第73話 行ってきますを聞く
ハンナさんの鞄は、机から持ち上がらなかった。
片側の持ち手だけが伸び、底は布の上に残っている。彼女は父親を見て、もう一度、両手で持ち上げた。
「お父さん。これでは、隣領まで行けない」
エーリクさんは、さっき自分が入れた定規を見た。
「丈夫なほうがいいと思ったんだ」
「丈夫なのは、分かるけれど」
私が来てからだけでも、刷毛が一本、糸巻きが二つ増えていた。ハンナさんは鞄を開け、借りられると確かめた道具から外へ出した。
六か月の修業へ行く荷だった。家の工房を、丸ごと運ぶためのものではない。
エーリクさんは定規を棚へ戻し、刷毛を二本並べた。
「どちらにする」
「こっち。いつも使っているほう」
「そうだな」
娘が選んだ一本を、父親が布で包んだ。
それでも最後に、短い紐を持ってきた。布の幅や張りを確かめるために使っていた、普通の仕事道具だった。
「これなら、重くない」
ハンナさんは端の曲がったところを見て笑った。
「まだ、残していたの」
「お前が、これなら向きが分かると言ったんだろう」
娘が受け取り、両端を持つ。父親は張りを直そうと指を伸ばし、途中で下ろした。
「向こうで、知らないやり方を見てこい」
ハンナさんの笑いが止まった。
「俺に合わせて、分かったふりをしなくていい。分からなかったら、聞け」
「うん」
「それで、覚えたものを」
エーリクさんはそこで言葉を切り、娘の鞄へ目を落とした。
「いつか、俺にも見せてくれ」
ハンナさんは紐を巻いた。
「帰ってきたら。お父さんの知らない織り方を、一つは見せる」
父親が、楽しみにしている、と答えた。
私は包み布の角を揃えた。二人が選び終えた道具だけを包むと、鞄はハンナさん一人で持ち上がった。
◇
道中の食べ物を受け取る時、ハンナさんは自分の財布を出した。
「昨日の分、少し置いていこうか。新しい見本にも、糸が要るでしょう」
「それは、あなたが働いた分です」
ミーナさんは財布を娘のほうへ押し戻した。
「こちらは二人でできる仕事を選ぶ。旅費も、あなたのお金を返してもらうつもりで用意したのではないよ」
「でも」
「向こうで見たいものがあったら、見ておいで。食べたいものも、自分で買って」
ハンナさんは財布をしまい、母親を抱いた。
ミーナさんは最初、パンの包みを持ったままだった。片手を空けて背中へ回すと、娘が顔を上げる前に、その髪を一度撫でた。
「困った時も、書いてね」
「うん。うまくできなかったことも」
乗り場では、マリエラさんが待っていた。
荷を載せる場所を確かめ、ハンナさんは御者の助けを借りて上がる。エーリクさんは鞄の底を支えたが、娘が受け取るとすぐに離した。
「着いたら、知らせてくれ」
「向こうの部屋から書くね」
車が動き出す直前、ハンナさんは私たちにも手を振った。
「行ってきます!」
大きな声だった。
ミーナさんが返事をし、エーリクさんも片手を上げた。ハンナさんはそれを見ると、もう一度笑って、進む道へ顔を向けた。
寂しさは、思っていたより急に来た。毎日あの工房にいた人が、もう今日は戻ってこない。
隣でミーナさんが鼻をすすった。エーリクさんが妻を見ると、彼女は、埃よ、と言った。
「そうか」
「あなたも、ずいぶん目に入ったようね」
夫婦は笑い、しばらく道を見ていた。
◇
マリエラさんはそのまま、母親との約束へ向かった。
今日は丸一日、ユッタさんと過ごす日だった。乗り場へ見送りに来る前から、二人で決めていた。
私は会所で世話役に挨拶をし、明日の出立を知らせた。
世話役は惜しむように頷き、机へ小さな鍵を置いた。
「空いている家を使ってもらえる話がありましてね。ここに住んでいただければ、皆も安心できます」
私は鍵を見た。
歓迎されることは嬉しかった。来なければよかったと言われるのが怖かった場所で、いてほしいと言ってもらえる。昨日の謝罪と同じくらい、胸に響くものがあった。
「いつでも先生に診てもらえるなら、もう手を出そうとする者も」
「ここへ住むことは、できません」
途中で遮る声になった。
私は顔を上げ、改めて言った。
「ミルデの部屋へ帰ります。そちらの仕事も、暮らしも続けたいんです」
世話役は、そうですか、と鍵を見た。
私は寂しそうな顔を見て、もう少し残ると言いかけた。けれど、明日の出立を変えれば、マリエラさんの今日一日まで、ただの待ち時間になってしまう。
「日を限って、基礎を一緒に練習することなら、試してみたいと思っています。まずは図と普通の紐を使うところから」
「こちらで働きながらでも?」
「はい。来られる時間を伺ってから、無理のない形を考えたいです。すぐに治療ができる講習ではありませんが」
世話役は鍵をしまい、今の仕事をやめずに習いたい人がいると話した。
その人たちの都合を聞いておく、と言ってくれたので、私は費用も含めて相談すると答えた。何もかも今日決めてしまわずに、次の仕事の話ができた。
◇
夕方、ユッタさんの家へ戻ると、台所から笑い声がした。
母娘は小川の道を歩き、市へ寄ってきたという。マリエラさんは髪につけたまま歩いていた葉を見せ、母はもっと早く教えてくれればよかったのに、と笑っていた。
「お仕事の話ばかりでは、なかったのですね」
私が言うと、ユッタさんが頷いた。
「靴を流した時の話も。本人は、置いた場所が悪かっただけだと言い張るんですよ」
「実際に、そうだったんです」
マリエラさんが真面目な顔で答えたので、私は笑ってしまった。
食後、彼女は自分から、先日の処置で確かめ直せたことを母親へ話した。患者の名や送り主の事情ではなく、自分がどこで迷い、何をできたかを。
ユッタさんは聞き終えてから、夜は眠れているか、と尋ねた。
「はい。先生に、続きを朝にしてもらうこともあります」
「私が止められておりますね」
そう答えると、母娘が同じ顔で笑った。
帰る支度は、食事のあとに終えた。マリエラさんは鞄を閉じてから母親の前へ戻り、今度は何も持たずに抱きついた。
「帰ってこられて、よかったです」
ユッタさんは背中を抱き、急いで離れなかった。
私は二人を待ちながら、自分の鞄の上へ青い布の包みを載せた。
◇
翌朝、出立の前に、工房で残る支払いの確認へ立ち会った。
本人たちが前日までに合意した損害賠償を、担当者が持ってきたのだった。先に全額受け取った未払いの二口と、エッダさんの仕上げ賃を、再び数え直す話ではなかった。
働けなかった間の確認できる損失、無駄になった材料や余分な運搬の費用、それぞれが支払った処置の代金。ミーナさんとエッダさんが自分の控えと照らし、合意した残額を全額受け取った。
ゲルトさんの責任を記した通知も渡された。苦情を十分に確かめなかった領主側の責任と、負担する費用も消されていなかった。
エッダさんは署名を終え、紙を自分の鞄へ入れた。
「なかったことには、されませんでしたね」
ミーナさんが、ええ、と答えた。
私が紙を預かる必要はなかった。二人は連絡先を確かめ、今日の支払いで終えたものを、自分たちで片づけた。
工房を出る時、ミーナさんが見本の包みを見せてくれた。
「六週間ほど先に、王都で大市があるそうです。次の見本を、あちらでも見てもらいたいと思って」
私は驚いて、彼女を見た。
「全部を賭けて持っていくのではないよ。出せる量と、留守にする日数と、運ぶ費用を先に確かめます。今度の買い手さんが、少ない見本でも扱えるところを教えてくれるそうだから」
エーリクさんは隣で、柔らかい縁の試し織りを持っていた。
ハンナさんのいなくなった場所を埋めるのではなく、二人でできるものを選び始めている。
帰りの荷の確認に来ていた買い手側の人が、私にも声を掛けた。
「先生のお仕事も、ほかで紹介してよろしいですか。診てもらえる方を探している知人がおりまして」
私は了承する前に、どんなことを伝えるかを尋ねた。
私の名、ミルデの連絡先、解呪と返却を扱い、処置は本人を診てから決めること。その業務の範囲なら構わないと答えた。患者の名前や、この村で読んだ言葉を紹介に使うことは認めなかった。
「では、ご本人から相談が来るようにします」
その返事を聞き、私は礼を言った。
道の分かれ目では、トーマさんも見送ってくれた。マリエラさんへ、また見せておくれ、と言い、彼女も、はい、と大きく頷く。
誰も、ここに残らなければ駄目だとは言わなかった。
私は何度か振り返りながら、マリエラさんと帰る道を歩いた。村に置いていく仕事があり、ミルデには、帰ってから自分で敷きたい布があった。
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