第66話 差し出された右手
会所の戸が開いた時、私は机の布を畳み直していた。
エッダさんが妹さんと入ってきた。自分で歩き、敷居のところで一度だけ足を止める。離れた机には、ゲルトさんが座っていた。
妹さんが椅子を引いた。
エッダさんは腰を下ろすと、右手を膝の下へ入れた。私は彼女の前へ座り、足が床へきちんとついているかを尋ねた。
「はい。大丈夫です」
声は、昨日より小さかった。
机の横に立会人と記録係がいる。マリエラさんは、水を用意していた。
「そんなもので商いを止められては」
ゲルトさんの声がした。
立会人が顔を向ける。
「ご説明の時間は設けます。今は、ご本人の確認からです」
私はエッダさんを見た。
「今も、解くだけに変えられます。今日は処置をやめるとおっしゃっても、構いません」
彼女は口を開き、いったん閉じた。
私は右手を出してくださいとは言わず、机の布を押さえて待った。
「皆さんが、来てくださったのに」
「お手を出すかどうかは、エッダさんがお決めになることです」
妹さんが椅子の横へ立った。
エッダさんはそちらを見た。
「今夜の煮込み、あの豆を使って。昨日、よけておいたほう」
「うん。柔らかくしておく」
「肉は、先に全部食べないでね」
妹さんが首を横へ振った。笑いかけ、すぐに姉の顔を見た。
エッダさんの右手が、膝から出てきた。
白い布の上へ置かれた手は、まだ何も握っていなかった。
「返してください。私から、お願いします」
私はうなずいた。
「承知しました」
記録係の筆が動き、立会人が時刻を確かめた。
◇
手首の下へ布を入れ、高さを合わせた。
エッダさんに確かめてから、袖を少し上げる。指の付け根へ延びる糸は、初めて診た日と同じ結び目を残していた。
外側の輪をよけ、折り込まれた端をたどった。
「『道具を持つ右手が震えろ』。送り主は、ゲルト。この言葉と名に、変化はありません」
本人が認めた範囲で、席に聞こえるように説明した。
記録係は初診の日を読み返した。エーリクさんを治した時には、すでにエッダさんに症状が出ている。あちらから解いて消えた糸を、今日使うのではなかった。
立会人には、机に置いた軽い刷毛の柄を見てもらった。
「少しだけ握っていただけますか。持ち上げなくて結構です」
エッダさんが右の指を添える。
柄を握ると、手が細かく震えた。私はすぐに離してよいと伝え、刷毛を遠ざけた。
彼女が痛みはないと答えると、立会人が今見た震えと、その返事を記録係へ告げた。糸の名を読めたとは言わなかった。
私は手首へ指を戻した。
「始めます。姿勢がつらくなったら、お知らせください」
「はい」
絡まりの外へ、結び目を少し引き出す。
解く時のように、端を抜いてしまってはいけない。交差を残したまま、支える指を替える。布に縫い留めてあった最後の図が、指先に重なった。
押さえた輪の内側へ、空いている指を入れた。
エッダさんの左手が、袖を握っていた。私は動きを止めず、息を吐いて大丈夫ですと声を掛けた。
結び目の裏が、こちらへ向く。
外にあったものが内へ入り、締まっていた向きが変わる。途中で切らず、同じ形を保ったまま、最後の重なりを返した。
袖を握る左手が緩んだ。
私は糸から目を離さなかった。昔、返したあとで止まってしまった師の手も、まだ織れなかった日の布も、いまこの指の先にはなかった。
エッダさんから、糸が離れた。
右の指の付け根まで確かめ、残っていないのを見届けてから、私は手を離した。
「返却の処置を終えました。少し、このままで」
エッダさんは私を見た。
マリエラさんが水を近づけたが、急いで取らせなかった。エッダさんは右手を布に置いたまま、ゆっくり一度、指を曲げた。
◇
向こうの机で、筆が紙をこすった。
ゲルトさんが何かを書こうとしていた。筆先が横へ走り、紙に太い墨の跡がつく。
「これは」
彼は右手を持ち上げた。
筆が震え、机に墨が落ちる。立会人がすぐそばへ行き、まず置くように言った。
「さっきまでは、書けた」
筆を置いた手は、机の縁を押さえていた。
私はエッダさんへ、少し休んでいてくださいと伝え、立会人に呼ばれて向こうの机へ行った。
ゲルトさんは私を見たが、すぐに筆へ視線を戻した。
「握った時の状態を、短く確かめてもよろしいですか」
立会人が尋ねた。
ゲルトさんは、見ればいいと言って、もう一度筆を握った。同じ震えが出たところで、私は離してくださいと声を掛けた。
長く持たせる必要はなかった。
記録係が、本人の言葉と二度の様子を書き留める。私は差し出された手を診て、いまそこにある糸が、同じ作用を持つことを説明した。
ゲルトさんが椅子を押し、エッダさんのほうへ一歩出た。
「あちらの言い分だけで」
担当者が間に立った。
「話は、こちらで記録します。近づかないでください」
ゲルトさんは足を止めた。
私は彼へ向き直った。
「解呪をご希望でしたら、ご依頼を伺えます」
彼は答えず、右の袖を下ろした。
机の上では、墨が紙に広がっていた。誰も笑わなかった。記録係は汚れていない紙を取り、彼の話を待った。
私はエッダさんのところへ戻った。
彼女は、向こうの机を見ていなかった。自分の右手の親指で、人差し指の腹をゆっくりこすっていた。
「少し静かなところで、お手を確かめましょうか」
「はい」
彼女は立ち上がり、妹さんと小部屋へ移った。
◇
休んでから、机に筆を置いた。
エッダさんは、すぐには取らなかった。処置記録の最後に、自分の名を書く場所がある。その白いところを、しばらく見ていた。
「ゆっくりで結構です」
私が言うと、彼女は右手を伸ばした。
筆を握る。
指も筆先も、震えなかった。
最初の一画が紙へついた。エッダさんはそこで息を止め、やがて長く吐いた。続きの字が、最初の字へ並ぶ。
妹さんが、紙の端を持とうとして手を上げた。姉の手が止まっていないのを見て、自分の膝へ戻す。
最後まで書いてから、エッダさんは筆を置いた。
「少し、曲がりました」
妹さんが紙をのぞき込んだ。
「お姉ちゃんの字だよ」
エッダさんは笑った。
私はその名を見た。きれいな見本の字ではなかった。最初の一画だけが濃く、後ろは少し小さくなっていた。
それでも、途中で誰の手も借りていなかった。
「今日から、全部の仕事をしていいでしょうか」
そう尋ねてから、エッダさんは自分で首を振った。
「いえ。今日は、刃を持ちません。まず、あの煮込みを食べます。明日、手の様子を見てから」
「はい。急に戻さず、できるところから確かめてください」
痛みや違和感が出たら知らせてもらうことを話し、私は記録を閉じた。
エッダさんは約束したお代を、自分の袋から取り出した。私が確かめて控えを渡すと、右手で受け取り、鞄へ入れた。
帰りの戸は、妹さんが開けた。
「家で少し休もう。鍋を見るのは、それからでいいから」
「豆は、もう水につけた?」
「朝、つけてきたよ」
二人は並んで外へ出た。
まだ昼前の光だった。夕飯までの時間を、自分たちの家で過ごすために、姉妹は帰っていった。
私は机へ戻り、使った布を畳んだ。
担当者が戸口へ来たのは、その時だった。
「ゲルトさんから、解呪を頼みたいとの申し出です。ご本人が、そう言っています」
私は布を鞄へ入れ、顔を上げた。
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