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聖女様がいらしたので、身代わりはもう不要だそうです。では、十年分の呪いをお返ししますね。  作者: 堀吉 蔵人
第3部

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第76話 針を持つ日

 

 ユリアさんは、右手に手袋をしていた。

 薄い布の、指先まで隠れる手袋だった。入ってきた時にはそれを左手で覆っていたが、私が椅子を勧めると、急いで外そうとした。

 中指のところで止まり、眉が寄った。


「お手伝いしても、よろしいですか」


 隣にいた娘さんが、私より先に母親へ手を伸ばした。ユリアさんは少しためらってから、その手へ自分の右手を預けた。

 娘さんは、母親によく似た口元を、手袋を外す間、きつく結んでいた。

 布から出た指には、昔の小さな傷がいくつもあった。


「先生がお会いくださると聞いて。娘まで連れてきてしまいました」

「同席をご希望でしたら、どうぞ。お話は、この部屋の中だけで伺います」


 レオンさんが戸を閉めた。

 アデーレさんの仕事のあと、私が会いたいと頼んだ方だった。数週間先の大市を待っていただくのではない。今回の王都滞在で、まだ診察のできる時間があった。

 私は、ご本人の同意を得て右手を診た。

 人差し指と親指の付け根へ細い糸が回り、指を曲げるところで重なっている。手袋の下に傷口があるわけではなかった。


「糸がございます。言葉を読みますね」


 ユリアさんが、娘さんのほうを見た。

 娘さんは母親の肩へ触れず、自分の椅子を少し寄せた。


「『針を持つ右の指が痛め』。送り主は、ベルト」


 名前を読み終えるより早く、ユリアさんの顎が上がった。

 息を吸ったまま、私の向こうを見ている。


「ご存じの方でしょうか」

「前に働いていた店の、主人です」


 娘さんの膝の上で、手袋が潰れた。


「あの人が」

「まだ、何も言わないで」


 ユリアさんが遮った。娘さんの声は大きくなかった。それでも母親は、戸口へ目をやった。

 私は、机に出してもらった針包みを開かなかった。


「今は、ここでお手のことを伺います。店へ行くことを、この場でお決めになる必要はございません」


 ユリアさんの肩が下がった。

 店を辞める前、工賃について話し合いがあったという。引き受けた仕事を納めてから辞めたのに、次の仕事で針を持とうとすると指が痛んだ。初めは疲れが出たと思った。休んでも、針を替えても同じだった。


「まだ足りないと言われたものを、戻って縫えばよかったのかもしれません」

「お母さん」

「そう思ってしまうの。夜になると」


 母親が娘さんを見た。

 娘さんは、言い返しかけた口を閉じた。

 私には、店の工賃や約束の全ては分からなかった。けれど、右手にある言葉は、働いた分の不足を書いたものではなかった。


「この痛みについては、今、確かめられました」


 私は糸の場所へ視線を戻した。


「解く処置と、送り主へ返す処置がございます。どちらをご希望になるか、説明してから」

「もう、どちらでもいいんです」


 ユリアさんの右手が、私のほうへ動いた。


「針を持てるようにしていただけるなら。あとで話すことがあるなら、あとで。間に合わなくなります」


 私は、伸ばされた手を机の布へ戻した。


「何に、間に合わせたいのでしょう」


 ユリアさんは、娘さんの膝を見た。

 潰れた手袋の下に、小さな布包みがあった。


 ◇


「婚礼の衣装です」


 娘さんが包みを机へ置いた。

 ほどくと、白に近い淡い色の布が出てきた。端には細かな縫い目の見本があり、その先が空いていた。


「まだ先です。明日着るわけではありません」


 娘さんは、私へそう断ってから母親を見た。


「だから、買うこともできるのよ。全部を今から縫わなくても。あのお店で見たの、私は本当に気に入ったんだから」

「分かっているわ」

「分かっていない。買うと言うたび、私ががっかりしたみたいな顔をするもの」


 ユリアさんは黙った。

 娘さんの指が、縫い目の見本を避けて布を畳みかけた。


「お母さんが夜中に起きて、針を持っている音を聞くのが嫌なの。落とすたびに、私まで目が覚める。私のためだからって、そんなふうにしてほしくない」


 母親の頬が赤くなった。


「あなたのためだけじゃないわ」


 娘さんの手が止まった。

 ユリアさんは、痛む指を握らず、広げたまま膝へ置いた。


「小さい時の服は、いつも誰かのお下がりを直したでしょう。あなたが選んだ形にできないこともあった。今度は、あなたの選んだものを縫いたかった」

「それなら、一緒に選んだでしょう」

「縫いたいの」


 その声は、先ほどよりはっきりしていた。

 ユリアさんは布へ左手を伸ばした。娘さんは、畳まずに待った。


「私が、あなたの袖を縫いたい。全部でなくていいの。ほかを頼むことになってもいいから、私が縫うところを、残して」


 娘さんの目が見開かれた。

 母親は顔を伏せず、その目を見ていた。

 私は、急いでよい返事をしてあげたくなった。きっと間に合います、と。けれど、まだ手を治してもいなかった。


「まず、今ある糸を処置します。そのあと、お指の動きと痛みを確かめましょう」


 ユリアさんがこちらを向いた。


「長く休んでいた手で、すぐに全てを縫えるとまでは申し上げられません。でも、今、針を持つ時の痛みを起こしている糸は、私が扱えるものです」


 娘さんが布を母親の前へ戻した。


「袖は、残しておく。それでいい?」


 ユリアさんは、一度だけうなずいた。

 そのあとにもう一度、今度は口元を押さえながら、うなずいた。


 ◇


 解けば糸は消える。返せば、元の送り主へ同じ作用が戻る。

 私は二つの処置と、それぞれのお代を伝えた。返したあと相手がどう動くかまで、私の術で決められるわけではない。心配な接触や店との争いについては、公の相談窓口へ話せることも短く説明した。


「返したら、あの人も針を持てなくなるんですね」

「同じ言葉の作用が返ります」


 ユリアさんは、白い布を見た。


「解いてください。今日は、あの人の手より、私の手を戻したい」


 娘さんは何も言わなかった。

 母親が娘を見ても、返すべきだとは勧めなかった。ただ、畳んだ手袋を自分の鞄へしまった。

 必要な記録を残すことについて伺い、同意をいただいた。店のことで何か申し立てるかは、処置とは別に考えていただける。

 私が布を畳み直すと、ユリアさんは財布を出した。


「残りは、このくらいでよろしいでしょうか」


 添えられた控えには、レオンさんの店の印があった。

 私の示した額とは、合わなかった。


「先にお支払いを?」

「先生へお会いするために。早くお願いするなら、もう少し必要だと伺ったのですが、そこまでは用意できなくて」


 私は控えをレオンさんへ向けた。

 彼は受け取ると、すぐに日付を確かめた。


「これは、面談の手配分です。先生への処置代とは別になります」


 ユリアさんの左手が財布の口を閉じた。


「別、ですか」

「こちらに記載はあります。追加の手配で空き時間を探す場合には、その下の」


 私も、示された行を読んだ。

 処置代を含まないという文字は、紙の下のほうにあった。上には、私の名と、手配の額が並んでいる。

 ユリアさんが椅子を引きかけた。


「娘の買い物の分を戻せば、足ります。今日は、相談だけに」

「お母さん、それは」

「まず、こちらの精算を確かめましょう」


 レオンさんが二人の間へ言葉を入れた。


「そのあと、改めて先生のお時間を取るほうが」

「診察は、もう終えています」


 私は言った。

 レオンさんの指が控えの上で止まった。


「私のお代としていただいていない分を、いただいたことにはできません。その控えの内容も、あとで確かめさせてください。ただ、今、こちらの糸を解くお時間はあります」


 私はユリアさんへ、通常の解呪の額をもう一度示した。

 手配の支払いとは分けて、今日この処置を頼みたいか伺った。財布の中身を私に全部見せる必要はなかった。

 母と娘が小声で話し合った。

 娘さんが自分の財布を出そうとすると、母親はその手を押さえた。今度は、椅子から立つためではなかった。


「こちらのお代なら、私が払えます。買い物のお金を戻す必要もありません」


 ユリアさんは私を見た。


「お願いします。私の手を、解いてください」

「承知しました」


 私は手を洗い、彼女の右手を布へ迎えた。

 レオンさんは、次の方の名が書かれた予定表を開いていた。紙の擦れる音がしたが、私はそちらを見なかった。

 ユリアさんの娘さんが、白い布を丁寧に畳んだ。

 縫いかけの端は、中へ隠さず、いちばん上へ残された。


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