第71話 二つの手仕事
ハンナさんが隠そうとした布は、上に重ねた一枚から、端だけがはみ出していた。
私は工房の入口で、その端が波打っているのを見た。荷札に使う紙を届けたところで、まだ挨拶もしていなかった。
「ハンナ、その下を見せて」
エッダさんの声に、ハンナさんが肩を揺らした。
しばらく動かなかったが、やがて上の布をよける。自分が仕上げたいと言った、最後の一枚だった。
「昨日は、揃っていたの」
「昨日と今は、違うね」
エッダさんは責める声では言わなかった。ただ、その一枚をほかの荷へ重ねることも許さなかった。
出荷は明朝だった。乾きを待ち、台の使える時刻を分け、ようやく今日の仕上げへ来ている。ハンナさんは戸口の荷札を見てから、奥にいる父親を呼んだ。
「お父さん。端を見てほしい。私、揃ったと思っていたけれど、ここが違う」
エーリクさんが近づくと、彼女は布から離れかけた。
「最後なのに、これで荷に入れられなくなったら」
「見せろ」
父親の短い声に、ハンナさんの顔がこわばる。けれど、エーリクさんは布を引き取らず、娘が立っていた場所を空けたまま、その隣へ来た。
指で端を押さえ、光の向きを変える。
「こっちだけ、湿りの残った時に張ったな」
「……うん」
「直せる。今ならな」
ハンナさんが顔を上げた。
「取り上げないの?」
「お前が仕上げると言っただろう」
エーリクさんは、広い台を指した。
「ただし、隠したまま出すのは駄目だ。向こうで開いてからでは、俺にもお前にも直せない。今、出してくれれば見られる」
ハンナさんは小さくうなずき、布を運んだ。
ミーナさんが作業の順を替える。エッダさんは、自分の担当する分を終えたら手を休めると言って、別の台へ戻った。失敗した一枚のために、皆が夜まで働くことにはならなかった。
私は荷札の紙を机へ置いた。
隣にいたマリエラさんが、空いている最後の札を見ている。
「まだ、数を書かないのですね」
「仕上がってから、確かめます」
彼女はうなずいた。鞄には、今日、自分が記す処置の紙が入っていた。
◇
昼の約束より少し早く、ロルフさんが来た。
今日は籠を持っていなかった。部屋へ入って椅子に座っても、左足の踵が、床をこするように動いている。
マリエラさんが昨夜の具合を尋ねると、眠るまでにずいぶんかかったと答えた。
「今朝も、仕事の途中で気になって。足を外して置ければいいんですがね」
冗談のつもりらしく笑ったが、そのあとも踵は止まらなかった。
私は今日も解呪を望むことと、マリエラさんが担当する了承を確かめ、通常のお代を示した。彼女へ任せる前に、糸の形、言葉、送り主に変化のないことを自分で診る。
窓は明るかったが、糸の奥に影ができた。マリエラさんに椅子を少しずらしてもらった。
「見えますか」
「はい。端まで」
彼女はロルフさんへ向き直った。
「途中で痛みや、姿勢のつらさがありましたら、おっしゃってください。先生も、隣で見ています」
「よろしくお願いします」
左足が台へ置かれた。
私はマリエラさんの後ろへ立たず、本人からも、患者からも見える位置に座った。
彼女が糸へ触れる。最初の輪を支え、その下へ続く端を確かめた。普通の紐と違い、人の足から離れない糸だった。ロルフさんが足の指を曲げると、持っている輪もわずかに動く。
マリエラさんの指が止まった。
次の端へ伸ばしかけた指を戻し、下にある支えを見直す。けれど、すぐには進めなかった。
「どうかしましたか」
ロルフさんが尋ねた。
彼女は顔を上げる。私を見れば、代わってもらえる位置だった。私は椅子を近づけず、待った。
「順を確かめています。次の指を入れる前に、下の輪を支え直します。少し、足をそのままにしていただけますか」
「ええ。これでいいですか」
「ありがとうございます」
マリエラさんはもう一度、糸へ向かった。
下から支える指を残し、次の指を入れる。二本で支えた短い間に、端の向きを確かめた。輪がつぶれることも、引かれて狭くなることもなかった。
私はトーマさんの、机の上に置かれた腕を思い出した。
マリエラさんは端を抜き、ほどけた部分をよける。次の輪へ移る時にも、同じことを省かなかった。一つ減るたびに先を急ぐのではなく、残っている形を見る。
最後の絡まりが開いた。
糸が消えた時、彼女はすぐに手を離さず、足首の周りを確かめた。
「先生」
「残っていません。終了しています」
私が答えると、彼女はロルフさんへ笑いかけた。
「解けました。ゆっくり、足を下ろしてください」
ロルフさんは両足を床へ揃えた。
しばらく何も言わない。私たちも、変化を急いで答えてもらおうとはしなかった。
彼は左足の裏を浮かせ、それからまた下ろした。
「ないな」
今度は、靴を履いた。
「さっきまで、こうしていても気になったのに。今は、座っていられる」
マリエラさんが痛みや違和感を尋ねると、どちらもないと答えた。部屋の中を少し歩き、椅子へ戻っても、踵はもう床をこすらなかった。
「今夜は、眠れそうです」
それを聞いて、マリエラさんの口元が緩んだ。けれど、よかったですね、と言う前に、帰ってから変化があれば知らせてほしいと伝えた。
ロルフさんは代金を出し、彼女の前へ置いた。
「ありがとうございました」
マリエラさんは一瞬、私のほうを見かけた。
私は控えを書く紙を彼女へ渡した。本人が受け取り、金額を確かめ、自分の名を記す。
ロルフさんはその紙を読んだ。
「マリエラさん。明日の朝、眠れたか知らせに来ますよ」
彼女は今度こそ、まっすぐ笑った。
◇
患者を見送ったあと、マリエラさんは机の前へ戻り、椅子へ深く座った。
「先生に、代わってくださいと言いそうでした」
「交代が必要なら、そう言ってくださってよいのですよ」
「はい。でも、今日は何を確かめるか、分かっていました。それなのに、止まったところを見られるのが怖くて」
彼女は処置の記録に目を落とした。
「早く終えれば、上手だと思っていただけるような気がしました」
私は、患者が足を下ろしていた椅子を元へ戻した。
「ロルフさんは、途中で何を待っているか分かりました。説明してから戻れたことも、今日なさった仕事です」
マリエラさんは筆を取った。
迷ったところを飛ばさず書き、最後に終了後の様子を添える。書き終えると、その紙を私に渡す前に、自分でもう一度読んだ。
私も確認を終え、担当者の名の横へ、監督した記録を残した。
「トーマさんへ、私からお話ししてもよいですか。教えていただいた指の持ち方が、できたことを」
「はい。患者さんの事情ではなく、ご自分ができたことでしたら」
彼女はうなずき、朝より丁寧に写しを畳んだ。
工房へ戻ると、ハンナさんが台の前で待っていた。
乾いた布を持ち上げ、窓へ向ける。今朝浮いていた端が、まっすぐに下がった。
「直ったの。触ってみて」
マリエラさんが許しを得て、布の縁へ指を滑らせた。
「引っ掛かりませんね」
「乾いてから、お父さんにも見てもらった。今度は、私から呼んだの」
ハンナさんは照れたように笑った。それから、マリエラさんの鞄を見た。
「そちらは?」
「終わりました。最後まで、自分で」
二人は顔を見合わせた。
私が褒めるより先に、ハンナさんが、よかった、と言った。マリエラさんも、こちらこそ、と答えかけ、二人で笑った。
ミーナさんが布を受け取り、仕上がった荷へ重ねる。
「これで、全部揃いました」
私は最後の札へ数を書いた。
その札を結ぶのは、ハンナさんだった。
◇
翌朝、約束した荷車が工房の前へ止まった。
御者が他の小口の荷を寄せ、この家のために空けた場所を示す。エーリクさんが包みを運び、ミーナさんが積む向きを確かめた。
そこへロルフさんが通りかかった。
「眠れましたよ」
誰に向けた報告か、すぐに分かった。
マリエラさんが顔を上げると、彼はもう一度、朝まで、と言った。彼女は嬉しそうに礼を言い、今も変わりがないことだけを確かめた。
ロルフさんは仕事へ向かい、ミーナさんは荷台へ乗った。
雨よけを掛ける前に、ハンナさんが最後の荷札を外へ出す。家で書いた品名と数が、朝の光の中で見えた。ゲルトさんの印を待つ欄はない。
「行ってきます」
ミーナさんが言った。
御者の合図で、車輪が動いた。誰かに止められるのではないかと見ていた戸口を、布は一つも残らず出ていった。
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