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聖女様がいらしたので、身代わりはもう不要だそうです。では、十年分の呪いをお返ししますね。  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第69話 私が行きたいところ


 朝、工房の戸は閉まっていた。

 食卓に四人分の器が置かれ、ハンナさんの前にだけ、まだ冷めていない湯が残っていた。

 同席してほしいと言われた私は、椅子の端へ座った。口を出すために呼ばれたわけではない。それでも、誰も話し始めない時間は落ち着かなかった。

 ハンナさんが、昨夜の紙を広げた。


「六か月、向こうで習いたい」


 エーリクさんは娘の顔を見た。


「昨日も言ったが、やっと仕事を戻せるんだ」

「うん」

「お前がいてくれれば、今までの分を取り返せる。もう、あんなふうに材料を止められることも」

「だから、残るの?」


 ハンナさんの声が、父親の言葉へ重なった。


「また足りなくなったら、次も残るの?」


 エーリクさんが黙った。

 ハンナさんも、自分の言い方に驚いたようだった。紙の端を持ち上げ、戻した。


「ごめん。でも、今度は大丈夫になるまでって思っていたら、いつ行けばいいか、分からない」


 私は、湯の器を机へ置いた。

 この家がよくなるのを、私も望んでいた。皆で笑って仕事へ戻ればいいと思っていた。その皆の中に、ハンナさんが残ることまで、勝手に含めていたのかもしれない。


「お前が、ここの仕事を嫌だと思ってるなら」

「嫌じゃないよ」


 ハンナさんは、今度ははっきり答えた。


「お父さんの織る布、好きだよ。でも、好きなら同じものを織らなきゃいけないの?」


 エーリクさんは、その問いにすぐ答えなかった。


  ◇


 ハンナさんは、説明の下から別の紙を出した。

 見学先から持ち帰った図だった。斜めに走る線に、細かい書き込みが添えられている。


「これを、やりたい」


 父親の方へ向けた。


「図案を選ぶところから。ここの色を替えたら、どこへ線が出るか、自分で考えたい」

「ここでも色は替えられる」

「うん。でも、これ、踏み順から違うでしょう」


 エーリクさんが図へ目を落とした。

 ハンナさんは鞄から、試し織りの小さな布を出した。端に、うまくそろっていないところがあった。


「見学の時、ここだけやらせてもらったの。途中で間違えた」

「分かる」


 父親は、ずれた線へ指を置いた。


「ここで、一つ早く踏んだんだろう」

「そう。それを自分で見つけられなくて。言われて戻したけど、次は、自分で気づけるようになりたい」


 ハンナさんの言葉が、少し速くなった。


「同じ図を見てるのに、向こうの人には、どこで間違えたか分かるの。あれができるようになりたい。お客さんに言われたとおりだけじゃなくて、私が、こうしたらどうかって見本を出せたら」


 そこで止まった。

 父親の返事を待ったが、エーリクさんは布を見たままだった。


「ごめん。うちの仕事だって、ちゃんと」

「そこは、謝らなくていい」


 ミーナさんが言った。


「お母さんも、今、聞きたい」


 ハンナさんが母親を見た。


「向こうで、何を作りたいか。家の分をどうするかだけじゃなくて」


 娘は布をもう一度広げた。

 青だけでなく、灰色と白を入れてみたい。端の線を、中の模様へつなげたい。見学の時には遠慮して聞けなかったことも、今度は聞きたい。

 ミーナさんは途中で一度笑った。


「そんなに、あったんだね」

「あるよ」


 ハンナさんの声がかすれた。


「ずっと、あった」


 ミーナさんは笑うのをやめた。

 エーリクさんが布を持ち上げた。私には、色と線の違いしか分からない。けれど父親は、娘が間違えた場所の先を、何度も見ていた。


  ◇


「俺は、この家で、まだ織りたい」


 しばらくして、エーリクさんが言った。


「機を動かせないからじゃない。あれで、この先も仕事をしたい」


 ハンナさんはうなずいた。


「うん。分かってる」

「お前がいなくなって、それでも続くのかと思うと、怖い」


 彼は初めて、図から顔を上げた。

 娘は何かを言いかけて、黙った。ここで私がいれば、と言うのではないかと思い、私は椅子の縁をつかんだ。

 先に口を開いたのは、ミーナさんだった。


「私も、ハンナに頼ってた」


 夫へ顔を向けた。


「この子がいなかった間、どれだけ働いたか、覚えてるでしょう。私が夜に続きをして、それで前と同じに戻すのは、無理だよ」

「そこまで、させるつもりは」

「つもりがなくても、終わらなかったら私がすると思ってた」


 エーリクさんは、口を閉じた。

 ミーナさんの目が赤くなっていた。


「私だって、ここで暮らしたい。でも、娘の分まで全部引き受けて、よかったねって送るのは嫌だ」


 私は手伝える日を数えかけた。

 帰るまでなら。織ることはできなくても、運ぶことや控えを写すことなら。

 それで何日埋められるだろう。

 考えて、口を閉じた。

 私が帰ったあとも、この家の仕事は続く。


「受ける量を、減らす」


 エーリクさんが言った。


「手が治ったからって、前の量へ戻せばいいわけじゃないな」

「うん」

「足りない仕事は、先に頼めるか聞く。払う分も入れて、できるか考える」


 ミーナさんはすぐに笑わなかった。


「それで残るお金が足りなかったら、また話そう。私が夜に働けばいい、には戻さないで」

「戻さない」


 夫は、妻を見て答えた。

 ハンナさんが顔を伏せた。涙が紙へ落ちる前に、袖で目を押さえた。


「私だけ、好きなことしてるみたいで」

「お前だけじゃない」


 エーリクさんは布を娘の前へ返した。


「俺も、ここで織りたいって言った」


 ハンナさんが顔を上げた。

 父親は照れたような顔をしなかった。娘の返事を待っていた。


  ◇


「ノエラさんは、家を出る時、怖くなかったですか」


 ハンナさんが私に尋ねた。

 私は少し考えた。


「怖かったです」


 あの時に知っていた道も、持っていたものも、今の私にはまだ思い出せる。


「帰る場所がなくて、次に何をすればいいかも、分かりませんでした。出れば大丈夫だと分かっていたわけではありません」


 ハンナさんは聞いていた。


「だから、行けば全部うまくいくとは、言えません。でも、今、ハンナさんがしたいことを、ここで話せているのは……羨ましいです」


 言ってから、少し驚いた。

 励ますつもりで話し始めたのに、自分の本音が出ていた。

 ミーナさんが私を見た。私はうなずいてから、ハンナさんへ戻った。


「うまくいかなかった時のことも、今のうちに聞けます。行きたい気持ちを、なかったことにせずに」


 エーリクさんが、娘の試し織りをもう一度取った。


「これは、俺の機では、そのままは教えてやれん」


 ハンナさんの口元が動いた。


「うん」

「向こうで、習ってこい」


 娘は何度もうなずいた。

 父親が渡した布を、両手で受け取る。


「帰ってきたら、見せる」

「間違えた分も、持ってこいよ」

「それは、もう少し上手になってからにしたい」


 ミーナさんが笑った。

 ハンナさんも笑い、泣いている顔のまま、布を畳んだ。


 午後、会所で本人が条件を確かめた。六か月の修業、月払いの賃金と住まい・食事の費用、途中で続けられなくなった時の申し出方。働いた分の賃金を返す約束はなく、家の納品量とも切り離されていた。

 私は隣で読んだが、質問も署名もハンナさんがした。

 家へ送る分を尋ねた娘に、ミーナさんはまず自分が暮らす分を覚えなさいと答えた。

 帰り道、ハンナさんは自分の控えを何度も触った。

 朝の説明の紙とは、違う重さがあるようだった。


 夕方の工房では、出荷までの仕事を書いた紙が出ていた。

 荷を出すのは四日後。ミーナさんが同乗して検品を受け、その翌夕に戻る。ハンナさんは、さらに翌朝、出立する。

 エーリクさんは娘のいなくなる日の欄から、一つ仕事を消した。


「これは、もう少し先に受ける」


 ミーナさんが確認してうなずく。

 ハンナさんは、出荷前の最後の布を指した。


「ここまでは、私が仕上げたい」

「無理をして残さなくても」

「違うの。これは、私も見届けたい」


 娘は自分で筆を取った。

 仕上げる日の欄へ名を書き、その下へ出発の日を書いた。

 エーリクさんが紙を受け取り、工房の見える場所へ掛けた。

 私はそこに並ぶ二つの日を見た。

 最後まで仕上げたい仕事と、そのあとに行きたい場所。

 私にも、どちらも持てるだろうかと思った。


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