第59話 守ったもの
朝の机へ、二枚の写しを並べた。
片方は、村の仕事帳から写したもの。もう片方は、昨夜届いた宮廷の支出の抜き書きだった。トーマさんが眼鏡の位置を直し、年の書かれたところへ顔を近づける。
「こちらが減り始めた頃に、こっちの入金も、なくなっているんだね」
「はい。まず、年代が近いことは分かりました」
私は依頼の対象を記した行を、マリエラさんへ示した。
王家の方々に向けられた呪いを、町の術師へ返してもらう。そのための費用が減り、聖女の加護と、身代わりの預かりへ支出が移っている。
加護。預かり。
見慣れた言葉の横に額が並んでいた。村の授業帳では、同じ頃から弟子の食事代が小さくなっていた。
私は紙の端を押さえていた指を、平らにした。
「王家が町へ頼む仕事が減り、ここで教えていた人たちの収入も減った。それで、授業を続けにくくなったのかもしれません」
マリエラさんは、授業の残っている年をたどった。
「それでも、すぐにはやめなかったんですね」
「ええ。そこは、帳面に残っています」
私は宮廷の抜き書きを少し上へずらした。
「ただ、これは王家ご自身の呪いへの支出です。町の方みんなの呪いを預かったという記録ではありません。ほかの土地で何が起きたかも、この二枚だけでは分かりません」
家の名があった頁は、その横に置いてある。私は見たが、宮廷の紙へ重ねなかった。
私の家がいくら受け取り、そのお金を何に使ったかは、まだ書かれていない。
「昔の人は、何を守ろうとしたのでしょう」
マリエラさんが言った。
トーマさんは、椅子に置いた帽子へ手を伸ばしかけた。
「師匠も、返すのをやめてから、誰を守れたのか」
口が開いたまま、声が止まった。
私は彼を見た。目の前の紙は百年ほど前のものだった。彼がそばにいた師匠の話は、それより後の、四十五年ほど前のことだ。
「助けなかったと、今決めることもできません」
私は授業帳の写しを、机の手前へ戻した。
「こちらの年と、トーマさんがご覧になった日のことを、一緒にはできませんから」
トーマさんは口を閉じ、小さくうなずいた。
私は確認したい行へ紙を挟んだ。宮廷側の記録は、まだ照合を続けてくださっているという。次の回答で確かめるところを残し、今日の分を片づけた。
午後には、約束していた相談があった。
◇
エッダさんは、決めた時刻にユッタさんの家へ来た。
十日前、最初に話を聞いた日に約束した午後だった。借りた小部屋へ通すと、彼女は鞄からはみ出た伝票を、左手で奥へ押し込んだ。
「こちらの戸を閉めても、よろしいですか」
「はい」
私は机の上を空けた。
エッダさんは右手を前掛けの下へ入れかけ、やめた。そのまま机に置く。私は前と同じように手首を支え、糸の重なりを確かめた。
道具を持つ右手が震えろ。
読める言葉も送り主も、変わっていなかった。糸はまだ発動している。
「四日前に伺ってから、お手の具合に変化はありましたか」
「強くなった感じは、ありません。痛みも。ただ、布を見ていると、つい刷毛を取りそうになるんです」
彼女は左手で、机の端をこすった。
「道具は、相手の方に持っていてもらうようにしました。口で言うだけで、手間を増やしている気もしますが」
「言葉で伝えて、お仕事は進められていますか」
「はい。見落としが少ないから、また来てほしいと。伝票を分けるのも、左ならできます。書くのは、その人に頼んでいます」
私は、手を使う時の震えの具合を聞き、前回の記録と照らした。本人に確かめてから、木の匙を机に置いたまま、その柄を軽く握ってもらう。右の指が震えたので、すぐに離してもらった。新しい傷や痛みはなく、悪化を示す変化も見られなかった。今の症状と仕事を記した。
水を勧めると、エッダさんは、マリエラさんにも少し聞いてほしいと言った。
「働き方を、どんなふうに変えたか。そこの話だけなら」
私は彼女の希望を確かめてから、マリエラさんを呼んだ。水を置いてもらい、安全な仕事について話すあいだだけ、椅子へ座ってもらう。
エッダさんが自分で、検品と伝票の話をした。
マリエラさんが部屋を出たあと、エッダさんは水の椀へ目を落とした。
「このまま置いておいたほうが、あの人のしたことを証明できますか」
私は筆を置いた。
「そのために、糸を残す必要はありません。治したいとお思いでしたら、今日でも処置できます」
エッダさんは右の指を動かした。
「まだ、治った手で仕事場へ戻るのが怖いです」
「はい」
「でも、賃金を聞きに行ったことは、話したい。あのあとから手が震えたことも。先生の記録を、調べている方に見せてください」
私は最初の日と、今日の記録を開いた。
出す相手は、呪詛の訴えを調べる領内の担当者。氏名、症状、発症までの経過、私が読み取った言葉と名。エッダさんと一つずつ確かめ、関係のない暮らしの話は、写しへ入れないと伝えた。
「その調査の席へだけ、お願いします。ほかの人に、私の話として回さないでください」
「承知しました。出す写しは、先にご一緒に読みましょう」
エッダさんはうなずいた。
処置は、今日も本人の希望で保留にした。希望が変われば、調査の日を待たず相談できることも確かめた。
彼女は鞄を取り、持ち上げる前に、左側へ向きを変えた。
「ミーナさんにも、仕事のことを相談してみたいです。刃を使わない仕上げの前後なら、私にも分かることがあります」
私は、今から伺ってよいか、まず尋ねてみると答えた。
◇
ミーナさんが席を空けてくれたので、夕方、エッダさんと工房へ入った。
机には新しい糸の包みが載っていた。修繕の代金で買ったものだという。ハンナさんが包みを棚へ移し、人数分の椅子を出した。
ミーナさんは私へ向き直った。
「先生が帰ったら、また何かあっても、すぐには」
そこで言葉が切れた。
私は鞄を膝から下ろした。
「診られる時には、ご相談を伺います。ただ、皆さんの賃金や住まいまで、私一人では用意できません。ずっと村にいるお約束もできません」
ミーナさんの目が、机へ落ちた。私はその横にある糸を見て、言葉を足しかけた。
先にエッダさんが口を開いた。
「織り終えた布を見ることなら、私もできます」
エーリクさんが彼女を見た。
「どの段階から見られる?」
「目の飛びや、端の引きつれなら、機から外した時に。ただ、今は刃も刷毛も持てません。直す場所を伝えて、手を動かすのは別の方にお願いすることになります」
エーリクさんはハンナさんを見た。娘はうなずく前に、どれくらいの量なのかと尋ねた。
ミーナさんが紙を出した。
「まだ、次の大きな注文はありません。頼むなら、何にどれだけ時間がかかるか、お代も先に決めたいです」
「ええ。今の検品の仕事もあるので、空いている時間を持ってきます」
エッダさんが答えた。
私は持っていた筆を、ミーナさんへ渡した。誰に何を頼めるかという話が、私を挟まずに続いている。椅子を少し引くと、エッダさんから見本の布がよく見えるようになった。
戸口から声がした。
便を届けた方が、ミーナさんへ封筒を渡す。四日前に隣領の担当者へ送った、購入相談の問い合わせへの返事だった。
ミーナさんは開き、夫のほうへ紙を向けた。
「村に残って作る布でも、購入の相談なら、一度聞いてくださるそうです」
エーリクさんは紙を受け取った。エッダさんも、机の上に残った見本を見た。
私はその見本の端が、灯りに届くよう、燭台を少し寄せた。
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