第70話 いま教えられること
ハンナさんが修業へ行くと決めた話し合いから、一日を挟んだ朝だった。
トーマさんは、私たちのために窓際の机を空けてくれていた。
表紙を布で直した練習帳が開いている。先日の夜には見せてもらわなかった頁に、同じ輪が幾つも描かれていた。
「話そうと思うと、忘れたところばかり見つかるね。昨夜、ここを読み直していたんだ」
トーマさんが笑って椅子を勧めたので、私とマリエラさんは並んで座った。
工房では、出荷する布の乾きを待っている。ハンナさんが仕上げたいと言った最後の一枚も、まだ台へ載せられない。今日はそれぞれ、待っているあいだにできる仕事をする日だった。
マリエラさんは自分の写しを開き、練習帳の図と見比べた。
「こちらは、押す、と読むのでしょうか」
「押さえ直す、だね。その隣は、残す」
「何を残すんですか」
トーマさんが説明しようとして、空中で指を曲げた。途中で首を傾け、机に置いた普通の紐を見た。
「口で言うほうが、難しいな」
「見せていただけますか。ここで、いつも輪がつぶれるんです」
マリエラさんは自分の紐に輪を作った。左の指で支え、右の指を差し入れる。支える場所を替えると、残したはずの隙間が閉じた。
もう一度やっても、同じだった。
私は何度も、力を抜くようにと伝えていた。そのたびに彼女は持ち方を変え、今度は輪ごと落としてしまう。図の形は分かっているのに、途中の動きがつながらなかった。
「もっとゆっくりなら、できるのですが」
「ゆっくりでも、よいのですよ」
「でも、先生は、ゆっくりなさっても落としません」
その声が少し尖った。
マリエラさんはすぐに顔を伏せたが、言い直さなかった。私は彼女の紐を取るのをやめた。同じ実演をもう一度見せても、今の問いへの答えにはならない。
トーマさんが机から紐を取り上げた。
「覚えてはいるんだ。ただ、今の手では遅いよ。君に見せる間に、こっちが分からなくなるかもしれない」
「遅いところを、見たいです」
マリエラさんは顔を上げた。
「図と図の間に、何をしていらっしゃるのか。そこが、私には見えなくて」
トーマさんは紐の両端を揃え、机の上へ肘を置いた。
◇
最初の輪は、すぐにできた。
支える指を替えかけた時、紐が滑った。トーマさんの膝をかすめて床へ落ち、彼は、ああ、と短く言った。
マリエラさんが拾って渡す。彼は受け取ったものの、しばらく輪を作り直さなかった。
「こんなふうだ。習っていた時は、もう少し」
「さっき、下の指を残していらっしゃいましたね」
私は言った。
速さではなく、その指を見ていた。私も同じことをしているのに、マリエラさんへ説明する時は、次に入れる指の位置ばかりを話していた。
トーマさんが私を見る。
「そこを、もう一度お願いできますか」
彼はうなずき、今度は机に近いところで紐を持った。
輪の下に指を残したまま、上を支える指を替える。次の指が入ってから、下の指を抜いた。落ちかけても机の上なら拾える高さで、その一続きだけを、ゆっくり繰り返してくれた。
「先に場所を空けようとして、全部よけているね」
トーマさんは、マリエラさんの紐を指した。
「新しい指が持つまでは、古いほうを残すんだ。強く握るのではないよ。二本で持つ時が、少しあればいい」
マリエラさんは、自分の両手を見た。
輪を作る。下で支える指を残し、もう一本を添えた。二本の指が同じ輪に触れ、それから一本だけが離れる。
隙間が残った。
彼女は次の端を通したが、そのあとも紐を離さなかった。
「……できた」
「もう一度、できそうかい」
「やります」
ほどく時のほうが、かえって急いでいた。
マリエラさんは初めから輪を作り、今度は私たちへ見せるように少し持ち上げた。替えた指の下で、紐が丸く開いている。
「先生、ここです。ここで、いつもなくなっていたんです」
「はい。よく見えています」
私の返事を聞くと、マリエラさんは笑った。何度も悔しがっていた場所を、まだ信じきれないように見つめている。
トーマさんが机を軽く叩いた。
「そう。それなら、落とさない」
その声が思ったより大きく、彼自身が驚いた顔をした。
私は写しの余白へ、二本の指が同時に支えている図を描いた。マリエラさんがのぞき込み、ここをもう少し大きく、と頼む。
「私の説明では、その間が抜けておりました」
「先生にも、そんなことがあるんですか」
「ございます。自分がしていることを、全部お伝えできているつもりでした」
トーマさんは練習帳の後ろの頁を開いた。
そこにも同じ図があった。横へ小さく、また落とした、と書かれている。
「私は、師匠に何度も聞いたんだ。隣にいた人には、さっきも聞いただろうと怒られたよ」
「それでも、聞いたんですね」
「できなかったからね」
マリエラさんが笑い、トーマさんも笑った。彼の紐は机に落ちていたが、もう片づける話にはならなかった。
◇
帰る前に、写した図を確かめてもらった。
帳面を持ち帰るのではなく、今日の説明を書き添えた写し二頁を持ち帰る。元の帳面はトーマさんの前へ返した。
「教えていただけて、よかったです」
マリエラさんは、できあがった輪を机に置いた。
「これまでは、弱く持って失敗したら、次は強く持っていました。今日からは、指を離す前のところを確かめられます」
トーマさんは輪を見下ろし、練習帳の角を撫でた。
「役に立ったなら、よかった」
少し間を置いて、彼はもう一度言った。
「今の手でも、教えられることがあるんだな」
私は壁に掛かった荷運びの縄を見た。これまで使ってきた道具を下ろして、別の人生へやり直すのではない。あの縄も、今開いている帳面も、同じ人の家にあった。
トーマさんは窓辺の低い棚へ帳面を置いた。紐は机へ残す。
「次に来る時、今のところを見せておくれ」
「はい。覚えてきます」
マリエラさんは、鞄へ写しをしまった。
◇
午後、工房へ寄ると、籠を抱えた男性が戸口にいた。
籠の修繕を仕事にしているロルフさんという方で、左足の裏がむずむずして、夜に眠りにくいのだという。エーリクさんに隣室を借り、まず私だけで話を伺った。
靴を脱いでもらうと、足首のそばに糸があった。輪を重ねた単純な型だったが、見えているところだけで決めず、奥の端まで確かめた。
「『左足の裏がむずむずして眠れない』。送り主は、ニコさんと読めます」
ロルフさんは顔をしかめた。
「弟です。昨日、使った道具を戻せと言ったら、言い合いになって。これで私が先に謝りに行くとでも、思ったのか」
膝へ置かれた籠が、ぎしりと鳴った。
私は解呪と返却の違いを説明した。ロルフさんは少し考え、籠を床へ下ろした。
「解いてください。話は私がします。今夜こそ、寝たい」
「本日でしたら、このあと処置できます」
「頼まれた籠を返しに行くところなんです。戻る頃は遅いので、明日の昼でもいいですか」
つらさが増すなら待たなくてよいと伝えたうえで、本人が明日を選んだ。
糸は、マリエラさんがすでに習っている型だった。私は彼女の担当できる範囲と、私が最初から最後まで監督することを話した。
「ご不安でしたら、私が行います。途中での交代もできます」
「先生も、ずっといてくださるんですね」
「はい」
「それなら、お願いします。足を置くのは、この台でいいですか」
私は台を少し引き寄せた。高さを確かめてから、マリエラさんの同席と、処置に必要な話を伝える了承もいただいた。
戸の外で待っていた彼女を呼ぶと、ロルフさんは、明日よろしく、と自分から挨拶をした。
マリエラさんは一瞬、私を見た。私はうなずいたが、本人に代わって返事はしなかった。
「はい。よろしくお願いいたします」
声は硬かった。それでも、そのあと足の置き方を尋ねる声は、ロルフさんへ向いていた。
見送ってから、彼女は椅子へ座り直した。
「図なら、何度でもやり直せるのに」
「人の糸ですから、違いますね」
「先生に、できたところを見せたいと思いました。でも、それより、あの方が眠れるようにしないと」
私は明日の手順を一緒に確かめた。今日できた指の持ち替えも、処置全体の一つにすぎない。確かめる場所と、私を呼ぶ時を、彼女自身に言ってもらう。
マリエラさんは最後に、トーマさんの図を机へ広げた。
「明日は、私が手を動かします」
そのための練習を、今夜いつまでに終えるかも、彼女が決めた。
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