第55話 注文のない春
母への手紙を朝の便に預けてから、私は旧宅へ向かった。
途中でエーリクさんの家へ寄り、借りた二本の紐を返した。彼は箱の蓋を閉め、私と一緒に外へ出た。原毛の控えは、昨夜ミーナさんと確かめたという。
「家を売る返事は、まだしていない。布の代は、受け取っていないと書いておいた」
通りの角で、トーマさんが待っていた。
旧宅の机には、昨日の授業帳と仕事帳が並べてあった。お孫さんが窓を開けてくれたので、薄い字のある頁にも光が届いた。
私は昨夜の写しを、元の頁の横へ置いた。
王宮からの依頼料は、確かに、その年を境に見当たらなくなっていた。別の欄へ移ったのかと、その前後も確かめる。個人から受けた仕事の金額は続いている。
「ここを写し忘れたのでは、ありませんでした」
日付を指すと、トーマさんが身を寄せた。
「百年ほど前だね。私の知っている頃より、ずっと古い」
私は紙の上へ、年を書いた。
授業帳を開くと、同じ春にも開催地があった。その次の年にもある。仕事の入金欄を指で押さえながら、もう片方の帳面をたどった。
「すぐに教えるのをやめたわけでは、ないのですね」
エーリクさんは、私の示したところを見ていた。
先の頁では、授業の日と次の日との間が広くなる。遠い町の名が減り、宿を借りた記載も少なくなっていた。弟子の食事の欄には、前の額を消し、低い額へ直した跡がある。
「人数が減ったのか」
エーリクさんが尋ねた。私は参加者の数が残っている頁へ戻った。同じ人数の日でも、一人分の額が違っていた。
彼は食事代の行へ指を置いた。
「手だけ習っても、腹は減る」
指の先で、紙の影が揺れた。
私は減った額を写し、その横に、人数を確認できた頁を書き添えた。
教える人の名は、まだいくつも残っていた。開催地が一つ減った年にも、別の町で教えた日がある。なぜやめたのかと尋ねに来たのに、やめずにいた日のほうへ、何度も目が戻った。
「これだけで、ほかの土地まで同じだったとは言えません。でも、ここに残った記録では、収入が減ったあとも授業を続けています」
トーマさんがうなずいた。
「師匠も、古い帳面を開くことがあったよ。私には、何の数字か分からなかった」
私は返事をせず、その帳面を閉じかけた手を止めた。机の前に誰かが座り、次の食事代を数えていたのかもしれない。そこは紙に書かれていなかったので、写しには足さなかった。
◇
昼になると、トーマさんが腰を伸ばした。
外の腰掛けへ移り、持参したパンを食べた。私は包みを広げ、紙を風に取られないよう、鞄の下へ挟んだ。
トーマさんはパンを二つに折った。
「私が教わった最後の頃にも、師匠に言われた。自分の食事を払える仕事を持っておけ、と」
彼の膝には、パンの粉が落ちていた。
「これは、いま見た百年前の話じゃない。私が若かった、四十五年ほど前のことだよ」
「荷を運ぶお仕事を、なさっていた頃ですね」
「ああ。初めは、授業に間に合うように終わらせていた。そのうち、荷がある日は、そちらを断れなくなった」
エーリクさんがパンを持つ手を下ろした。
「それで、術のほうは継がなかったんですか」
言い終わる前に、彼は目を伏せた。足元の石を見て、それから自分の手へ戻す。
トーマさんは責める顔をせず、小さくうなずいた。
「荷を運ぶ方を、続けたよ。食べられたからね」
口に入れたパンを、ゆっくり噛んだ。私たちも食べた。
少しして、トーマさんが旧宅の戸へ顔を向けた。
「返してほしいと来る人が減ってから、一度、遅れて来たことがあった。師匠の前に椀が一つあって、ほかには出ていなかった」
「授業がなかったのですか」
「来られる者が、私だけになった日だった。何を食べていたかは、覚えていない。でも、椀を洗う音を、よく覚えている」
彼は残ったパンを包み直した。
私は、その続きを急いで尋ねなかった。戸の向こうにある帳面にも、そこに座っている人にも、知らないことがまだあった。
エーリクさんが、自分の包みを畳んだ。
「織る量が戻るまで、ほかの仕事も要るな」
トーマさんは彼を見た。
「今の道具で、できることはあるかい」
「新しい布を買えないから、直せないかと言われた物がある。糸は、少し残っている」
彼は立ち上がり、上着の裾を払った。私は写しを鞄へ戻した。
◇
工房へ戻ると、ハンナさんが図案の紙を片づけていた。修業についての問い合わせは、母への手紙と同じ朝の便に出したという。
ミーナさんは残糸の包みを机へ並べた。夫の話を聞き、濃いものと薄いものを分ける。
「擦り切れたところは、どれくらい?」
「端から、この幅くらいだった。使うとそこへ手が当たるんだと」
エーリクさんが指で示した長さに、ミーナさんが物差しを当てた。
「元の布と、色は揃わないわよ」
「そこも先に見せる。張り直すほどの大きさじゃない。残っている目に合わせて、織り直せる」
ハンナさんが、道具の箱を寄せた。
「縁をほどくところと、終わりを揃えるところは、私がやる」
「どれだけかかるか、見てから決めよう。お前の分も、見積りに入れるから」
父親に言われ、ハンナさんは箱から出しかけた道具を戻した。先に、紙と筆を持ってくる。
私は空いた机の端で、クラウスさんへの手紙を書いた。
確かめたいのは、約百年前の該当する年代に、宮廷から町へ頼んでいた呪いの仕事と、支出の項目がどう変わったか。読んだ記録の年代を示し、確認できる範囲の回答をお願いした。
被害者の帳面は、鞄から出さなかった。母宛てとも、別の封筒にした。
隣では、ミーナさんが仕上がりの寸法を確かめていた。
「これなら、うちの台で干せる。大きな仕上げ場は、使わずに済むわ」
エーリクさんが材料と手間を書き、ミーナさんが足した数を読み返した。ハンナさんは自分の作業に必要な時間を、指を折りながら考えている。
私は手紙に封をしても、立たずにいた。紙の上で額が直され、三人がもう一度、直す布の幅を確かめた。
戸口へ近所の方が来た。
直したい布の持ち主から、伝言を頼まれたのだという。
「ゲルトさんのところから、ほかの職人には頼まないほうがいいと言われたそうで。今日、持ってくるのはやめると」
ミーナさんの筆が止まった。
エーリクさんは見積りの紙を持った。端が少し曲がったが、破らなかった。
「直し方と代を、まだ話していない。聞くだけでも、聞いてもらえるか」
「そこは、直接話したほうが」
「ああ。今から行く。布を持ってきてくれと、決めつけるつもりはない」
彼は紙を折り、上着へしまった。ミーナさんが色の違う残糸を少しずつ、別の布で包んで渡す。
「違う色になるところも、見せて」
「分かっている」
エーリクさんは包みを受け取り、戸を開けた。
私はクラウスさんへの手紙を持って、そのあとに外へ出た。便を預ける場所までは、同じ道だった。
角で別れ、私は封筒を預けた。振り返ると、エーリクさんが見積りの入った上着を押さえ、通りの先を歩いていた。
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