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聖女様がいらしたので、身代わりはもう不要だそうです。では、十年分の呪いをお返ししますね。  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第72話 あの人を待たずに

 

 荷車が見えなくなってから、エーリクさんは二度、道の角へ目をやった。

 ミーナさんが持っていった見本の包みを気にしているのだと思った。けれど、彼が尋ねたのは違うことだった。


「もし、向こうで断られたら」


 ハンナさんが顔を上げた。


「受け取ると約束してくれたでしょう」

「ああ。だが、実際に布を見て、気が変わることだってある」


 私も、さっきまで同じことを考えていた。

 ゲルトさんの印を待たずに出せた。仕事を止められず、エッダさんも自分で決めた分を仕上げた。ここまでできたことは、どれも確かだった。それでも、荷がそのまま戻ってきたらと思うと、治った日の喜びまで遠くなりそうだった。

 エーリクさんは私を見て、何か言いかけた。

 私は答えを用意できず、その場に立っていた。


「お父さん、これ」


 ハンナさんが工房から、古い毛織物を持ってきた。


「お母さんが戻るまでに、直しておくんでしょう」


 端が裂け、ほつれた糸が垂れていた。父親はそれを受け取り、傷んでいる場所を広げた。


「この色は、残っていたか」

「探しておいた。近いのが二つある」


 二人は作業台へ向かった。

 私が手伝う場所はなかった。だからといって、ここを去ったら見捨てたことになるわけでもない。私は午後の予定だけを伝え、いったんユッタさんの家へ戻った。

 道で、先ほどの問いを何度も思い出した。

 買ってもらえるとは、私には言えない。そう答えることはできたはずなのに、あの場では声にならなかった。

 私はまだ、エーリクさんの言葉を怖がっていた。


 ◇


 翌日の夕方、私はマリエラさんと工房で帰りを待っていた。

 直した毛織物は、台の上に広げてある。ハンナさんが最後の糸を短く切り、父親に見せた。エーリクさんは頷いたものの、次の瞬間には戸口を見ていた。

 外で車輪が石を踏む音がした。

 ハンナさんが駆け出す。私は椅子に鞄を残したまま、そのあとを追った。


「全部、買ってもらえた!」


 ミーナさんは、荷車から下りる前に言った。

 顔も上着も埃をかぶっていた。けれど、あれほどはっきり笑うところを、この村へ来てから見たことがなかった。


「全部?」


 ハンナさんが聞き返す。


「そう。持っていった分、全部」


 ミーナさんが鞄を渡すと、エーリクさんは両腕で受け取った。軽くなった荷台には、売るために積んだ包みがなかった。残っているのは、見本を包んだ布と道中の荷だけだった。

 私の隣で、マリエラさんが笑った。

 その顔を見て初めて、自分も笑っているのだと分かった。


「縁は、何も言われなかったか」


 エーリクさんが尋ねた。

 ミーナさんは地面へ下り、鞄の口を開いた。


「次はもっと柔らかくできるかって。二枚重ねに使うものも、見てみたいそうよ」


 夫の顔から笑みが消えかけたので、彼女はすぐ、違うの、と続けた。


「今回の品は、約束どおり受け取った。そのうえで、次の見本を頼みたいと言われたの。前の値段のまま、勝手に変える話ではないよ」

「試す分も、仕事として?」

「もちろん。そこを確かめてきました」


 ミーナさんが見本を広げる。

 エーリクさんは縁を折り、裏を見た。ハンナさんも並んでのぞき込む。


「ここの糸を替えるだけでは、揃わないな」

「そう言うと思った。だから、帰って織る人と相談するって答えたの」


 夫婦が顔を見合わせた。

 頼まれたから全部するのでも、怖いから最初に断るのでもない。まず試す分を、自分たちの仕事として受けられる。

 私は広げられた布に見入っていた。昨日まで心配していた同じ縁が、もう次の注文の話になっていた。


「それから」


 ミーナさんは鞄の底から袋を出した。


「こちらも、全額。置いてきていませんよ」


 袋が動くと、硬貨が鳴った。

 エーリクさんが、そうか、と答える。その声だけが、ひどく頼りなく聞こえた。


 ◇


 まず御者へ、約束の運搬費が支払われた。

 他の小口の荷と分け合った、この家の負担分だった。次も運んでもらいたいとミーナさんが話すと、御者は日と量が決まったら知らせてくれと答えた。

 工房へ入る頃には、エッダさんと、台を貸してくれた職人も来ていた。

 ミーナさんは納品と受領の控えを夫と確かめ、それぞれが働いた分を渡していく。今日は支払う日だと、出発前から約束していたのだという。

 職人は代金を受け取り、今夜は子供を迎えに行くからと立ち上がった。


「次の仕上げも、日が合えば声を掛けてくれ」


 エーリクさんが礼を言い、戸まで送る。

 エッダさんは受け取った控えを読んでから、自分の袋へしまった。


「今度は、働いたあとに、ちゃんと来ましたね」


 ミーナさんが、ええ、と答えた。

 以前の未払いを取り戻した金とは違う。今回、自分で引き受け、自分で終えた仕事の代金だった。


「妹が、今日は卵を買おうと言うんです。焼いたのが食べたいって」

「エッダさんは、何を?」


 私が尋ねると、彼女は少し考えてから笑った。


「私は、肉を。妹には、半分ずつと言ってあります。今度は、先に食べられないように」


 鞄を持つ右手には、もう力が入りすぎていなかった。エッダさんは妹さんとの待ち合わせへ帰り、空いた椅子へハンナさんが座る。

 彼女の分も、母親は別にしていた。


「最後の一枚も、受け取ってもらえたよ」


 ミーナさんは金を渡す時に、そう言った。

 ハンナさんは財布を開きかけた姿勢で止まった。


「端を、見た?」

「見た。広げて、裏も表も。よく揃っていると言ってもらえた」


 娘は下を向き、しばらく財布へ入れられなかった。

 その横で、マリエラさんが嬉しそうに笑っていた。出荷の前日、二人が別々の仕事を終えて見せ合った時よりも、ずっと明るい笑い方だった。

 材料代を戻し、頼んだ人たちの対価を払っても、家に残る分があった。

 エーリクさんはそれを見て、椅子に腰を下ろした。疲れたというより、ようやく座ってよいと分かったようだった。


 ◇


「先生」


 呼ばれた時、私は夕食の皿を取ろうとしていた。

 エーリクさんは立ち上がり、こちらを向いた。


「あの朝は、あなたに言うことではなかった」


 皿を持ったまま、私は動けなくなった。


「来てくださらなければ、と言った。治った時は、あれほど嬉しかったのに。荷を断られた腹立ちを、先生へ向けた」


 私は、いいえ、と言いかけた。

 けれど、それは違った。

 あの朝の私は傷ついた。食事を出してもらっても、何を食べているのか分からなかった。自分がした仕事が、この家へ来たことごと間違いだったのではないかと思った。

 今、何もなかったように笑ったら、彼が言おうとしていることまで消してしまう。


「昨日も、向こうで断られたらと、また先生を見た。買うかどうかを決める人でもないのに」


 エーリクさんが頭を下げた。


「すまなかった。来てくれて、助かった」


 私は皿を机へ置いた。

 音を立てないように置いたつもりだったが、少し鳴った。


「……あの日は、悲しかったです」


 エーリクさんが顔を上げた。


「治って嬉しかったと、私まで言えなくなりました」


 ミーナさんは何も言わず、そこにいてくれた。


「今、そう言っていただけて、嬉しいです。私も、お仕事ができるようになって、嬉しかったんです」


 後ろの言葉ほど、うまく出なかった。

 エーリクさんはもう一度うなずいた。許すとか、もうよいとか、私は言わなかった。それでも、彼がもう一度座った時には、私も同じ卓へ座れた。


「お前にも、助けられた」


 今度は妻へ言った。

 ミーナさんは、どういたしまして、と答え、鍋の蓋を取った。


「では、今日は私も座るから。盛るのは頼みます」


 エーリクさんが匙を受け取った。

 私は笑ったあとで、目元を一度拭いた。食べ物が温かいうちに、自分から匙を持った。


 ◇


 帰り道で、トーマさんの家へ立ち寄った。

 荷の行く先を気にしてくれていたので、買ってもらえたことと、代金が戻ったことを伝えたかった。

 トーマさんは戸口で最後まで聞き、道の向こうの工房を見た。


「今度は、続いたんだね」


 私は、はい、と答えた。

 四十五年前の誰かの家は戻らない。それでも、今日聞いてもらえたことが、嬉しかった。


 ユッタさんの家へ戻ると、自分の買った青い布を鞄から出した。

 白に近い筋を窓のほうへ向け、膝へ広げる。


「帰ったら、これを最初に敷きたいです」


 マリエラさんが隣からのぞいた。


「帳面を出すより、先に?」

「はい。その上で、お茶を飲みます」


 言ってから、自分で楽しみになった。

 明朝は、ハンナさんの出立だった。彼女の荷を包むために使う布と、私が自分の部屋へ持ち帰る布を、混ぜずに別々に畳んだ。


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