第67話 治すことと許すこと
午後、出張所で借りた小部屋には、まだ昼の熱が残っていた。
ゲルトさんは先に来ていた。机の上には汚れていない紙があり、筆だけが彼の左側へ寄せてある。
朝、あの筆を握れなくなった時の顔を、私は覚えていた。
エッダさんが自分の名を書き終えた時の顔も。
「解呪をご希望と伺いました」
向かいへ座ると、ゲルトさんは机の下から右手を出した。
「治れば、あの家にも材料を回していい」
私は鞄を開けかけて、彼を見た。
「今度の荷にも、都合をつけましょう。あなたからも、そう話していただければ」
材料が足りず、ミーナさんが仕事の順を替えていた。あの時に欲しかったものを、この人は今も持っている。
差し出した右手を、すぐには引っ込めない。その手の向こうで、私がうなずくのを待っていた。
私は料金を書いた紙を取り出した。
「解呪のお代は、こちらです」
「商いの話をしているんですが」
「材料をどうするかは、ミーナさんたちとお話しください。私から、お返事はできません」
紙を彼の側へ向けた。
「私は、お手を治すご依頼を伺いに来ました」
ゲルトさんは額を見た。もう一度、私を見る。
「これだけでいいんですか」
「通常の解呪のお代です」
「では、そうしてください」
記録係の同席について確かめると、治るところまで残してほしいとの返事だった。
私は布を広げ、彼の右手を置いてもらった。
腹が立っていた。今、私が少し黙っているだけで、この人は困るのだとも思った。
けれど、袖を上げてもらい、手首を支える頃には、見るべきものが定まった。
絡まった糸の、どの輪を押さえるか。
どちらから端を抜けば、この手を傷めずに終えられるか。
◇
糸の言葉は、朝から変わっていなかった。
道具を持つ右手が震える。同じ作用が、この手へ返っている。
私は必要な説明をし、姿勢がつらければ知らせてほしいと伝えた。
「早く済みますか」
「順に確かめながら進めます」
内側へ入った端を、輪から離す。
朝は結び目を残したまま向きを返した。今度は一つずつほどいていく。ここを緩めたあと、次に締まるところを押さえておく。支えを替えてから、細い端を抜いた。
ゲルトさんが顔を寄せた。
「どうなっています」
「まだ動かさずにいてください。あと二か所です」
彼は椅子へ背を戻した。
私は次の輪を開いた。最後の重なりがほどけると、伸びた糸は指の間で消えた。
エッダさんのところへ戻したのではない。手首にも指の付け根にも、残っていなかった。
「終わりました。ゆっくり指を動かしてみてください」
ゲルトさんは右手を返し、開いて閉じた。筆を指したので、届くところへ置いた。
紙に一本、線が引かれる。
彼はその線を見つめ、今度は自分の名を書いた。最後の字まで止まらなかった。
「戻った」
声が明るくなった。
私は痛みと違和感を尋ねた。ないと答えた彼は、紙を記録係の方へ押した。
「これも残してください。もう、何ともありませんから」
約束の代金を受け取り、控えを渡した。彼は右手でそれを取り、折り畳んだ。
私は布をしまい始めた。
「これで、向こうも気が済むでしょう」
布の角が、鞄へ入る手前で止まった。
「そちらも、いつまでも怒っていては商売にならない。元に戻ったんですから」
エッダさんは、今朝、自分の名を書くまで筆を取れなかった。
手が治ったあとも、刃物は持たないと言った。その人がようやく選べた今夜の煮込みを、この人は知らない。知る必要もないと思っている。
私は布を机へ置いた。
「元に戻ったのは、今のあなたの手です」
ゲルトさんが顔を上げた。
「エッダさんが働けなかった日は、戻っていません」
「それは、これから話すことです」
「はい。ですから、終わったことにしないでください」
声が大きくなりそうで、一度言葉を止めた。静かに言えば平気だというわけではなかった。顔が熱かった。
それでも、彼の目を見ていた。
「私は、あなたがあの手に何をしたかを見ています。治したことを、許したことにはしないでください」
ゲルトさんは唇を動かしたが、すぐには言葉にならなかった。
私は彼から返事を取り立てず、布を畳み終えた。
記録係へ挨拶をして立つと、背後で椅子が鳴った。呼び止める声はしなかった。
◇
夕方、処置の記録を確かめるため、調査の席へ呼ばれた。
私が説明したのは、エーリクさんの糸を解いて消した日と、エッダさんの糸がいつからあったか、今日それを返した経過だった。本人たちが話してよいと認めた範囲を、順に答えた。
ゲルトさんは向かいで、自分の筆を持っていた。
「二人へ呪いを送ったという説明について、ご返答をお願いします」
担当者が尋ねた。
「ずっと使えなくするつもりではありませんでした」
「二人へ送ったことについて、お話しされていますか」
「エーリクも、エッダもです。言うことを聞けば、済む話だった」
椅子の下で靴が床をこすった。私が足を引いた音だった。
「こちらだって、納期を守らせなければならない」
ゲルトさんは続けた。
手を使えなくしておいて、働かなかった方を責める。同じ言葉を、私は別の場所で聞いてきた。私がうまく引き受ければいい。私が余計なことをしなければいい。
今、そう言われているのは、あの二人だった。
「その説明を、そのまま残してください」
自分の声が、思ったよりはっきり出た。
担当者がうなずいた。
「残します。ゲルトさん、ほかに訂正はありますか」
彼は納期の事情も書くようにと言った。
記録係は書いたところを読み返した。私はその間、彼が自分の言葉を聞く顔を見ていた。
治療の前にこれを言わせたのではない。治った手を動かして、自分で話したことだった。
確認が済むと、私は席を立った。
廊下で待っていたマリエラさんが、私の顔を見た。
「先生、お水を」
「ありがとう。少し、歩いてからでもいいですか」
「はい」
外へ出ると、日がまだ屋根の上にあった。
私は立ち止まって水を飲んだ。口にしてようやく、喉が乾いていたと分かった。
◇
エーリクさんの工房では、明日の集まりへ持っていく控えが並べられていた。
私を見ると、エーリクさんは織機から離れた。
「ゲルトの手を、治したそうだな」
「はい」
「もう少し、分からせてもよかったんじゃないか」
奥の糸巻きが止まった。
私は戸口で、鞄を持ち直した。
「私も、腹が立っています」
エーリクさんが、こちらを見た。
「治したあとの言葉にも。今までしてきたことにも」
「だったら」
「治さずにいれば、分かったでしょうか」
問い返してから、私は首を振った。
「すみません。それを、エーリクさんに答えてほしいわけではありません。私も、分かってほしかったんです」
彼は何も言わなかった。
長く苦しめば、失くした時間が分かる。そうだったら、どんなによかっただろう。
あの人は治った途端、終わったと思った。
だから私は、終わっていないと言った。仕事をした手で、これから払うものを払ってもらう。それを待つ人たちから、離れたくなかった。
「腹が立ってないように、見えた」
エーリクさんが言った。
「治すと言った時から、あんたは同じ顔だったから」
「同じ顔では、いられていなかったと思います」
マリエラさんが隣で、小さくうなずいた。
エーリクさんは私たちを見比べ、織機へ置いていた手を下ろした。
「そうか」
それだけ言った。今のところ、それ以上の言葉はなかった。
ミーナさんが、控えを束ねる紐を机へ置いた。
「治った手で、払うものを払ってもらおう」
夫が妻を見た。
「私たちは、治る前から納めた分を待ってたんだよ。明日は、それを受け取る話をする」
ミーナさんは棚から小さな布の包みを取った。中に入っていたのは、未払いの紙ではなかった。青い見本の布だった。
「これも持っていく」
「代金の話にか」
「次の仕事の話もするから」
ミーナさんは布を広げ、染めの端を明るい方へ向けた。
私は近づいた。マリエラさんも、もう片方の端を持った。
色は、明日の荷物の中へ入れるには惜しいほど鮮やかだった。
「ゲルトに、戻るかどうかを聞かれる前に言うよ。うちが次に何を作るかは、もう決めてる」
エーリクさんが、布の端をそろえた。
今度は、その指に力が入りすぎていなかった。
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