第58話 母の知らないこと
出張所へ行ってから二日が過ぎた朝、母から手紙が届いた。
私が出したのは五日前だった。封筒の角は少し丸くなり、折り目には道の埃がついていた。窓辺で開くと、最初に、教習のことは詳しく知らないと書かれていた。
私は次の行へ目を移した。
母の知る道具箱は、母が子どもの頃から使っていたものだという。前の持ち主から受け継いだと聞いているが、誰がどの町へ持っていったのかは分からない。蓋の蝶番は、一度直してある。そこだけ金具の色が違っていたのを、私も覚えていた。
宮廷との昔の契約や授業代も、知っていることはないという。
私は頁を裏へ返した。
手紙を書いた前日、厚い布を縫おうとして、針がなかなか通らなかった。母の字で、そんな話が続いている。針を替えたら進んだが、初めに引きすぎたところはほどいてやり直した、と。
その下にも答えがあるかと思い、先へ読んだ。手紙の終わりには、食事を抜かないようにと、短く添えてあった。
「先生、お母さまからですか」
マリエラさんが窓辺へ来た。
「はい」
「何か、分かりましたか」
私はすぐに答えず、裏返していた頁を、初めへ戻した。
教習については、母も詳しく知らない。
その次には、家の名がほかの教え手と並んでいたことは、あなたの手紙で初めて知りました、とあった。私はそこを、もう一度読んだ。
「分からないことがあると、書いてありました」
そう答えると、マリエラさんは私の手元を見た。私は紙を引き寄せず、窓の明るいところへ置いたままにした。
「私が見つけたことを、母も、初めて聞いたそうです」
「そうでしたか」
私はうなずき、裁縫の話へ目を戻した。
厚い布を前に、母がどんな顔をしたかは分からない。書かれているのは、針を替え、糸をほどいたことだけだった。けれど、私はその短い話を、今度は終わりまでゆっくり読めた。
「今日は、お返事を書かれますか」
「夕方に、少し。買った布のことを、書こうと思います」
青い布は、私の鞄に包んであった。
窓辺の机へ広げるのは、まだやめておいた。帰って敷いてから、その上でいつものお茶を飲んでみたい。
マリエラさんは買い物へ行く支度を始めた。私は手紙を畳み、ほかの資料とは別の封筒へ戻した。
◇
昼前、戸が開き、マリエラさんが籠を抱えて戻ってきた。
ユッタさんは小さな袋だけを持っていた。
「先に、重いほうを持たれましてね」
「お母さん、底の袋まで入れようとしていたから」
「いつも入れているんだよ」
籠を机へ置くと、底から大きな芋が転がりかけた。マリエラさんが押さえ、ユッタさんが別の皿を持ってくる。
粉の袋をしまいに、お母さんが隣の部屋へ行った。
マリエラさんは、籠の持ち手に食い込んでいた紐を直した。
「市で、帰る日の話をしたんです」
私は読みかけの紙を伏せた。
「延ばすのか、いつ帰るのか。私、先生のお仕事が落ち着いてから決めようと、ずっと言っていたので」
「そうでしたね」
「母に、帰る日の話も、あなたとしたいと言われました」
彼女は籠から手を離し、指を一本ずつ伸ばした。
「帰ると言ったら、寂しがると思っていたんです。でも、決まらないまま待つのも、困るって。最後に作りたいものもあるからって」
ユッタさんが戸の向こうで、何かを棚へ置いた。マリエラさんはその音へ顔を向けた。
「もう少しいて、とも言われました。でも、村のために残りなさいとは、言われませんでした」
私は予定の紙へ手を伸ばし、いったん止めた。
「マリエラさんは、どうなさりたいですか」
「帰るまでに、また二人で出掛ける日がほしいです。買い物だけじゃなくて。明後日の午後なら、母も空いているので」
「はい。その時間は、先に空けておきましょう」
マリエラさんはようやく上着を脱いだ。
私は椅子の背から自分の鞄を下ろし、彼女が掛ける場所を空けた。相談されるまでに何日も使ってしまったと思ったが、いま、空けたい時間を教えてもらえた。
ユッタさんが戻り、夕食に使う包みを娘へ渡した。
「こちらを、開けておいてくれる?」
「はい。これは切りますか」
「あとで一緒に。先にしまう分を分けておこう」
マリエラさんが包みを開いた。私は皿を寄せ、ユッタさんが使う場所を空けた。母娘はどちらがどの袋を持つか、話の途中でも迷わず手を伸ばしていた。
◇
夕方、私は母への短い返事を書いた。
布の端に細い筋を選んだこと。代金を払い、自分の机へ敷くために持ち帰ること。厚い布の話を読み、こちらで針を使う手を見た日のことも思い出したと添えた。
封をしたあと、マリエラさんと予定の紙を広げた。
明日の午後には、再相談の予約がある。そこは動かさず、次に、マリエラさんがお母さんと出掛ける時間を書いた。
「ここは、私、いません」
彼女がその欄を指で押さえた。
「はい。私も、そこへお手伝いをお願いする予定は入れません」
まだ日を決めていない仕事は、紙の端へ書いた。帰りの移動に要る余裕を残し、出立の目安を二人で確かめる。村にいる間じゅう空けておく、と書こうとした行は消した。
「王宮へ伺う日も、こちらからご相談しないといけませんね」
私は別の紙を取った。
次の依頼に伺える候補日を挙げ、合わない場合は別の日を相談したいと書く。帰着してすぐに向かう日程にはしなかった。返事が来るまでは、決定した予定の欄へ移さない。
母への返事と王宮宛ての連絡を、それぞれ次の便に預けたあと、ユッタさんの家へ戻った。
今度は私に届いた封筒が、食卓脇に置かれていた。
クラウスさんからだった。
「お返事ですか」
「はい。最初に確かめられた分を、送ってくださったようです」
中には、短い説明と、支出項目の抜き書きがあった。
王家の方々へ向けられた呪いについて、町の術師に返却を頼む費用が減り、加護と預かりへ支出が寄っていったという。示された年代は、村の帳面で王宮からの入金を見なくなった頃と近かった。
私は鞄の中の写しへ手を掛けた。
向こうでは、マリエラさんが食卓の皿を置き直している。ユッタさんが鍋の蓋を開けると、湯気が上がった。
「照らし合わせるのは、明日の朝にします」
私は手紙を封筒へ戻した。
マリエラさんは、私の席にも匙を置いた。
「では、先にいただきましょう。今日は、底も混ぜましたから」
台所から、ユッタさんの笑う声がした。
私は鞄を壁へ寄せ、椅子へ座った。椀を両手で近づけると、指の先まで温かかった。
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