「このままで、苦しくはございませんか」
「はい。こうしていれば、痛くありません」
娘さんは母親の左側へ座った。
マリエラさんが、私の後ろから糸を見ている。同席をお認めいただいたが、この処置を彼女へ任せるつもりはなかった。細い輪が指の間で重なり、先ほど見えた端の下に、もう一つの交差があった。
「始めます」
ユリアさんがうなずいた。
私は、親指へ回る輪を支えた。外の端を少し動かすと、人差し指側の糸も引かれた。そこで止め、指の腹で重なりを分ける。
抜きやすく見える端が、先とは限らない。
上の細い輪をよけると、その下から短い端が現れた。よけた指を戻せば、また見えなくなる場所だった。
私は支える指を替え、短い端がどこへ通っているかを確かめた。
「先生」
戸の向こうで、レオンさんの声がした。
「次の方がお着きです。あと、どのくらいでしょう」
ユリアさんの手が、布の上で硬くなった。
私は重なりを保ったまま、顔だけを上げた。
「処置中です。今は、お答えできません」
「待ち時間だけでもお伝えしたいのですが」
今度は、少し近くで聞こえた。
私の指先に、別の日の冷たさが戻った。
次がいる。待たせている。早く終えればよい。
それを聞くたび、私の身体のどこが痛んでいても、動かせるところを先に動かしていた。終わったと言ってもらえるまで、次へ進むしかなかった。
短い端が、指の陰へ寄りかけた。
私は息を吐いた。
いま急げば、確かめたところをもう一度探すことになる。ユリアさんを前にして、昔の声へ返事をしている場合ではなかった。
「先生は、こちらを続けてください」
マリエラさんが言った。
私は彼女を見た。
「外のお返事は、私がいたします。終わりそうかと何度も聞かれても、今は分からないと申し上げます」
「お願いします。次の方にも、こちらからお詫びとご相談を」
彼女はうなずき、静かに戸を開けた。
廊下へ出ると、戸を閉めるより先に声が聞こえた。
「ここでお尋ねになると、中の方にも聞こえます。お待ちいただく場所で、お話しさせてください」
二人の足音が遠ざかった。
ユリアさんは、私の手を見ていた。
「私のせいで、後の方が」
「今は、ユリアさんのお時間です」
言ってから、もう一度、糸を見た。
短い端は、まだそこにあった。
◇
私は外側の輪を支え直した。
下の端を、入り込んだ向きへ少し戻す。交差が緩み、人差し指へ回っていた糸が離れた。それでも親指側は、まだ解けていなかった。
ユリアさんの肩が落ちる。
「もう、よろしいのですか」
「もう少しだけ。この指のほうが、残っています」
娘さんが母親の左手へ手を添えた。
右手は動かなかった。
私は、緩んだところから次の端を抜いた。細い糸が二本に見える場所で、同じ一本が折れて戻っているのを確かめる。片方を引いて締めずに、曲がった先を指で送った。
最後の輪が開いた。
端が抜け、糸が消えた。
指と指の間まで見届けてから、私は両手を離した。
「解呪を終えました」
ユリアさんは、私を見上げた。
すぐには右手を動かさなかった。娘さんも、よかった、と先に言わなかった。
私は布を敷いたまま、指をゆっくり曲げ伸ばししていただいた。
親指が人差し指へ触れる。
一度離れ、もう一度触れた。
「ここは、痛くありません」
声が細かった。
「針も、持てますか」
「お試しになる前に、少し休みましょう。お手のほかの感じも、教えてください」
ユリアさんは、焦れたように唇を動かした。
けれど、水を勧めると受け取った。椀は左手で持ち、右手は膝へ戻さず、机に置いたままだった。
私は、痛みや違和感を確かめた。糸はない。だからといって、長く使えなかった指が今日一日で元の仕事量へ戻るとは限らなかった。
娘さんが、針包みのそばにある布を撫でた。
「ここなら、ほどいても目立たないわ」
ユリアさんが、急に娘を見た。
「試していいの?」
「お母さんの袖だもの。先生がよろしいとおっしゃったら」
私は、短く一針だけとお伝えした。
娘さんが布を置き、使う針を選んだ。母親へ渡そうと持ち上げかけてから、机へ置き直す。
ユリアさんが、自分で右手を伸ばした。
針に触れる寸前で止まった。
痛みが来るのを待っているような、短い間だった。左手で右の袖をつかみ、やがて、その手を離した。
親指と人差し指が、針を挟んだ。
「あ」
針先が持ち上がった。
娘さんが身を乗り出した。ユリアさんは首を横へ振ったが、やめてほしいという顔ではなかった。
「待って。いま、持っているの」
誰も、手を出さなかった。
ユリアさんは針を下ろし、息をついた。自分で糸を通そうとしたが、一度外れた。
娘さんが笑いかけ、それから口を押さえた。
「笑ってもいいわ。前から、一度では入らなかったでしょう」
「うん」
今度は、母親も笑った。
二度目に糸が通った。
娘さんが布の向こう側を持つ。ユリアさんの針が、縫い目の途切れていたところへ入った。布をすくい、針先が戻ってくる。
長い糸を、少しずつ引いた。
最後まで通り、短い一針が残った。
「まだ、できる」
ユリアさんは、布を見たまま言った。
もう一度針を入れようとして、止めた。約束を思い出したのか、私を見て、それから針を置いた。
「できました。先生、私、縫えました」
「はい。拝見しました」
私の返事の終わりが、少し掠れた。
ユリアさんは娘さんに布を渡そうとした。その前に娘さんの手が重なり、二人で同じところを持った。
「ここ、ほどかない」
「試しに縫ったところよ」
「ほどかない。私には分かるから」
娘さんの声が揺れた。
私は、道具を片づける手を一度止めた。二人の間にある、ほんの短い縫い目を見た。
この方に会いたいと頼んで、よかった。
その気持ちは、嬉しいという言葉だけでは狭すぎた。
◇
母娘が帰る支度をしたあと、私は廊下へ出た。
マリエラさんは、別の依頼人と話していた。中年の女性で、膝に買い物籠を載せている。レオンさんはその傍らで、予定表を持っていた。
私はお待たせしたことを詫び、今日これから診察を受けるか、別の時刻に変えるかをご相談した。
「私、急いで終わらせてほしいわけではありません」
女性は、籠の持ち手を握り直した。
「ただ、預けている店の鍵を返しに行かないと。先にそれをして、戻ってきてもいいですか」
私は今から引き受けられる範囲を考え、戻られる時刻を伺った。診察のあと、その場で処置できるかは、診てから決める。
女性はそれならと立ち、マリエラさんへ礼を言った。
扉が閉まると、レオンさんが予定表を机へ置いた。
「こうして一件ずつ延びると、部屋の時間が足りません。こちらも、空けておくだけで費用が掛かります」
「承知しています。今日、これ以上の追加は受けられません」
「まだ、ご相談は来ています」
「今の処置で、どこを省けばよかったでしょうか」
自分の声が強くなった。
レオンさんは私を見た。
「省けと言っているのではありません」
「急げば、見えなくなる端がありました。確認せずに引けば、やり直さなければなりません。私は、その時間も含めて引き受けます」
彼は予定表を閉じなかった。
私も、言ったことを引っ込めなかった。今なら急いでできると思われて、次も同じ声を聞きながら手を動かすのは嫌だった。
「お待ちの方へは、診察できる人数を私からお伝えします。今日お会いできない方のご相談は、勝手に約束せず、一度こちらへ戻してください」
レオンさんが、紙の余白へ筆を入れた。
「それなら、会場の使い方も改めてお話ししたい。今日のような手配を続けるには、こちらの仕事も知っていただかないと」
「はい。伺います」
私が答えると、彼は初めて予定表を畳んだ。
「ユリアさんが先生に会えたのは、私が紹介したからです」
胸の奥に、まだ怒りが残っていた。
けれど、その言葉の全てが嘘ではなかった。私一人で王都へ来ていたら、彼女の名さえ知らなかったかもしれない。
「ご紹介には、感謝しています」
私は答えた。
「ですから、次もきちんと診られるように、お話ししたいです」
後ろで戸が開き、ユリアさんが出てきた。
針包みは娘さんが持ち、白い布は母親の腕にあった。
右手には、もう手袋をしていなかった。
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