第68話 その指図は受けない
出張所へ行く途中、ミーナさんは一度だけ包みを開いた。
見本の布が入っているのを確かめ、すぐに結び直す。
「忘れ物ですか」
「ううん。入れたはずなのに、気になってね」
笑ったが、紐を結ぶ指は少し冷たそうだった。
私は包みへ触れなかった。昨夜、ミーナさんが自分で選んだ布だった。
広間には職人たちが集まっていた。ゲルトさんは机に席を取り、こちらを見ると、いつものように隣の椅子を指した。
ミーナさんはその椅子へ行かなかった。
エーリクさんと並んで、向かい側へ座った。
「領主向け毛織物の買付と納入について、あなたへの委託を解除する」
ヴァイス伯爵の言葉に、広間が静まった。
期日を過ぎた代金を留め、支払ったと申告していたこと。職人を選ぶ権限を、脅すために使ったこと。その責任が短く告げられた。
ゲルトさんは、筆を置いた。
「他の商いまで、やめろということですか」
「この納入契約と、付随する権限についてだ」
伯爵は、自分の側の担当者にも顔を向けた。
「納入が安定していたことで、苦情を確かめなかった。私の監督についても、記録へ入れてください」
ミーナさんが、書記の方を見た。
紙の上で筆が動き始める。それを見届けて、ようやく包みを膝から机へ移した。
◇
「では、誰が次の荷を動かすんです」
ゲルトさんは職人たちを見渡した。
「買う方には、こちらから話を通している。荷車にも先約がある。委託を取り上げれば、全部がそちらへ移るわけではありませんよ」
端の席で、一人が帽子を握った。
誰もすぐには答えなかった。
昨日までの仕事を、今日から誰が代わるのか。その不安は、紙を一枚書き替えても消えない。
ゲルトさんは、ミーナさんへ顔を戻した。
「あなたのところは、今までどおりなら取り次ぎます。前の条件で構わなければね」
「うちは、隣領へ出します」
ミーナさんが包みを開いた。
青い布が、机に広がった。
「注文を受けてる分を、まず仕上げます。積む荷車も決まっています」
「それで、次からも食べられますか。たった一口でしょう」
「はい。まず、その一口です」
ゲルトさんの口元が歪んだ。
ミーナさんは布を引かなかった。
「納めたもののお代を、約束どおり頂くところから始めます」
エーリクさんが隣でうなずいた。
私は布の向こうの彼を見た。少し前まで、自分の手を隠していた人だった。その手がいま、見本の端を押さえている。
「領主様への分を増やしてくれというなら、今ある材料と日数でできるだけです」
ミーナさんは担当者へ続けた。
「もう受けた注文を、後に回すことはできません」
「取りまとめの費用が増えます。品の代を少し抑えることは」
「同じ仕事をして、前より安く、は受けられません」
返事が早かった。
担当者の筆が止まった。
ミーナさんも一瞬、口を閉じた。言ってしまったことに、自分でも驚いたようだった。それでも取り消さなかった。
「乾くまで待つ時間も、仕上げる手間も、減らせないんです」
隣の職人が、膝から帽子を下ろした。
「俺のところは、これまでの半分なら出せる。残りは、別の買い手と話している」
もう一人は、すぐに先を替えるのは難しいと言った。ゲルトさんとの別の取引まで、今日やめるとは約束しなかった。
ミーナさんは、その人を責めなかった。
みんなが同じ返事をしなくても、彼女の布は机に残っていた。
伯爵が、書き直された数量を読んだ。
「今回は量を減らす。増える取りまとめの費用を、品代から差し引く形にはしない」
ミーナさんが、私の方をちらりと見た。
私はうなずいた。
言った条件が、通った。
その喜びを、今ここで顔に出してよかった。
◇
話が一区切りつき、職人たちが立ち上がった時、戸口にエッダさんが来た。
妹さんは一緒ではなかった。自分の控えを鞄に入れ、空いている机を探していた。
「エッダ。こっちへ」
ゲルトさんが呼んだ。
彼女の足が止まった。
私も立ち止まった。すぐに声を掛けそうになって、やめた。
「来たなら、仕上げの数を見てくれ。次の分は、今までの形で」
彼は自分の紙を指した。
エッダさんは、紙を見たあと、私を見た。私は何も言わずに待った。
彼女は鞄の口を閉じた。
「そちらの仕事は受けません」
ゲルトさんが、顔を上げた。
「何を言ってる。手が戻ったんだろう」
「はい」
「だったら」
「だから、自分で決めます」
その声は震えなかった。
言い終わってから、エッダさんは鞄の持ち手をつかみ直した。肩は少し上がっていた。怖くないわけではなかった。
それでも、ゲルトさんの机へは進まなかった。
ミーナさんの布がある方へ来た。
「今日は、目で見るところだけ。昨日のお話どおりで、いいですか」
「もちろん。ここの色を見てほしい」
ミーナさんが席を空けた。
エッダさんは椅子へ座り、布を光の方へ傾けた。
「こっちは、よく乾いてる。端の方は、もう少し置いて」
昨日、夕飯の豆の話をして帰った人が、今日、仕事の話をしていた。
彼女が布から顔を上げるまで、私は声を掛けられなかった。嬉しくて、早く言えば泣きそうだった。
「お手の調子は、いかがですか」
「今朝も、痛みはありません。まだ、刃は持っていませんけど」
エッダさんはそこで、小さく笑った。
「今の返事は、昨日から考えてきました」
「言えましたね」
「ええ。言えました」
彼女はもう一度、布を見た。
向こうからは、呼ぶ声がしなかった。
◇
未払いの代金が渡されたのは、その日の夕方だった。
エーリクさんの家の机に、担当者が二口分の袋を置いた。ミーナさんは納品の控えを開き、夫と一緒に数えた。
一度目が終わっても、もう一度数えた。
誰も急かさなかった。
「全額、あります」
ミーナさんが言った。
控えに受領の日を書いたあと、筆を置き損ねた。転がりかけた柄を、エーリクさんが止めた。
「すまない」
「いいよ」
そう答えたミーナさんの目から、涙が落ちた。
本人は笑おうとしていた。
「おかしいね。新しく儲かったわけでもないのに」
「おかしくない」
エーリクさんが言った。
「ずっと、待たせた」
「あなたに言ってるんじゃないよ」
「うん」
二人は、それ以上を言わなかった。
私は目を伏せた。あの布を納めた日に受け取れていれば、こんなふうに泣かずに済んだのだと思った。
取り返せたことが嬉しかった。待たされたことは、まだ腹立たしかった。
どちらも消えなかった。
エッダさんも、自分の仕上げ賃を受け取った。
数え終えると、硬貨の一部を別の袋へ移した。
「家賃です。妹に、もう一月頼まずに済みます」
袋の口を、自分の右手で閉じた。
働けなかった間の損失など、残る請求の確認は続く。今日の受領で全部を終えないことを担当者が説明し、ミーナさんとエッダさんがそれぞれ確かめた。
紙を閉じると、ミーナさんは布の見本を棚へ戻した。
明日からも、乾かして、仕上げて、売らなければならない。
その仕事が、自分たちのところへ戻ってきていた。
担当者が帰ると、ハンナさんが皿を持ってきた。
食卓へ並べたあとも、椅子へ座らなかった。
「お父さん。お母さん」
ミーナさんが振り返る。
ハンナさんは、修業先の説明が書かれた紙を持っていた。
「私、家には残らない」
エーリクさんの顔から、さっきの笑みが消えた。
「やっと、ここまで戻ったんだぞ」
「分かってる」
ハンナさんは紙を下げなかった。
「戻ったから、言うの。私が、どこへ行きたいか」
ミーナさんは皿をいったん持ち上げ、紙を置く場所を作った。
「明日の朝、ちゃんと聞こう。仕事を始める前に」
ハンナさんはうなずいた。
今度の話は、ゲルトさんに決められたものではなかった。
だからこそ、簡単には終わらない気がした。
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