第53話 あの人の家も
翌朝、机の上の買い取り書は、裏を向いていた。
エーリクさんが手を離すと、ミーナさんが元へ戻した。脇へ二枚の紙を置き、少し離して、別の控えを開く。
「これは、向こうが布を受け取った日の紙。こっちは、うちに原毛が届いた時の控えよ」
エーリクさんは、腕を組みかけてやめた。
「布の代を払っていないのに、家を寄こせと言うのか」
「それは、払ってもらわないと。でも、この紙には、家を渡せば全部なくなるとは書いてない」
ミーナさんの指が、免じると書かれた額の下へ止まった。
すでに受け取られた布の二口分。支払いの残っている原毛。そして、家を渡しても残るという金。机の紙には、それぞれ違う日が書かれていた。
私は腰の袋へ手をやりかけた。
帰りの旅費も、蹄鉄亭で暮らすためのお金も、その中と部屋の荷物に分けてある。いくら出せるか、頭の中で数え始めてから、手を下ろした。
ミーナさんは、原毛を受け取った時の控えを夫へ向けた。
「ここの約束を、もう一度見たいの。布の代から引く分があったのか、別に払う分なのか」
「最初の紙がある。棚の、下の箱だ」
エーリクさんはハンナさんへ顔を向けかけ、椅子を引いた。
「俺が出す。どの束か、覚えている」
箱を机へ載せ、折れた紙を一枚ずつよける。ハンナさんは自分で書いていた手紙を、別の台へ移した。工房の担当者への宛名が見えた。
「家の返事は、いまはしない」
エーリクさんが言った。
「何を、いつ払う約束だったか、先に確かめる」
ミーナさんはうなずき、空いている紙へ日付を書いた。私は椅子を少し引き、箱を置く場所を広くした。
戸を叩く音がしたのは、古い控えが見つかった時だった。
◇
トーマさんは、戸口で帽子を取った。
「昨日戻ったと聞いてね。師の孫に会ってきたので、その話を」
エーリクさんが椅子を勧める。トーマさんは机へ目を落とし、まだ座らずにいた。
「それは、家を売る話かい」
「売れば、原毛代を一部はなしにするそうです」
ミーナさんが答えた。
トーマさんは椅子の背を握り、それから腰を下ろした。
「先に、伝えておくよ。あの時の依頼人の遺族にも、話していいか尋ねた。家族の名を広めなければ、仕事と家のことは話してよいと」
私は、開きかけた帳面を机へ伏せた。
トーマさんの指が、帽子の縁を押している。
「呪いを返してもらった人も、家を売ったんだ。仕事がなくなって、しばらくしてからね」
エーリクさんは、紙を押さえる手を動かさなかった。
「約四十五年前の、私がまだ師についていたころのことだ。誰にいくらで売ったか、私は知らない。ただ、出ていく日に荷物を運んだ」
トーマさんは机の向こうを見た。そこには、織機が置いてあるだけだった。
「道具を外したあとの床が、ずいぶん明るかった。いつも置いてあった物がなくなると、あんな色になるんだね。師も来ていた。その人は師の顔を見ると、ここで続けたかった、と言った」
帽子の縁が、指の下で折れた。
「返してくれなければ、追い出されずに済んだかもしれないと。師は、戸口に立ったまま聞いていた」
私は帳面へ伸ばしていた指を戻した。
あの朝、荷車が去ったあとの声が、耳の近くへ戻ってきた。
トーマさんは、私のほうを見なかった。
「私が運んだのは、空の棚だった。中の物は、もう箱に詰めてあったよ」
ミーナさんが水を注いだ。トーマさんは礼を言い、椀を受け取ったが、すぐには飲まなかった。
◇
「では、返さなければよかったのでしょうか」
自分の声が思ったより小さく、私は顔を上げた。
トーマさんは椀を机へ置いた。
「分からない」
そう言ってから、帽子を膝に戻した。
「その人が、返してほしいと頼んだんだ。師は、解くだけにもできると話した。それでも、送り主へ戻してほしいと。その日は、指を何度も動かしていたよ」
「喜んで、いらしたのですね」
「ああ。持てなかった道具を持って、師に見せていた」
私は膝の上で、握っていた手をほどいた。
糸のない手で道具を持てた日と、空になった床を見た日は、同じ日ではなかった。後の一日を聞くと、先の一日まで間違っていた気がしてしまう。
机の向こうで、エーリクさんが右手を開いた。
「治った手で、あの日は、娘に教えた」
ハンナさんが顔を上げた。
「縁を揃えるところを、途中で代わらずに済んだ。最後まで、俺が持っていられた」
彼は私を見た。すぐに目をそらしたが、手は閉じなかった。
私は返事を探し、何も言わずにうなずいた。
ハンナさんは作業台の端へ手を置いた。父親と同じように、親指で木を一度こすった。
「そのあと、村に残った人は、どうやって食べていたんですか」
エーリクさんがトーマさんへ尋ねた。
「術の仕事を、続けた人はいたのか。やめたら、何をしていたのか。うちも、機を動かせるだけじゃ、足りない」
トーマさんは帽子を持ち上げ、膝に置き直した。
「師の孫が、昔の帳面を見せてくれる。私の知っている頃より、古いものもある。全部に答えがあるとは言えないが」
「私も、見せていただけますか」
そう尋ねると、トーマさんはうなずいた。
エーリクさんも一緒に伺うことになった。ミーナさんは夫へ、戻ってから残りの控えを調べようと言い、紙を日付ごとに重ねた。
彼は買い取り書を、今度は裏返さなかった。折り目を揃え、原毛の控えとも布の受領書とも別にして、箱へ入れた。
◇
午後、トーマさんに案内され、師の旧宅を訪ねた。
戸を開けてくれたのは、ベネディクトさんのお孫さんだった。私が名乗ると、居間へ通し、窓際の机を空けてくれた。
「祖父より前からの帳面も、ここへ集まっています。古い頁は、端から崩れますので」
重い箱を開けると、布に包まれた帳面があった。
エーリクさんが包みをほどくのを手伝った。持ち上がった表紙が反りかけ、下から掌を添える。
「このまま、机へ下ろせばいいですか」
「ええ。ありがとうございます」
留め紐が解かれた。授業を開いた日の記録だという。
トーマさんは頁の上の日付を読み、自分が生まれるより前だと教えてくれた。私は机へ身を寄せたが、帳面を自分のほうへ引くのはやめた。
薄い線で区切られた欄に、人の名が並んでいる。ところどころ筆が薄れ、読み取りにくい文字は、お孫さんにも確かめてもらった。
「ここは、教えた人の名でしょうか」
「そうです。隣が、授業を開いた場所ですね」
私は次の行へ目を移した。
途中で指が止まった。
カーヴェル。
前後の文字をもう一度追った。紙の傷ではなかった。私が手紙の終わりに書くのと、同じ姓だった。
エーリクさんが顔をのぞき込む。
「知っている人か」
「家の名です。私の」
声にしてから、もう一度その行を見た。知らない名の隣に、私の家の姓が、同じ大きさで記されていた。
次の頁の端へ指を掛けかけ、引いた。
「このあたりを、もう少し見せていただいても、よろしいでしょうか」
私は帳面から顔を上げ、お孫さんの返事を待った。
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