第54話 家の名
「ええ。こちらの頁も、同じ頃のものです」
お孫さんが答えたので、私は帳面へ両手を添えた。
近くへ引こうとして、綴じ糸が一か所、浮いているのに気づく。片手を表紙の下へ差し入れ、机の上で向きだけを変えた。
カーヴェルという姓が、もう一度あった。
続く名を目で追うと、トーマさんが隣の列を指した。
「こっちは、別の日に教えた人だね。家の者を並べたわけではない」
縦に見ていた私の目が、横へ動いた。
教える人の名の横には、授業を開いた場所と持っていった教材が書かれ、最後に授業代が記されていた。
同じ姓は離れた行にもあり、その間に別の姓が挟まっていた。
「この額は、どなたも同じなのですね」
「同じ人数を教えた日のようです。こちらは、人数が多いので」
お孫さんの指す行では、額も少し違っていた。
エーリクさんが椅子を寄せた。
「この人だけが、できたんじゃなかったのか」
「この帳面には、ほかの方も教えたと書かれています」
私は姓の横へ、指を置いた。
「私の知っている家の暮らしより、ずっと前のことです。まず、この方がここで何を教えたか、確かめたいです」
紙の上にいる人は、私が母から聞いて育った務めについて、何も語らなかった。何日に、どの町へ行ったか。その日に教えた人数と、お金。それだけが、ほかの人と同じ幅の欄に収まっている。
開催地の文字を、ゆっくり写した。途中で筆を止め、教材の欄を見る。
「ここにある名前は、布の表に書かれていたものと、似ています」
エーリクさんが身を乗り出した。
「うちにある布か」
「はい。家伝の写しとも、並べて見たいのですが」
お孫さんは、机を使ってよいと言ってくれた。紙を写すことも、調べたところを手紙で尋ねることも了承してくださったので、私は見る頁の年代と、持ち主のお名前を手元に控えた。
◇
エーリクさんが古い布を取りに戻る間に、私はユッタさんの家へ寄った。
マリエラさんは台所の布巾を干していた。頼むと手を拭き、私が部屋から取ってきた家伝の写しを受け取った。
「こちらを、一緒に持っていけばよいのですね」
「はい。ご都合がよろしければ、並べるのを手伝っていただけますか」
ユッタさんに、夕食の前には戻ると伝えてから、旧宅へ向かった。
机には、すでに古い布が広げられていた。エーリクさんが持ってきた普通の紐を、端の空いたところへ置く。マリエラさんは紙を古布に重ねかけ、私が横を空けると、そちらへ広げ直した。
最初の輪は似ていた。けれど、その形は、ほかの結び方でも使う。
私は次の図と、その下の短い説明へ目を移した。
「こちらは、指を入れてから、短い端を送ります。私の写しも、同じ順です」
マリエラさんが紙の続きを指した。
「ここにも、引きすぎた時のことが」
古布の脇に残った文字は薄かった。私は紙のほうを読まず、布の文字だけを追った。読めた部分を書き出してから、写しを寄せる。
引き違えやすい箇所と、戻して直す順が、続けて同じだった。
トーマさんが息を漏らした。
「この注意は、何度も言われたよ。引いてしまってから読むなとね」
トーマさんは普通の紐を取り、覚えている輪を作り始めた。マリエラさんも、もう一本の紐で試してみる。最後の形で、長い端を抜きかける。
「そこは、残したままです」
トーマさんに紐を渡してもらい、私は隣で同じ形を作った。重なりを指で押さえたまま、裏へ返す。古い布に紐を載せず、空いた机へ置く。
マリエラさんは私の手を見て、自分の紐を置いた。続きを無理に試さず、図の上下を確かめている。
「返すところまで、同じ順にあるのですね」
「はい。ただ、似た図があるだけなら、それぞれで工夫したのかもしれません」
紐をトーマさんへ返し、私は授業帳へ戻った。
教材の名が同じ行を探すと、教え手も開催地も違っていた。次の頁には、その教材を別の町へ送ったという短い記載がある。
お孫さんに文字を確かめてもらい、二つの頁を写した。
「これを持ち回って、教えていたのですね」
口にしてから、古い布の小さな図を見直した。ここに残った教え方は、一つの家だけのものではなかった。
「同じ教え方が、別々の家に残ったのだと思います」
マリエラさんが写しを見下ろした。
「先生の家の人も、誰かに教えていたんですね」
私はうなずきかけて、姓の欄へ目を戻した。名前だけを見ていた時には、確かめられなかったことが、いまは手順と授業の記録でつながっている。
「母に、どこまで知っているか、尋ねてみたいです」
トーマさんは自分の前の輪をほどいた。エーリクさんも布の端を丸めかけたが、私がもう一度見ているのに気づき、手を止めてくれた。
帰る前に、お孫さんが仕事の入金を記した別の帳面も出してくれた。授業代だけでは足りない時のことも、残っているかもしれないという。
私は幾つかの頁を写し、明朝もう一度伺えるか尋ねた。
◇
夕食をいただいたあと、借りた机へ紙を広げた。
母への手紙に、古い帳面のことを書こうとした。
なぜ。
そこまで書いて、筆が止まった。
母が知らないことかもしれない。私が今日、知らない人の家で初めて見せてもらったのだ。母の前にも、同じ帳面が開かれていたとは限らなかった。
紙を裏返し、新しい面へ書き直した。
村に残る授業帳で、家の姓を見つけたこと。ほかの教え手の名と並んでいたこと。手元にある家伝の写しと、教える順がつながったこと。
そこでまた、筆を止めた。
「マリエラさん」
「はい」
彼女は借りて持ち帰った練習紐を、長いほうから揃えていた。エーリクさんには、明日返すと伝えてある。
「今日、少し嬉しかったんです。あの名が、ほかの方と並んでいたのを見て」
「それも、書かれますか」
私は紙を見た。資料の説明だけで、半分ほど埋まっていた。
「はい。書こうと思います」
母に分かってもらうための理由を足すより先に、嬉しかったと書いた。
尋ねたのは、古い教習や、使っていた道具について、母の知っていることだった。思い出せる範囲でよいと添える。会う日を決める言葉は、今回は書かなかった。
マリエラさんが紐を片づけるあいだに、最初から読んだ。一か所、誰の帳面を見たのか分かりにくいところを直し、封をした。明日の便へ出す。
机の端に、仕事の入金を写した紙が残っていた。
私はそれを、開催地を写した紙の隣へ置いた。古い年から順に追うと、王宮からの依頼料という文字が、あるところで出てこなくなる。
紙を一枚めくった。授業の開催地は、まだ続いている。
「写し忘れでしょうか」
私が言うと、マリエラさんも身を寄せた。
「こちらの年も、授業はあるのですね」
「ええ。明日、元の帳面で確かめます」
私は封をした手紙を、濡れた筆から離した。
その横の紙に、確かめたい年代を一つ書き添えた。
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