第65話 返す手を残す
トーマさんの家の卓は、椀を二つ置くと、それだけで狭くなった。
昼に会った時、まだ話していないことがあると言われ、夕食のあとに訪ねる約束をしていた。明日の支度もあるので長くはいられないと伝えると、彼は、分かっているよと椅子を勧めた。
壁には荷を結ぶための古い縄が掛かっていた。棚の端には、薄い帳面が一冊あった。
「昨日、あの字を見てから、また思い出してね」
トーマさんは椀を両手で包んだ。
「師匠のところへ、あの方が戻ってきた日のことだ。四十五年も前だが、最後に言ったことは覚えている」
私は膝の鞄を床へ下ろした。
「治っても、働く場所がない、と言ったんだ」
椀の縁から、親指が離れた。
彼は机の一か所を見つめていた。
「手は動いた。自分で服の紐も結んだ。師匠は、そこを確かめていた。でも、その方が話しに来たのは、手のことだけではなかった」
雇い口も、品を売る先も失っていた。
昨日の帳面には、短く書かれていたことだった。トーマさんの声で聞くと、戸を開けて入ってきた人を待たせる時間が、そこに戻ったように思えた。
「師匠は、どこかに別の仕事がないかと聞いて回った。それでも、家を手放す前には見つからなかった」
私はうなずいた。
「家を移る日に、私も荷を運んだ。そのあと、師匠のところへ戻ったら、いつもの紐が片づいていたんだよ」
トーマさんは棚の帳面へ目をやった。
「もう返すほうは引き受けられない、と。あの人の手を見て喜んでいたのに、あとは何も守れなかったと、そう言った」
私は、椀を持つ手を止めた。
正しい手順を知っていれば、その先の返事も知っていると思いたかった。私よりずっと長く仕事をしていた人なら、治したあとで何と言えばよいかを。
トーマさんは椀を置いた。底が卓へ触れ、小さく音を立てた。
「私は、その場で何も言えなかった。返せばいいとは、もう言えなかったし、習うのをやめたくないとも、言えなかった」
「そのあと、荷運びのお仕事を」
「うん。それまで少しずつ頼まれていたのを、増やしてもらった。食べる分が要ったからね」
彼は、壁にある縄へ顔を向けた。
「私がもう少し強ければと、思ったことはある。師匠の前で、一度くらい、続けたいと言えればと」
私は椀を卓へ戻した。
「私も、治した方に、来てくださらなければ、と言われたことがございます」
トーマさんがこちらを見た。
相手の名は言わなかった。
「その先は、おっしゃいませんでした。でも、その時は、治って嬉しかった日のことを、私まで言えなくなりました」
「そうか」
彼の両手が、椀から離れた。
「そのあと、どうしたんだい」
「帰りました。食事を出していただいたのに、なかなか食べられませんでした」
私は、温め直してもらった椀を思い出した。あの時には、よく分からなかった野菜の甘さも。
「ご家族が、治って嬉しかったのは本当だと、あとで来てくださったんです。私は、私も嬉しかったと、それだけ答えました」
トーマさんは下を向いた。
しばらくして、うん、と言った。何かを勧めるための返事ではなかった。
私は椀を取り、冷めかけたお茶を飲んだ。
◇
トーマさんが棚から出したのは、自分の練習帳だった。
紙の端が少し破れ、表紙には後から当てた布が縫いつけてある。今日は開かず、手の届くところへ置いた。
「昨日の帳面で、私が入る前から授業が減っていたのを見た。それでも、私が辞めたことまで、なくなるわけではないね」
「はい。トーマさんが選んだお仕事は、残ります」
彼は、表紙の布を指で押した。
「ずいぶん荷を運んだよ。あの仕事にも、助けられた」
私は、古い縄の擦れたところを見た。
師のところから出たあとの年月も、この家には残っていた。呪いを返す仕事を継がなかった一行だけで、彼の暮らしを読み終えることはできなかった。
「ここで教えが途絶えた理由は、分かりました」
私はゆっくり言った。
「百年ほど前に、王宮から町の術師へ頼む仕事が減り、共同の授業に使える収入も細りました。その中でも教えていた方がいて、ずっと後に、この村で、返却した人が仕事を奪われた。相談が減り、先生が返す仕事をやめ、学んでいた人も、暮らせる仕事へ移った」
トーマさんは、途中で二度うなずいた。
「習った手順は、働いたんだね」
「はい。治らなかったから、消えたのではありません」
それを言うと、彼は練習帳から手を離した。
私は鞄を開きかけたが、昨日の写しは出さなかった。今夜、見てもらいたかった答えは、もう言葉にできていた。
「お家のほうは、これからかい」
「はい。私の家が、どうして町で教える仕事から、宮廷の務めへ偏っていったのか。収入と、使った費用と、働いた日を見なければ分かりません」
王宮へ行くことを、私は長いあいだ、家に決められた仕事としか考えられなかった。そう扱われた年月は変わらない。
けれど、古い授業帳にあった家の名は、教える人たちの列にいた。
「家の人たちが、何を続けたくて、あの仕事を選んだのか。今度は、それを知りたいです」
トーマさんは少しだけ首を傾けた。
「知りたくなったんだね」
「はい」
答えると、自分でも、先ほどより声がはっきりしたのが分かった。
彼は練習帳を自分のほうへ引いた。
「私の知っていることなら、また話そう。今日は、このくらいで。明日は、朝から出る用もある」
「ありがとうございます。また、ご都合のよい日に」
立ち上がると、椅子の脚が床の傷へはまった。持ち上げて抜くと、トーマさんが、そっちへ引くといつもそうなると笑った。
私は椅子を戻し、戸口で振り返った。
練習帳は、彼の椀の横に残っていた。
◇
ユッタさんの家へ戻ると、マリエラさんが、借りた部屋で布を畳んでいた。
明日の机へ敷く清潔な布だった。私は手を洗ってから、角を合わせるのを手伝った。
「トーマさんのお話は、伺えましたか」
「はい。最後まで」
私は畳み終えた布を、鞄の取りやすいところへ入れた。
家伝の写しを開く。返却の最後の図に、指を一度添えた。エーリクさんの工房で古い教材を見た時は、この動きが教えられていたことに驚いた。今夜は、その図を習う場所へ来るためにも、人は毎日食べていたのだと思った。
「いつか、ほかの方にも教えるとしたら」
マリエラさんが、畳み残した布から顔を上げた。
「授業の日を決めるだけでは、足りませんね。通う方の食費も、教える側の休みも、考えたいです」
「私、夕方に覚えられなかった結び方が、朝には分かったことがあります」
彼女は自分の指を曲げ、そこで笑った。
「眠かっただけだったんです」
「私にも、ございます」
「教わる人にも、帰る家がありますものね」
私はうなずき、写しを閉じた。
マリエラさんは母と少し話してから眠ると言って、部屋を出た。私も一緒に帳面を確かめてほしいとは頼まなかった。
廊下で、ユッタさんが娘を呼ぶ声がした。翌朝に使う器の場所を聞かれたらしく、マリエラさんが、ここです、と答えた。
私は一人で、明日の処置記録の頁を開いた。
エッダさんの名と、本人が選んだ時刻。今ある糸の言葉を読み返す。昔の誰かの手を治し直すことはできない。明日、私が受けるのは、この一件だった。
筆をしまい、寝る前の水を飲んだ。
会所の椅子は、エッダさんが座ってから高さを確かめよう。手首を置きやすいように、布も畳み直せる。
灯りを落とす前に、私は鞄の口を閉じた。
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