第61話 背中を預ける
戸は、人一人が通るほどには開かなかった。
翌朝、エーリクさんが仕上げの相談をすると、中の職人は外へ目をやった。通りには、私たちのほかに誰もいなかった。
「悪いが、引き受けられん」
「台を使わせてもらうだけでも。こちらで、運んで」
「うちの次の原毛まで止まったら、どうする」
エーリクさんの口が閉じた。
ミーナさんは、差し出しかけていた条件の紙を畳んだ。職人はその紙を見たが、受け取らなかった。
「そちらが困っているのは、知っているよ」
奥で椀の触れ合う音がした。
エーリクさんは上着の端を握り、少しして手を離した。
「朝から、すまなかった」
戸が閉まった。
私は、王宮の方にも知り合いがいるから大丈夫だとは言えなかった。目の前の戸の向こうへ、次の原毛を届かせる約束は持っていない。
次の家へ歩く途中、エーリクさんが一度、振り返った。
「困った時は、互いにと思っていたんだが」
ミーナさんは紙を上着へしまった。
「向こうも、困る前に怖いんだよ」
返事はなかった。
角を曲がる前に、さっきの家の裏庭が見えた。低い竿には、小さな袖の服が干してあった。エーリクさんの歩く速さが少し落ち、それからまた前を向いた。
次の職人は、私たちを仕事場へ入れてくれた。
仕上げ台の半分には、自分の布が載っていた。エーリクさんが注文の量を伝えると、職人は首を振る。
「一日じゅうは空けられない。うちの分が済んだ後なら、決めた時間だけだ」
エーリクさんは、返事を急がなかった。
台の長さを見て、何度に分ければよいかをミーナさんと話す。それから、どの工程に、何日使いたいかを口にした。
「片づけも、こちらでやる。使わせてもらう代は、どれくらいになる?」
職人は自分の布を端へ寄せ、台の空いたところを見せた。
「掃除までやるなら、このくらいでどうだ」
出された額を、ミーナさんが紙へ書いた。
最初の家へ持っていった紙の裏だった。
◇
午後、ハンナさんが長さを測る紐を持ってきた。
台の端から端へ張り、父親が押さえた場所を紙へ写す。ミーナさんは持参した布を載せ、折らずに置ける幅を確かめた。
「染めた分を、ここへ一度に持ってくるのはやめましょう。乾いた順に分けて」
「運ぶ回数は増えるな」
「濡れたまま重ねて、やり直すよりはいいよ」
エーリクさんはうなずき、家から運ぶ順を変えた。
ハンナさんが、仕上げを受け持てる日を伝える。父親が次の注文の話を始めると、彼女は紐を巻く手を止めた。
「今度の分は、ここまでできる。その先は、修業の返事をしてからにしたい」
エーリクさんは紙を見た。
書きかけた娘の名を先まで延ばさず、そこで筆を上げた。
「分かった。まず、この分だな」
戸口へ、荷を運ぶ人が来た。
市場へ行く便に、空きが少しあるという。ミーナさんは昨日の注文控えを出したが、相手は代金より先に、荷の大きさを尋ねた。
父娘が畳んだ布を積み、仕上がった分を包んだ時の幅を見てもらう。
「これなら、ほかの小口の荷と分けて積める。ただ、帰りも待つなら、その分はもらうよ」
「検品が済むまで、向こうで待つつもりです」
ミーナさんは答えた。
荷を積む日と戻る便を聞き、運賃を書き留める。無料で一度助ける話ではなかった。向こうも、荷車を使って暮らしている。
書いた額を足すと、ミーナさんの筆が止まった。
私は紙の外に置いた自分の手を見た。腰の袋へ伸ばせば、足りない分を出すことはできた。けれど、次もその次も、私の袋を待つ注文にはできない。
ミーナさんは材料の欄へ戻った。
「別口で買える原毛、最初に聞いた量は要らないね。家の残りと合わせて、足りない分だけにしよう」
昨日、会所から戻って材料を扱う店へ寄り、小口なら売れると聞いてきたという。修繕と小布の代金から残した分で、必要な量を買える。余分に仕入れて次の注文を待つ案は、線を引いて消した。
台の持ち主は、自分の布と一緒に運べる区間だけは荷をまとめようと言った。運賃はそれぞれの荷の分を出す。エーリクさんは、空いた時間にその人の布を運ぶ手伝いを引き受け、互いの手間も書き添えた。
紙の上には消した跡が増えた。
ミーナさんは最後まで足し直し、細く息を吐いた。
「これなら、今ある分で始められる」
エーリクさんの指が、家の織機から、染め、仕上げ台、荷車の順に動いた。台を貸す職人が途中の日を直し、彼はそこからもう一度たどった。
荷車のところまで来て、指が止まった。
「届くところまで、つながったな」
まだ、布は織り終わっていない。
それでも私には、昨日の注文控えより、その消し跡の多い紙が重く見えた。
◇
夕方、エッダさんが見本の前へ座った。
今の検品の仕事を終えてから来たという。左手で伝票を二つに分け、ミーナさんのほうへ揃える。
「こちらの端なら、刷毛をこちらへ通したほうが、筋を崩しません」
言いながら、右手が台の道具へ伸びた。
柄へ指がかかり、小さく震えた。エッダさんは、そこで手を止めた。
私は刷毛を届かない側へ移し、布だけを彼女の前へ寄せた。
「どのあたりでしょう。こちらを見せていただけますか」
エッダさんは右手を引き、左の指で布の端を指した。
「この目からです。手前だけ強く掛けると、そこが違って見えます」
ミーナさんがやってみると、エッダさんは少し弱くと声を掛けた。二度目でうなずく。
私は彼女へ、手に新しい痛みがないかを確かめた。ない、と返事をしてから、エッダさんは刷毛の置かれたほうを見た。
「私がやれれば、早いのに」
「今の説明がないと、私がやり直していたよ」
ミーナさんが布を裏へ返した。
「まず、見て教えてもらう仕事を頼みたい。伝票を分けるのも。手が治ったら、様子を見て、できる作業をまた相談しましょう」
時間と代金を話し、今回の布の支払いを受けた時に払う分も、先に確かめた。エッダさんが普段の検品で受け取る日々の賃金とは、別の紙へ書く。筆記はミーナさんが受け持った。
迎えに来た妹さんは、その紙を姉の隣から見た。
「家の分、昨日も計算したの。一か月なら、家賃は私の今のお給金で出せるよ」
エッダさんが顔を上げた。
「その次は、また話すんでしょう」
「うん。ずっと私が払うって、勝手には決めない。まず、今の家にいる一か月」
妹さんは姉の鞄を取り上げず、背もたれへ掛けやすい向きに直した。
エッダさんは新しい仕事の控えを、左手で押さえた。
「食べるほうは、私が検品と仕分けの分から出す。あなたの好きなものばかりには、しないけど」
「それは、お姉ちゃんもね」
二人が少し笑った。
新しい家へ行く話ではない。いま一緒に住んでいる借家で、来月の家賃をどちらが出すかを話していた。
エッダさんは、右手を台の上へ置いた。前掛けを掛けず、五本の指を静かに伸ばす。
「先生。今度は、返すほうを考えたいです」
私は向き直った。
「はい。改めて、お話を伺いましょう」
「明日、二人で話せますか」
「朝でしたら。ユッタさんに、小部屋をお借りできるか尋ねます」
エッダさんはうなずいた。
まだ、返すと決まったわけではなかった。私はその手へ触れず、彼女が仕事の紙を鞄へしまうのを待った。
ミーナさんが台の布を片づける。エッダさんは立つ前に、その端だけは折らないでと伝えた。
妹さんも私も、そこには手を出さなかった。ミーナさんが言われたとおり持ち上げ、布を平らに置き直した。
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