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聖女様がいらしたので、身代わりはもう不要だそうです。では、十年分の呪いをお返ししますね。  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第66話 差し出された右手

 

 会所の戸が開いた時、私は机の布を畳み直していた。

 エッダさんが妹さんと入ってきた。自分で歩き、敷居のところで一度だけ足を止める。離れた机には、ゲルトさんが座っていた。

 妹さんが椅子を引いた。

 エッダさんは腰を下ろすと、右手を膝の下へ入れた。私は彼女の前へ座り、足が床へきちんとついているかを尋ねた。


「はい。大丈夫です」


 声は、昨日より小さかった。

 机の横に立会人と記録係がいる。マリエラさんは、水を用意していた。


「そんなもので商いを止められては」


 ゲルトさんの声がした。

 立会人が顔を向ける。


「ご説明の時間は設けます。今は、ご本人の確認からです」


 私はエッダさんを見た。


「今も、解くだけに変えられます。今日は処置をやめるとおっしゃっても、構いません」


 彼女は口を開き、いったん閉じた。

 私は右手を出してくださいとは言わず、机の布を押さえて待った。


「皆さんが、来てくださったのに」

「お手を出すかどうかは、エッダさんがお決めになることです」


 妹さんが椅子の横へ立った。

 エッダさんはそちらを見た。


「今夜の煮込み、あの豆を使って。昨日、よけておいたほう」

「うん。柔らかくしておく」

「肉は、先に全部食べないでね」


 妹さんが首を横へ振った。笑いかけ、すぐに姉の顔を見た。

 エッダさんの右手が、膝から出てきた。

 白い布の上へ置かれた手は、まだ何も握っていなかった。


「返してください。私から、お願いします」


 私はうなずいた。


「承知しました」


 記録係の筆が動き、立会人が時刻を確かめた。


 ◇


 手首の下へ布を入れ、高さを合わせた。

 エッダさんに確かめてから、袖を少し上げる。指の付け根へ延びる糸は、初めて診た日と同じ結び目を残していた。

 外側の輪をよけ、折り込まれた端をたどった。


「『道具を持つ右手が震えろ』。送り主は、ゲルト。この言葉と名に、変化はありません」


 本人が認めた範囲で、席に聞こえるように説明した。

 記録係は初診の日を読み返した。エーリクさんを治した時には、すでにエッダさんに症状が出ている。あちらから解いて消えた糸を、今日使うのではなかった。

 立会人には、机に置いた軽い刷毛の柄を見てもらった。


「少しだけ握っていただけますか。持ち上げなくて結構です」


 エッダさんが右の指を添える。

 柄を握ると、手が細かく震えた。私はすぐに離してよいと伝え、刷毛を遠ざけた。

 彼女が痛みはないと答えると、立会人が今見た震えと、その返事を記録係へ告げた。糸の名を読めたとは言わなかった。

 私は手首へ指を戻した。


「始めます。姿勢がつらくなったら、お知らせください」

「はい」


 絡まりの外へ、結び目を少し引き出す。

 解く時のように、端を抜いてしまってはいけない。交差を残したまま、支える指を替える。布に縫い留めてあった最後の図が、指先に重なった。

 押さえた輪の内側へ、空いている指を入れた。

 エッダさんの左手が、袖を握っていた。私は動きを止めず、息を吐いて大丈夫ですと声を掛けた。

 結び目の裏が、こちらへ向く。

 外にあったものが内へ入り、締まっていた向きが変わる。途中で切らず、同じ形を保ったまま、最後の重なりを返した。

 袖を握る左手が緩んだ。

 私は糸から目を離さなかった。昔、返したあとで止まってしまった師の手も、まだ織れなかった日の布も、いまこの指の先にはなかった。

 エッダさんから、糸が離れた。

 右の指の付け根まで確かめ、残っていないのを見届けてから、私は手を離した。


「返却の処置を終えました。少し、このままで」


 エッダさんは私を見た。

 マリエラさんが水を近づけたが、急いで取らせなかった。エッダさんは右手を布に置いたまま、ゆっくり一度、指を曲げた。


 ◇


 向こうの机で、筆が紙をこすった。

 ゲルトさんが何かを書こうとしていた。筆先が横へ走り、紙に太い墨の跡がつく。


「これは」


 彼は右手を持ち上げた。

 筆が震え、机に墨が落ちる。立会人がすぐそばへ行き、まず置くように言った。


「さっきまでは、書けた」


 筆を置いた手は、机の縁を押さえていた。

 私はエッダさんへ、少し休んでいてくださいと伝え、立会人に呼ばれて向こうの机へ行った。

 ゲルトさんは私を見たが、すぐに筆へ視線を戻した。


「握った時の状態を、短く確かめてもよろしいですか」


 立会人が尋ねた。

 ゲルトさんは、見ればいいと言って、もう一度筆を握った。同じ震えが出たところで、私は離してくださいと声を掛けた。

 長く持たせる必要はなかった。

 記録係が、本人の言葉と二度の様子を書き留める。私は差し出された手を診て、いまそこにある糸が、同じ作用を持つことを説明した。

 ゲルトさんが椅子を押し、エッダさんのほうへ一歩出た。


「あちらの言い分だけで」


 担当者が間に立った。


「話は、こちらで記録します。近づかないでください」


 ゲルトさんは足を止めた。

 私は彼へ向き直った。


「解呪をご希望でしたら、ご依頼を伺えます」


 彼は答えず、右の袖を下ろした。

 机の上では、墨が紙に広がっていた。誰も笑わなかった。記録係は汚れていない紙を取り、彼の話を待った。

 私はエッダさんのところへ戻った。

 彼女は、向こうの机を見ていなかった。自分の右手の親指で、人差し指の腹をゆっくりこすっていた。


「少し静かなところで、お手を確かめましょうか」

「はい」


 彼女は立ち上がり、妹さんと小部屋へ移った。


 ◇


 休んでから、机に筆を置いた。

 エッダさんは、すぐには取らなかった。処置記録の最後に、自分の名を書く場所がある。その白いところを、しばらく見ていた。


「ゆっくりで結構です」


 私が言うと、彼女は右手を伸ばした。

 筆を握る。

 指も筆先も、震えなかった。

 最初の一画が紙へついた。エッダさんはそこで息を止め、やがて長く吐いた。続きの字が、最初の字へ並ぶ。

 妹さんが、紙の端を持とうとして手を上げた。姉の手が止まっていないのを見て、自分の膝へ戻す。

 最後まで書いてから、エッダさんは筆を置いた。


「少し、曲がりました」


 妹さんが紙をのぞき込んだ。


「お姉ちゃんの字だよ」


 エッダさんは笑った。

 私はその名を見た。きれいな見本の字ではなかった。最初の一画だけが濃く、後ろは少し小さくなっていた。

 それでも、途中で誰の手も借りていなかった。


「今日から、全部の仕事をしていいでしょうか」


 そう尋ねてから、エッダさんは自分で首を振った。


「いえ。今日は、刃を持ちません。まず、あの煮込みを食べます。明日、手の様子を見てから」

「はい。急に戻さず、できるところから確かめてください」


 痛みや違和感が出たら知らせてもらうことを話し、私は記録を閉じた。

 エッダさんは約束したお代を、自分の袋から取り出した。私が確かめて控えを渡すと、右手で受け取り、鞄へ入れた。

 帰りの戸は、妹さんが開けた。


「家で少し休もう。鍋を見るのは、それからでいいから」

「豆は、もう水につけた?」

「朝、つけてきたよ」


 二人は並んで外へ出た。

 まだ昼前の光だった。夕飯までの時間を、自分たちの家で過ごすために、姉妹は帰っていった。

 私は机へ戻り、使った布を畳んだ。

 担当者が戸口へ来たのは、その時だった。


「ゲルトさんから、解呪を頼みたいとの申し出です。ご本人が、そう言っています」


 私は布を鞄へ入れ、顔を上げた。


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