第87話 まだ終えていません
エルゼさんは、私が挨拶を終える前に頭を下げた。
「無理をお願いして、申し訳ありませんでした」
胸の奥が、ぐっと縮んだ。
ユリアさんに取り次いでいただき、夕方、本人に会いに来ていた。作業台の端には、畳んだ布がある。エルゼさんは右手を、その下へ隠すように置いていた。
「無理なお願いではありませんでした。私は、お会いして診るとお約束しました」
私は彼女と同じ高さの椅子へ座った。
「私からお断りしたのではありません。私の名前で、違う返事が伝えられました」
エルゼさんは、顔を上げなかった。
「お代が、足りなかったのでは」
「お伝えしたお代は、変えていません」
彼女が左手で、布の角をつまんだ。
そこを何度も折り返す。右手は動かさなかった。
「ユリアが治ったから、私もと思ったんです。そういうのは、いけなかったのかと」
私は首を横に振った。
怒りを話してしまいそうになった。あなたにそんなことを思わせた人に、自分はどれほど腹を立てているか。
けれど、今聞いてもらう必要があるのは、私の怒りではなかった。
「ご相談くださって、よかったです。手を診せてくださいと言ったのも、私です」
ようやく、彼女がこちらを見た。
「会場は変わります。まだ、決まっていません。分かり次第、ご自宅へお知らせしてもよろしいでしょうか」
「はい。ここで待っています」
すぐ安心した顔にはならなかった。
私は、もう一度信じてくださいとは頼まなかった。渡した紙に、自分の名と、宿へ連絡する方法を書いた。
今度は場所が決まってから、私の返事を届ける。
作業台を離れる時、彼女が畳んだ布を右手で押さえようとした。布の端が細かく揺れ、左手が代わった。
私は、その動きを見てから戸を出た。
◇
翌朝、宿の机には、二種類の予定が並んだ。
私が会うと約束した人と、レオンさんから時刻を買ったと伝えてきた人。
後のほうへ、同じ印をつけそうになった手を止めた。
全員へ同じ日に会うと答えれば、紙の上の揉め事は減るだろう。私が夜まで働けばと、すぐに考えた。
マリエラさんが、空いていた椅子を机へ寄せた。
「先生。このお二人は、まだ症状も伺っていません」
「はい」
「どのくらい時間がかかるかも、分かりません」
私は筆を置いた。
今のうちに何でも約束してしまうことは、あの人のしたことに似ていた。
「まず、ご相談として伺います。大市の日に処置できるとは、答えません」
約束した方には、新しい場所が決まり次第知らせる。未承認の枠については、私の治療料として受け取ったお金ではないことを伝え、レオンさんへ返金の説明を求めてもらう。
字にすると、冷たく見える行もあった。
私はその下に、改めて私への相談を望む場合の連絡先を書いた。面談できる日を確かめることはできる。今日、知らないまま全員を引き受けることはできない。
昼前、ユリアさんが来てくださった。
「別の縫い手にも、中止だと伝わっていました。私も、何が本当なのか確かめたくて」
私は、まだやめるつもりはないと答えた。
彼女が教えてくださった中には、すでに大市への予定を変えた方もいた。遠くから来る知り合いは、別の用事へ旅程を合わせ直したという。
「こちらへ戻せないかと、頼まなくて結構です」
自分で言って、胸が沈んだ。
私の名を知り、会ってみたいと思っていた人がいた。そこで新しい仕事を頼まれたかもしれない。
なくなったものは、椅子と窓だけではなかった。
ユリアさんは私の前へ、小さな包みを置いた。娘さんと縫い終えた衣装の余り布だった。
「エルゼに会ってくださって、ありがとうございました。あの人、今日は布を選ぶ話をしました」
私は顔を上げた。
「大市で、買いたいものがあるんですって」
包みの柔らかい角を見た。
全部が元に戻らなくても、待っている一人へ会うために、私はまだできることを探していなかった。
◇
会場の相談に乗ってくださったのは、ダリオさんだった。
以前、直接の相談先を教えてよいかと尋ねてくださった時に、私も連絡を取れる場所を伺っていた。事情を伝えると、知っている仕事場に空き時間があると教えてくださった。
診察の部屋として使えるかは、自分で見に行った。
戸を開けて、少しだけ落胆した。
レオンさんの部屋の半分ほどに見えた。窓の外には庇があり、入口の床は一枚だけ色が違う。隅には、動かせない棚もあった。
そんなことを思った自分が恥ずかしくなり、慌てて机へ近づいた。
「狭いでしょう」
持ち主の方が言った。
私は、大丈夫です、と急いで答えかけた。
マリエラさんが椅子を引き、私の立つ場所を確かめる。
「こちらなら、横へ回れます」
私は腰を下ろし、実際に手を伸ばした。
診るための場所はあった。入口から患者さんの手元が見えないように、仕切りを置ける。待つ人を何人も中へ入れなければ、窮屈にはならなかった。
「一度にお待ちいただく人数を減らせば、使えます」
私は持ち主の方へ答えた。
「水を使う場所と、隣のお部屋に声が聞こえるかも、確かめてよろしいですか」
借りるのは、大市の診療日と、必要な準備の時間だけだった。
提示された賃料を聞いた。ダリオさんの紹介だからと、ただで貸してくださる話ではない。私も無料にしてほしいとは頼まなかった。
この費用を払うと、最初に見込んでいた利益は減る。前の案内に使ったお金も、すべて戻るわけではない。
私は持ち帰って、自分の仕事用の袋を開いた。
帰る部屋のための金と、暮らしに残す金へは手を伸ばさなかった。
翌日、ミーナさんが宿へ顔を出した。
大市へ出す布を持って王都へ来たばかりだという。頬には疲れがあったが、鞄から出した見本の縁は柔らかかった。
「前のを触ってくださった方に、今度はこれを見せるの」
彼女は先に、自分の仕事の話をした。
私は触らせてもらい、そのあとで新しい場所を話した。
「あの通りなら、私たちの売り場からも行けるわ。ただ、真っすぐ行くと荷の入口なの。人が入る戸は、一本手前を曲がるほう」
ミーナさんは紙へ道を引いた。
荷車が並ぶ時刻と、人が通りやすい側を教えてくださる。私は案内を書き直した。
「布を売るお時間を、こちらへ使わせたくはありません」
「使わないわよ。私も、あの布を見てもらいに来たんだから」
彼女は笑った。
「でも、道なら知っているもの」
私もようやく笑えた。
誰かにすべてを支えていただかなくても、この一つで助かることがあった。
◇
賃料とは別に預ける保証金を、私は自分で払った。
持ち主の方が数え、受け取った紙を渡してくださる。
新しい鍵は、薄くて軽かった。
それを掌へ載せた時、怖さが遅れて来た。
レオンさんが集めた人が、こちらへ来るとは限らない。立派な部屋があるから来たかった人もいるだろう。何人も予定を変えたあとで、私は費用を先に払った。
けれど、今日はもう、誰かの返事を待って場所を決める日ではなかった。
「ここで、開きます」
私はマリエラさんへ鍵を見せた。
彼女は、はい、と答え、次にすることを自分から言った。
「ご連絡をお任せいただけますか。お知らせしてよいと言ってくださった先へ、順にお届けします。先生には、患者さんからのお返事を見ていただきたいです」
「お願いします」
彼女の仕事の時間も、費用へ入れた。
返事が届くまでの間に、布と椅子を運んだ。
棚の隅へ手をぶつけ、私は思わず顔をしかめた。前の部屋なら、ここは空いていた。そんなことを、まだ比べてしまう。マリエラさんが棚を動かせるか尋ねようとしたので、私は首を振った。椅子を少し斜めにすれば、通れる。二人で位置を替え、私はもう一度、鞄を持ってそこを歩いた。
エルゼさんからは、教わった場所へ行きます、と返ってきた。
私はその紙を、予定の一番上へ置いた。
夕方、レオンさんから伝言が来た。
大市の前日の紹介会へ出れば、話をまとめ直せるという。私が来る予定になっていた会だった。
私は返事を考え、机へ座った。
もう診てもらえないと思っている人が、そこに来る。私の名で買った時刻を、まだ待っている人もいるかもしれない。
怖かった。
彼の用意した席へ戻れば、借りた鍵を返したくなるかもしれなかった。
私は軽い鍵を、書く紙の横へ置いた。
「伺います。ただし、提携を戻すためではありません」
そこまで書き、筆を持ち直した。
「私から、来られる方へ説明をいたします」
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