第76話 針を持つ日
ユリアさんは、右手に手袋をしていた。
薄い布の、指先まで隠れる手袋だった。入ってきた時にはそれを左手で覆っていたが、私が椅子を勧めると、急いで外そうとした。
中指のところで止まり、眉が寄った。
「お手伝いしても、よろしいですか」
隣にいた娘さんが、私より先に母親へ手を伸ばした。ユリアさんは少しためらってから、その手へ自分の右手を預けた。
娘さんは、母親によく似た口元を、手袋を外す間、きつく結んでいた。
布から出た指には、昔の小さな傷がいくつもあった。
「先生がお会いくださると聞いて。娘まで連れてきてしまいました」
「同席をご希望でしたら、どうぞ。お話は、この部屋の中だけで伺います」
レオンさんが戸を閉めた。
アデーレさんの仕事のあと、私が会いたいと頼んだ方だった。数週間先の大市を待っていただくのではない。今回の王都滞在で、まだ診察のできる時間があった。
私は、ご本人の同意を得て右手を診た。
人差し指と親指の付け根へ細い糸が回り、指を曲げるところで重なっている。手袋の下に傷口があるわけではなかった。
「糸がございます。言葉を読みますね」
ユリアさんが、娘さんのほうを見た。
娘さんは母親の肩へ触れず、自分の椅子を少し寄せた。
「『針を持つ右の指が痛め』。送り主は、ベルト」
名前を読み終えるより早く、ユリアさんの顎が上がった。
息を吸ったまま、私の向こうを見ている。
「ご存じの方でしょうか」
「前に働いていた店の、主人です」
娘さんの膝の上で、手袋が潰れた。
「あの人が」
「まだ、何も言わないで」
ユリアさんが遮った。娘さんの声は大きくなかった。それでも母親は、戸口へ目をやった。
私は、机に出してもらった針包みを開かなかった。
「今は、ここでお手のことを伺います。店へ行くことを、この場でお決めになる必要はございません」
ユリアさんの肩が下がった。
店を辞める前、工賃について話し合いがあったという。引き受けた仕事を納めてから辞めたのに、次の仕事で針を持とうとすると指が痛んだ。初めは疲れが出たと思った。休んでも、針を替えても同じだった。
「まだ足りないと言われたものを、戻って縫えばよかったのかもしれません」
「お母さん」
「そう思ってしまうの。夜になると」
母親が娘さんを見た。
娘さんは、言い返しかけた口を閉じた。
私には、店の工賃や約束の全ては分からなかった。けれど、右手にある言葉は、働いた分の不足を書いたものではなかった。
「この痛みについては、今、確かめられました」
私は糸の場所へ視線を戻した。
「解く処置と、送り主へ返す処置がございます。どちらをご希望になるか、説明してから」
「もう、どちらでもいいんです」
ユリアさんの右手が、私のほうへ動いた。
「針を持てるようにしていただけるなら。あとで話すことがあるなら、あとで。間に合わなくなります」
私は、伸ばされた手を机の布へ戻した。
「何に、間に合わせたいのでしょう」
ユリアさんは、娘さんの膝を見た。
潰れた手袋の下に、小さな布包みがあった。
◇
「婚礼の衣装です」
娘さんが包みを机へ置いた。
ほどくと、白に近い淡い色の布が出てきた。端には細かな縫い目の見本があり、その先が空いていた。
「まだ先です。明日着るわけではありません」
娘さんは、私へそう断ってから母親を見た。
「だから、買うこともできるのよ。全部を今から縫わなくても。あのお店で見たの、私は本当に気に入ったんだから」
「分かっているわ」
「分かっていない。買うと言うたび、私ががっかりしたみたいな顔をするもの」
ユリアさんは黙った。
娘さんの指が、縫い目の見本を避けて布を畳みかけた。
「お母さんが夜中に起きて、針を持っている音を聞くのが嫌なの。落とすたびに、私まで目が覚める。私のためだからって、そんなふうにしてほしくない」
母親の頬が赤くなった。
「あなたのためだけじゃないわ」
娘さんの手が止まった。
ユリアさんは、痛む指を握らず、広げたまま膝へ置いた。
「小さい時の服は、いつも誰かのお下がりを直したでしょう。あなたが選んだ形にできないこともあった。今度は、あなたの選んだものを縫いたかった」
「それなら、一緒に選んだでしょう」
「縫いたいの」
その声は、先ほどよりはっきりしていた。
ユリアさんは布へ左手を伸ばした。娘さんは、畳まずに待った。
「私が、あなたの袖を縫いたい。全部でなくていいの。ほかを頼むことになってもいいから、私が縫うところを、残して」
娘さんの目が見開かれた。
母親は顔を伏せず、その目を見ていた。
私は、急いでよい返事をしてあげたくなった。きっと間に合います、と。けれど、まだ手を治してもいなかった。
「まず、今ある糸を処置します。そのあと、お指の動きと痛みを確かめましょう」
ユリアさんがこちらを向いた。
「長く休んでいた手で、すぐに全てを縫えるとまでは申し上げられません。でも、今、針を持つ時の痛みを起こしている糸は、私が扱えるものです」
娘さんが布を母親の前へ戻した。
「袖は、残しておく。それでいい?」
ユリアさんは、一度だけうなずいた。
そのあとにもう一度、今度は口元を押さえながら、うなずいた。
◇
解けば糸は消える。返せば、元の送り主へ同じ作用が戻る。
私は二つの処置と、それぞれのお代を伝えた。返したあと相手がどう動くかまで、私の術で決められるわけではない。心配な接触や店との争いについては、公の相談窓口へ話せることも短く説明した。
「返したら、あの人も針を持てなくなるんですね」
「同じ言葉の作用が返ります」
ユリアさんは、白い布を見た。
「解いてください。今日は、あの人の手より、私の手を戻したい」
娘さんは何も言わなかった。
母親が娘を見ても、返すべきだとは勧めなかった。ただ、畳んだ手袋を自分の鞄へしまった。
必要な記録を残すことについて伺い、同意をいただいた。店のことで何か申し立てるかは、処置とは別に考えていただける。
私が布を畳み直すと、ユリアさんは財布を出した。
「残りは、このくらいでよろしいでしょうか」
添えられた控えには、レオンさんの店の印があった。
私の示した額とは、合わなかった。
「先にお支払いを?」
「先生へお会いするために。早くお願いするなら、もう少し必要だと伺ったのですが、そこまでは用意できなくて」
私は控えをレオンさんへ向けた。
彼は受け取ると、すぐに日付を確かめた。
「これは、面談の手配分です。先生への処置代とは別になります」
ユリアさんの左手が財布の口を閉じた。
「別、ですか」
「こちらに記載はあります。追加の手配で空き時間を探す場合には、その下の」
私も、示された行を読んだ。
処置代を含まないという文字は、紙の下のほうにあった。上には、私の名と、手配の額が並んでいる。
ユリアさんが椅子を引きかけた。
「娘の買い物の分を戻せば、足ります。今日は、相談だけに」
「お母さん、それは」
「まず、こちらの精算を確かめましょう」
レオンさんが二人の間へ言葉を入れた。
「そのあと、改めて先生のお時間を取るほうが」
「診察は、もう終えています」
私は言った。
レオンさんの指が控えの上で止まった。
「私のお代としていただいていない分を、いただいたことにはできません。その控えの内容も、あとで確かめさせてください。ただ、今、こちらの糸を解くお時間はあります」
私はユリアさんへ、通常の解呪の額をもう一度示した。
手配の支払いとは分けて、今日この処置を頼みたいか伺った。財布の中身を私に全部見せる必要はなかった。
母と娘が小声で話し合った。
娘さんが自分の財布を出そうとすると、母親はその手を押さえた。今度は、椅子から立つためではなかった。
「こちらのお代なら、私が払えます。買い物のお金を戻す必要もありません」
ユリアさんは私を見た。
「お願いします。私の手を、解いてください」
「承知しました」
私は手を洗い、彼女の右手を布へ迎えた。
レオンさんは、次の方の名が書かれた予定表を開いていた。紙の擦れる音がしたが、私はそちらを見なかった。
ユリアさんの娘さんが、白い布を丁寧に畳んだ。
縫いかけの端は、中へ隠さず、いちばん上へ残された。
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