第69話 私が行きたいところ
朝、工房の戸は閉まっていた。
食卓に四人分の器が置かれ、ハンナさんの前にだけ、まだ冷めていない湯が残っていた。
同席してほしいと言われた私は、椅子の端へ座った。口を出すために呼ばれたわけではない。それでも、誰も話し始めない時間は落ち着かなかった。
ハンナさんが、昨夜の紙を広げた。
「六か月、向こうで習いたい」
エーリクさんは娘の顔を見た。
「昨日も言ったが、やっと仕事を戻せるんだ」
「うん」
「お前がいてくれれば、今までの分を取り返せる。もう、あんなふうに材料を止められることも」
「だから、残るの?」
ハンナさんの声が、父親の言葉へ重なった。
「また足りなくなったら、次も残るの?」
エーリクさんが黙った。
ハンナさんも、自分の言い方に驚いたようだった。紙の端を持ち上げ、戻した。
「ごめん。でも、今度は大丈夫になるまでって思っていたら、いつ行けばいいか、分からない」
私は、湯の器を机へ置いた。
この家がよくなるのを、私も望んでいた。皆で笑って仕事へ戻ればいいと思っていた。その皆の中に、ハンナさんが残ることまで、勝手に含めていたのかもしれない。
「お前が、ここの仕事を嫌だと思ってるなら」
「嫌じゃないよ」
ハンナさんは、今度ははっきり答えた。
「お父さんの織る布、好きだよ。でも、好きなら同じものを織らなきゃいけないの?」
エーリクさんは、その問いにすぐ答えなかった。
◇
ハンナさんは、説明の下から別の紙を出した。
見学先から持ち帰った図だった。斜めに走る線に、細かい書き込みが添えられている。
「これを、やりたい」
父親の方へ向けた。
「図案を選ぶところから。ここの色を替えたら、どこへ線が出るか、自分で考えたい」
「ここでも色は替えられる」
「うん。でも、これ、踏み順から違うでしょう」
エーリクさんが図へ目を落とした。
ハンナさんは鞄から、試し織りの小さな布を出した。端に、うまくそろっていないところがあった。
「見学の時、ここだけやらせてもらったの。途中で間違えた」
「分かる」
父親は、ずれた線へ指を置いた。
「ここで、一つ早く踏んだんだろう」
「そう。それを自分で見つけられなくて。言われて戻したけど、次は、自分で気づけるようになりたい」
ハンナさんの言葉が、少し速くなった。
「同じ図を見てるのに、向こうの人には、どこで間違えたか分かるの。あれができるようになりたい。お客さんに言われたとおりだけじゃなくて、私が、こうしたらどうかって見本を出せたら」
そこで止まった。
父親の返事を待ったが、エーリクさんは布を見たままだった。
「ごめん。うちの仕事だって、ちゃんと」
「そこは、謝らなくていい」
ミーナさんが言った。
「お母さんも、今、聞きたい」
ハンナさんが母親を見た。
「向こうで、何を作りたいか。家の分をどうするかだけじゃなくて」
娘は布をもう一度広げた。
青だけでなく、灰色と白を入れてみたい。端の線を、中の模様へつなげたい。見学の時には遠慮して聞けなかったことも、今度は聞きたい。
ミーナさんは途中で一度笑った。
「そんなに、あったんだね」
「あるよ」
ハンナさんの声がかすれた。
「ずっと、あった」
ミーナさんは笑うのをやめた。
エーリクさんが布を持ち上げた。私には、色と線の違いしか分からない。けれど父親は、娘が間違えた場所の先を、何度も見ていた。
◇
「俺は、この家で、まだ織りたい」
しばらくして、エーリクさんが言った。
「機を動かせないからじゃない。あれで、この先も仕事をしたい」
ハンナさんはうなずいた。
「うん。分かってる」
「お前がいなくなって、それでも続くのかと思うと、怖い」
彼は初めて、図から顔を上げた。
娘は何かを言いかけて、黙った。ここで私がいれば、と言うのではないかと思い、私は椅子の縁をつかんだ。
先に口を開いたのは、ミーナさんだった。
「私も、ハンナに頼ってた」
夫へ顔を向けた。
「この子がいなかった間、どれだけ働いたか、覚えてるでしょう。私が夜に続きをして、それで前と同じに戻すのは、無理だよ」
「そこまで、させるつもりは」
「つもりがなくても、終わらなかったら私がすると思ってた」
エーリクさんは、口を閉じた。
ミーナさんの目が赤くなっていた。
「私だって、ここで暮らしたい。でも、娘の分まで全部引き受けて、よかったねって送るのは嫌だ」
私は手伝える日を数えかけた。
帰るまでなら。織ることはできなくても、運ぶことや控えを写すことなら。
それで何日埋められるだろう。
考えて、口を閉じた。
私が帰ったあとも、この家の仕事は続く。
「受ける量を、減らす」
エーリクさんが言った。
「手が治ったからって、前の量へ戻せばいいわけじゃないな」
「うん」
「足りない仕事は、先に頼めるか聞く。払う分も入れて、できるか考える」
ミーナさんはすぐに笑わなかった。
「それで残るお金が足りなかったら、また話そう。私が夜に働けばいい、には戻さないで」
「戻さない」
夫は、妻を見て答えた。
ハンナさんが顔を伏せた。涙が紙へ落ちる前に、袖で目を押さえた。
「私だけ、好きなことしてるみたいで」
「お前だけじゃない」
エーリクさんは布を娘の前へ返した。
「俺も、ここで織りたいって言った」
ハンナさんが顔を上げた。
父親は照れたような顔をしなかった。娘の返事を待っていた。
◇
「ノエラさんは、家を出る時、怖くなかったですか」
ハンナさんが私に尋ねた。
私は少し考えた。
「怖かったです」
あの時に知っていた道も、持っていたものも、今の私にはまだ思い出せる。
「帰る場所がなくて、次に何をすればいいかも、分かりませんでした。出れば大丈夫だと分かっていたわけではありません」
ハンナさんは聞いていた。
「だから、行けば全部うまくいくとは、言えません。でも、今、ハンナさんがしたいことを、ここで話せているのは……羨ましいです」
言ってから、少し驚いた。
励ますつもりで話し始めたのに、自分の本音が出ていた。
ミーナさんが私を見た。私はうなずいてから、ハンナさんへ戻った。
「うまくいかなかった時のことも、今のうちに聞けます。行きたい気持ちを、なかったことにせずに」
エーリクさんが、娘の試し織りをもう一度取った。
「これは、俺の機では、そのままは教えてやれん」
ハンナさんの口元が動いた。
「うん」
「向こうで、習ってこい」
娘は何度もうなずいた。
父親が渡した布を、両手で受け取る。
「帰ってきたら、見せる」
「間違えた分も、持ってこいよ」
「それは、もう少し上手になってからにしたい」
ミーナさんが笑った。
ハンナさんも笑い、泣いている顔のまま、布を畳んだ。
午後、会所で本人が条件を確かめた。六か月の修業、月払いの賃金と住まい・食事の費用、途中で続けられなくなった時の申し出方。働いた分の賃金を返す約束はなく、家の納品量とも切り離されていた。
私は隣で読んだが、質問も署名もハンナさんがした。
家へ送る分を尋ねた娘に、ミーナさんはまず自分が暮らす分を覚えなさいと答えた。
帰り道、ハンナさんは自分の控えを何度も触った。
朝の説明の紙とは、違う重さがあるようだった。
夕方の工房では、出荷までの仕事を書いた紙が出ていた。
荷を出すのは四日後。ミーナさんが同乗して検品を受け、その翌夕に戻る。ハンナさんは、さらに翌朝、出立する。
エーリクさんは娘のいなくなる日の欄から、一つ仕事を消した。
「これは、もう少し先に受ける」
ミーナさんが確認してうなずく。
ハンナさんは、出荷前の最後の布を指した。
「ここまでは、私が仕上げたい」
「無理をして残さなくても」
「違うの。これは、私も見届けたい」
娘は自分で筆を取った。
仕上げる日の欄へ名を書き、その下へ出発の日を書いた。
エーリクさんが紙を受け取り、工房の見える場所へ掛けた。
私はそこに並ぶ二つの日を見た。
最後まで仕上げたい仕事と、そのあとに行きたい場所。
私にも、どちらも持てるだろうかと思った。
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