第75話 次は私の名で
アデーレさんは、楽器を手放すつもりだったと言った。
机へ置いた譜面の角を、左手で揃えながらだった。
「今日、診ていただいても何もできなければ。持っているだけで弾けないなら、別の人に使ってもらうほうがいいと思ったんです」
窓から少し離れた椅子に、布を掛けたリュートが置かれていた。
私が来るまでしまっておこうとして、結局、出してしまったのだという。
「触らない日は、少し気が楽でした。でも、音まで忘れそうになって」
アデーレさんは右手を机へ載せた。
薬指の付け根から手首へ、糸が絡んでいる。一本だけを曲げようとすると、つながる指まで引き止められるように固くなった。
マリエラさんの同席を改めて確かめ、レオンさんには連絡の役目を終えたところで外へ出てもらった。本人が望まない相手へ、ここで読む言葉を聞かせる必要はなかった。
私は糸の向きをたどり、結び目の奥を確かめた。
「『右の指を曲げるたび、痛め』。送り主は、ヴァルターさんと読めます」
アデーレさんの顔が、はっきり変わった。
「以前、一緒に仕事をしていた人です。あの人の組から離れて、別のお話を受けた時に、揉めました」
譜面を押さえていた左手が、紙を机の向こうへ押した。
「あちらへ戻れば、また弾けるようになるかもしれないと、言われたことがあります。私は、そんなことを信じて戻るものかと……でも、何も弾けない日が続くと」
私は動きの確認に使った布を、右手の下へ戻した。
「ここにある糸は、解くことができます。返却を選ぶこともできます。それぞれの違いを、ご説明します」
アデーレさんは最後まで聞き、料金も確かめた。
返したあとに何が起こるかまで、私が保証できるとは言わなかった。今ある呪いをどうするかと、相手との仕事の問題をどう扱うかは、別に相談できる。
「今日は、解いてください」
彼女は譜面を自分の前へ戻した。
「戻ってあの人に弾かせてもらうのでなく、私が弾けるかどうか、確かめたい」
「承知しました」
私は袖口を上げてもらい、処置を始めた。
◇
糸は右の薬指のそばで折れ、隣の指へ続く輪に重なっていた。
端だけを引けば、細い輪が指の付け根へ締まる。私は手首を置く台を少し上げ、結び目を正面から見られる位置へ移った。
外側を支え、重なっている輪を一つよける。
アデーレさんは自分の指が動くか確かめようとしたが、途中で気づいて止めた。
「すみません。つい」
「今は、動かさずにいてください。終わりましたら、一緒に確かめましょう」
彼女は頷き、目を譜面へ向けた。
私は輪の内側へ通っている端を抜いた。一つ解けると、隣の輪が広くなる。広くなったからといって、先に全部を引き出さず、残っている結びの向きを確かめる。
マリエラさんは私の斜め横から見ていた。次の布を渡してくれる位置にいても、糸を持つ役は引き受けていない。
最後の小さな結び目が、薬指の脇に残った。
私はそこへ指を添え、折り込まれていた端を戻した。
糸がほどけ、消えた。
「終わりました」
アデーレさんは、すぐには右手を見なかった。
私が残りのないことを確かめ、ゆっくり一度だけ曲げてみるよう伝えると、ようやく机へ視線を戻した。
指が曲がった。
その途中で、彼女が泣きそうな顔をしたので、痛むのか尋ねた。
「いいえ。痛く、ないんです」
今度は自分で、指を開いた。
何度も繰り返さず、休んでから確かめてもらった。呪いが消えたことと、休んでいた手が長い演奏に耐えられることは、同じではなかった。
アデーレさんは分かったと答え、リュートのほうを見た。
「少しだけ、弾いても?」
「痛みや違和感がない範囲で、短く。途中で疲れたら、そこでおやめください」
マリエラさんが布を取ると、磨かれた木の胴が現れた。
アデーレさんは楽器を受け取り、膝へ載せた。座り直し、弦に触れるまでに、思っていたより長くかかった。
最初の音は、弱かった。
彼女は顔をしかめたが、痛みではないと自分から言った。
「こんな音では、なかったのに」
もう一度、弦に指を置いた。
次の音は少し深く響いた。続いて、譜面の最初の一節が部屋に流れた。
途中で一つ、音が抜けた。アデーレさんはそこでもう一度始めようとして、やめた。楽器を膝に置いたまま、顔を上げる。
「間違えました」
笑っていた。
「私が、間違えました。痛くて止まったんじゃない」
私も笑った。
返事をする前に、アデーレさんの目から涙が落ちた。彼女は楽器へこぼさないよう顔を横へ向け、笑うのをやめないまま、マリエラさんから布を受け取った。
「もう売りません。あの人のところへも、戻りません」
私は、はい、と答えた。
弾けた音は短かった。けれど、その短さの中に、ここへ来たいと思った理由が全部あった。
◇
少し休んでもらい、手の様子をもう一度診た。
糸は残っていない。演奏を戻す時は少しずつにすることと、気になる変化があれば連絡することを伝えた。
アデーレさんがレオンさんを呼んでよいと言ったので、マリエラさんが戸を開けた。
レオンさんは楽器が外に出ているのを見ると、嬉しそうに目を細めた。
「弾けたのですね」
「少しだけ。でも、自分で」
彼女は笑い、用意してあった代金を出した。
治療のお代と、先に決めた出張の経費を確かめて受け取る。レオンさんへの紹介と手配の分は、別に決めたとおり扱われた。
私の仕事のお代から、誰かの苦労を理由に勝手に引かれることはなかった。
「ありがとうございました。演奏を聴いていただける日が来たら、私からお知らせしてもよろしいですか」
「はい。楽しみにしております」
そう答えると、本当に楽しみになった。
また誰かを治すためだけではなく、この人が弾く音を聞くために来られる日がある。
アデーレさんは私の連絡先を受け取り、楽器の布を自分で掛けた。譜面はしまわず、上へ載せて帰っていった。
◇
部屋を片づけたあと、レオンさんは次の相談を持ち出した。
「大市まで、四週間ほどです。あの時期なら、王都だけでなく、各地のお客様にも先生を知っていただける」
私は受け取った代金の袋を鞄へ入れた。
ミーナさんの布が次の見本の注文を呼んだ時と、似ていた。今、できた仕事から、次の仕事が出てきている。
「紹介の場を、用意できますか」
尋ねると、レオンさんが顔を上げた。
「もちろん。どのような方に、お会いになりたいですか」
私は一度、マリエラさんを見た。
彼女は片づけの手を止め、話を聞いていた。まだ私の考えを知らない顔だったので、まず二人へ同じように伝えた。
「次は、診療の日そのものを、私の名で出したいです」
言い終えると、胸が熱くなった。
誰かの依頼を待つだけではない。私がその日を作り、来てほしいと知らせる。そのための部屋代も、自分で使う時間も要る。
「初めは、少人数の予約制にします。人前で処置を見せるのではなく、一人ずつお会いして、私が扱えるものか、ご本人が何を望むかを確かめたい。受ける人数と処置は、私が決めます」
「大市のお客様を、診るのですね」
「大市へ来る方に、私の仕事を知っていただきたいです。そこで一度きりでなく、また困った時に頼もうと思っていただける仕事をしたいんです」
声に出すうちに、欲しかったことがはっきりした。
私はアデーレさんの最初の音を思い出していた。あの音を聞いたあとで、もうこれだけで十分だとは思えなかった。
マリエラさんが口を開いた。
「私は、今日のように支度と経過の確認を担当できます。先生が診ている間に、次の方へお待ちいただく説明も」
「ありがとうございます。ご一緒に、どこまでできるか決めたいです」
レオンさんは紙を広げた。
「会場の候補を探しましょう。知らせる先も、私に任せてください。どなたを呼ぶかは、こちらで」
「私も、面談する相手を選びます」
私はそこで言った。
彼は筆を止めたが、すぐに頷いた。
「候補をお見せします。そのほうが、先生のお考えに合うでしょう」
今の一言には、少し強い響きがあった。それでも、まだ何も勝手に決められてはいない。私は会場費の見積りを見てから承諾することを伝え、自分の手帳へ、大市の診療日、と書いた。
◇
帰り際、レオンさんが、今回の滞在中にも面談を希望している人がいると話した。
縫い手のユリアさんという方だった。
「急ぎたいようですが、追加の優先料は難しいとのことで。ほかの方の予定が決まるまで、お待ちいただいています」
私は手帳を閉じかけて、やめた。
「その方は、何を希望していらっしゃるのですか」
「針を持つ手を診てほしいと。先生へ会うための手配は、すでに依頼されています」
治療を受けられると約束したのか尋ねると、面談の相談までだと答えた。金の詳しい扱いは、本人の控えも見なければ分からなかった。
明日は、あらかじめ相談に使えると確認してあった時間があった。王宮の仕事とも、休みとも重ならない。
「追加の優先料を払う方しか、会えないのですか」
「そういうわけではありません。早い時間をご希望なら、という話です」
「では、明日、私がお会いしたいです。ご本人が来られるか、確かめていただけますか」
レオンさんは一度予定を見て、連絡すると答えた。
まだ告知していない大市の予約とは、別の一件だった。私はそのことも確かめ、本人から受ける話として手帳へ書いた。
その日のうちに、明日伺いたいとの返事が来た。
私は大市の頁をもう一度開いた。自分の名で書いた予定は、さっきと同じ場所にあった。
その前に、明日、会いたい人がいる。
針を持てないその人が、何を縫いたいのか。今度は私から、聞きに行くのだった。
(第二部完)第三部につづきます
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