第74話 私の仕事を見たい人
帰りの道を経て、ミルデへ着いた時には、蹄鉄亭の食堂に灯りがついていた。
戸を開けると、ヒルデさんが帳場から顔を上げた。
「おかえり。二人とも、先に鞄を置いておいで」
私は返事をする前に、笑ってしまった。
部屋があるかと尋ねる必要はなかった。腰の袋から鍵を出すと、ヒルデさんはいつもの階段を指した。
「夕飯は?」
「いただきます」
マリエラさんと声が重なった。
部屋では、置いていった服が引き出しに収まっていた。机の上へ鞄を載せず、私は青い布の包みを開いた。
白に近い細い筋を、窓のほうへ向ける。
「そちらを少し、お願いできますか」
マリエラさんと端を引き、引き出しを塞がないように整えた。
水の椀を置くと、木に当たる音が柔らかくなった。私はもう一度だけ、椀を持ち上げて置いた。
「気に入りました?」
「はい。買ってよかったです」
布を選んだ時には、ここでこんなふうに言える日が来るか、分からなかった。
その夜は仕事の記録を開かなかった。翌日も看板を出さず、約束していた休みを取った。村で何をできたかだけでなく、何もせず過ごす一日も、この部屋へ持って帰れた。
◇
診療を再開して数日たった午後、ヒルデさんが来客を知らせに来た。
前もって届いた面談希望の便りに返事をした、仲介商のレオンさんだった。ベルク村の布を買った側の人から、私の仕事を紹介されたという。
食堂の隅の卓で待っていたのは、持ち物をきちんと小さくまとめた男性だった。私たちが座れるよう、隣の椅子へ置いていた鞄を先に下ろす。
「ノエラ・カーヴェル先生ですね。お時間をいただき、ありがとうございます」
レオンさんは名乗り、紹介者から預かった挨拶を述べた。
村の患者の病状を、知っているふうには話さなかった。伝わっていたのは、私が解呪と返却を仕事にしていることと、本人の希望を聞いて受けるということだった。
「王都に、先生へ手を診ていただきたい方がおられます。音楽家のアデーレさんです」
卓へ一通の手紙が置かれた。
代筆ではなく、本人が短く書いた依頼だった。指が思うように動かず、楽器を弾く時に痛むこと。呪いではないかと考えていること。まずは診てもらい、何ができるか知りたいとあった。
「ご本人から、こちらをお渡しする許しをいただいております。詳しい事情は、会ってからお話ししたいそうです」
私は手紙を最後まで読んだ。
読める字だったが、途中から行が下がっていた。最初のほうに比べ、結びの署名は小さくなっている。
「いつから、症状があるのでしょう」
「その点も、ご本人に確かめていただくほうがよいでしょう。私が聞いているのは、お仕事の予定を取りやめ、今は休んでいるということまでです」
知らないことを、埋めて話す人ではなかった。
レオンさんは次に、出張に必要な経費と治療料の扱いを示した。私が事前に伝えた通常の料金を、そのまま本人へ知らせてある。診察の結果によって処置を受けない場合の費用も、分けて確認したいという。
私はその紙をマリエラさんと見た。
ただ助けてほしいと呼ばれるのではなかった。仕事として来てほしいと、こちらが動くための準備までしてくれていた。
「どうして、私へ」
尋ねてから、少し恥ずかしくなった。
レオンさんは笑わずに答えた。
「治療のあとも、ご本人が自分で仕事を選べるようになったと伺いました。アデーレさんも、また弾きたいのだそうです。先生のなさる仕事は、その方の望みに合うかもしれない」
私は手紙へ目を戻した。
もう一度弾きたい、とそこにも書かれていた。
会ったことのない人の文字なのに、読み返すと、私までその一節を聞きたくなった。
◇
レオンさんには少し待ってもらい、私はマリエラさんと部屋へ上がった。
次の王宮の依頼日は、すでに相手と決めてある。三日ずつ受ける仕事の範囲も、その前後の移動と休みも、手帳に残してあった。
新しい依頼をそこへ押し込むのではなく、別に使える日を確かめる。
「先生は、受けたいですか」
マリエラさんが尋ねた。
私は王宮へ行く予定があるので、と答えかけた。それなら都合がよい、という理由を先に言おうとしていた。
「はい。あの方の手を、診たいです」
自分で言ってみると、その返事がいちばん近かった。
「まだ呪いかどうかも、分かりませんけれど。私に扱えるものなら、あの方が弾くところを見たいと思いました」
「私も、ご本人がよろしければ、拝見したいです」
マリエラさんが手帳を覗いた。
「ただ、王宮のお仕事のあとに、すぐ詰め込むのは」
「やめましょう。休む日を移さずに、別の日をお聞きします」
私は候補を一つ書いた。
家の古い記録も、今度の王都滞在で閲覧の相談をするつもりだった。収入だけでなく、授業に使った費用と、宮廷で働いた日を見たい。そのための時間まで、最初からなくすことはしたくなかった。
けれど、空いているところを全部守るために、新しい仕事を断りたいわけでもない。
マリエラさんが、ここなら、と一日を指した。
私は頷き、手帳を持って階下へ戻った。
◇
レオンさんは候補日を聞くと、自分の紙へ書き写した。
「お返事が来てから、移動と部屋を確定します。診る場所は、ご自宅とは別に、静かな部屋を用意できます」
「同席する方は、ご本人に決めていただきたいです」
「承知しました」
「私の弟子が見学することも、先に伺ってください。お嫌でしたら、外で待ちます」
彼はその点も書いた。
私は最後に、まだ気になっていたことを伝えた。
「今回、一件をお引き受けするお話です。伺った日に、その場で別の方を何人も診るお約束はできません」
レオンさんの筆が止まった。
「王都では、先生を待っている方もいます。せっかくお越しになるなら」
「まずは、アデーレさんを診ます。ほかのご相談は、日程と内容を伺ってから、私がお返事します」
声が小さくならないよう、私は彼を見た。
レオンさんは少し考え、紙の端へ書き足した。
「分かりました。追加のお約束はしない。紹介だけでよければ、お話を持ってくることはできますね」
「はい。それは、お願いします」
彼は笑った。
「では、まず最初の一件を、気持ちよく終えましょう」
その言い方が、私は好きだった。
すべてを預けるとは言っていない。それでも、一人で探し回らなくてよい部屋があり、本人へ届く連絡がある。警戒するだけでは、使わずに終えてしまう助けだった。
◇
本人から了承の返事が届き、移動の支度を整えてから、私たちは王都へ向かった。
蹄鉄亭の部屋は、そのまま残した。青い布の上には何も積まず、帰った日にまた椀を置けるようにして出た。
予定した日に王都へ着くと、レオンさんが知らせてくれた宿には部屋が取ってあった。荷を下ろす場所も、翌日の連絡先も分かり、誰に尋ねればよいか迷わずに済んだ。
王宮での仕事と決めていた休みを終え、約束の日を迎えた。
家の記録の閲覧は、必要な紙を揃えるために改めて相談することになった。分からないことは残っていたが、今日、それを急いで片づける必要はなかった。
診察のために用意された部屋は、窓が大きかった。
机には清潔な布があり、腕を置く台は高さを変えられる。椅子の背には飾りが少なく、座る人の袖を引っ掛けるものもなかった。
「先生から伺ったものは、こちらで揃っているでしょうか」
レオンさんが尋ねる。
私は窓からの光を確かめ、台を少し動かした。
「はい。使いやすいです。ありがとうございます」
マリエラさんも水の場所を確かめていた。初めての部屋なのに、処置に必要な支度へすぐ取り掛かれた。
戸が叩かれたのは、その時だった。
アデーレさんは自分で入ってきた。片腕に薄い譜面を抱え、右手は、その端へ添えるだけにしている。
「これを、持ってきてもよかったでしょうか」
挨拶を終えてから、彼女が尋ねた。
譜面の端は擦れ、書き込まれた印が幾つもあった。
「もう一度、最初のところだけでも弾きたいんです」
私は椅子を勧めた。
「はい。どのような時にお困りになるか、そこから聞かせてください」
アデーレさんは譜面を机へ置いた。
私の目の前へ差し出された右手は、きれいに揃えようとしても、一本だけ指が曲がらなかった。
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