第62話 私からお願いします
エッダさんは、包んだ刷毛を膝へ置いた。
朝の小部屋には、まだ二人しかいなかった。ユッタさんに借りた机を窓の近くへ寄せ、私は向かいへ座った。
「持ってくるつもりは、なかったんです」
彼女は包みの端を左手で直した。
「出る前に、道具を片づけていて。これも、また使うのかと思ったら」
布の下に柄の形が見えた。私は取り出してもらわず、昨夕の申し出について尋ねた。
「返すほうを考えたいと、おっしゃいましたね」
「はい。あの人の手にも、同じことが起きるんでしょう」
「今ある糸を返せば、道具を持つ右手が、同じように震えます。解くだけでしたら、誰にも移さずに消せます」
エッダさんの目が、自分の右手へ落ちた。
「同じなら。あの人も、書いたり、何か持ったりできなくなるんですね」
「道具を持つ時に、今のお手と同じ作用が出ます。それ以上の苦しさを足す処置ではありません」
「それなら、もう私たちの仕事を止めたりは」
私は返事の前に、机へ置いていた筆を横へ寝かせた。
「人に命じることまでは、止められません。仕事の妨害には、調べている担当の方へ別に対応していただく必要がございます」
彼女の左手が、包みを握った。
今なら、お願いしますと言ってもらえる気がした。だからこそ、先に言わなければならなかった。
「それから、ゲルトさんが解呪をご依頼になった場合、私は通常のお代で、お引き受けします」
エッダさんは顔を上げた。
「先生が、治すんですか」
「はい。お詫びをしたら治す、といった条件にはできません」
窓の外から、桶を置く音がした。
エッダさんはしばらく何も言わず、刷毛の包みを膝の上で回した。角が私へ向き、それからまた彼女のほうへ戻った。
「すぐ、治るかもしれない」
「ご本人が依頼されれば、その可能性はございます」
うなずくまで、私は待った。
「すぐ治っても、私が受けた分は、なかったことになりませんよね」
「はい。手の症状が消えても、支払われていないお賃金や、働けなかった日のことは残ります。処置の記録も消しません」
彼女は長く息を吐いた。
私は、昨日までに用意した提出用の写しを出した。先に一緒に読むと約束していたものだった。
氏名、発症までにあったこと、右手の症状。私が読んだ言葉と送り主の名。エッダさんは一行ずつ読み、賃金を尋ねた日の言い方を確かめた。
「これは、このままでいいです。ここも、私が話しました」
私たちだけで話した食費や家賃のことは、入れていない。
出す先が領内の呪詛調査の担当者とその席であることを、もう一度確かめた。エッダさんは写しを揃え、私のほうへ返した。
「お願いします。私からも、そこで話します」
私は受け取った。処置の返事は、まだ求めなかった。
◇
昼前、エッダさんに頼まれ、妹さんとミーナさんを小部屋へ迎えた。
ミーナさんは仕事の控えを持ってきていた。昨日の仕上げ台で話した時間と、検品、口頭での指示、伝票を分ける仕事が書いてある。
「手が戻ってすぐ、全部やってもらおうとは思っていないよ」
ミーナさんは、刃を使う作業の書かれていないところを示した。
「やってみてから増やす。頼んでいない分まで、自分で引き受けないでね」
エッダさんは小さく笑い、右手を膝へ戻した。
妹さんが、借家の家賃を書いた控えを並べる。
「この一か月の分は、私が持つ。今のお給金で、ここまでなら出せるから」
「食費は、私の検品の分から。昨日、そう話したね」
「うん」
エッダさんは妹さんの紙を見ていた。
「戻っていない賃金が払われたら、家賃も元の分け方にしよう。それまでは、頼ませて」
妹さんは、うん、ともう一度答えた。
私は二枚の紙を寄せようとした手を止めた。姉妹の控えは妹さんが持ち、仕事の控えはエッダさんが自分の鞄へしまった。
「最初に、先生へ手を出した時」
エッダさんが私を見た。
「治ったと知られたら、明日から食べられなくなると思いました。まだ、怖いです。あの人に会えば、何も言えなくなるかもしれない」
ミーナさんは答えを挟まなかった。椅子を少し引き、姉妹の足元に置いてあった籠をよける。
「でも、仕事を切られた日に、家までなくなるわけではない。話を聞くと言ってくれた人も、います」
エッダさんは右手を開いた。
「ずっと治らないでいてほしいんじゃ、ないんです。私から、終わらせたい」
私は椅子へ座り直した。
「解くだけをお選びになっても、今日のお話やお仕事がなくなることはありません」
「はい。聞いたうえで、返してほしいです」
前掛けが膝から落ちた。
エッダさんは拾わず、右手を机へ差し出した。
「先生。私から、お願いします」
私はその手を両手で受けた。
「承知しました。今ある糸を、送り主へ返すご依頼ですね」
「はい」
指の付け根に残っている糸を確かめ、すぐに離した。彼女は手を隠さず、そのまま置いていた。
返却のお代と、処置のあとに手の具合を見ることも話した。エッダさんは聞き終えてから、公の記録を取る方に、その場へ来てもらえるかと尋ねた。
◇
午後、領内の担当者が小部屋へ来た。
本人と読んだ写しを渡すと、エッダさんが自分で発症の時期を説明した。担当者は途中で遮らず、最後に一か所、日を確かめた。
私は処置に立ち会える日を尋ねた。
「記録係と立会人を揃えられるのは、早くても明後日の朝です」
エッダさんが私を見た。
私は机に置いた写しを、担当者のほうへ残した。
「領主様のお許しを待つ必要はありません。解くことも、返すことも、今ここでできます」
彼女の右手が、少し動いた。
「手の震えと、私が頼んだことを、その方にも記録していただきたいです」
「それでは、明後日の朝をお選びになりますか」
「はい。その朝に、来ます」
待つ間に痛みが出たり、震えが強くなったりしたら、予定を待たずに知らせてもらう。気持ちが変わった時も、同じだった。
担当者はその朝の場所を村の会所と決め、症状と本人の意思、処置の経過を記録すると話した。ゲルトさんへの連絡と、接触や威迫があった場合の窓口も、自分たちが受け持つという。
私はエッダさんの前から、余分な紙を下げた。
本人の希望で同席したマリエラさんが、水を置く。エッダさんは左手で椀を取り、ひと口飲んだ。
「今日は、妹と煮込みを作るんです。まだ間に合いますね」
「はい。お話は、ここまでで大丈夫です」
マリエラさんが鞄を取ってよいか尋ねた。エッダさんは刷毛の包みだけを自分で入れ、残りを手伝ってもらった。
戸口で妹さんが待っていた。
出ていく二人へ、私は明後日も今と同じ手を出してください、と言いかけた。言わずに、頭を下げた。
エッダさんたちを見送って、道具を片づけているうちに、担当者が戻ってきた。
ゲルトさんは立会いを拒み、商いを妨げる相談だと伯爵へ申し立てたという。
「明日の午前、先に約束していた調査の回答もあります。出席については、そちらで正式に求めます。ご本人への働きかけは止めます」
私はうなずいた。
机へ戻り、処置の予定を開く。明後日の朝の行には、エッダさんの名前を記した。その下を埋めずに、帳面を閉じた。
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