第52話 残りたい人、行きたい人
家の戸が開くと、仕事場の奥はもう薄暗かった。
エーリクさんが窓を開けた。夕方の光が機の脚を照らし、ミーナさんは荷物を壁へ寄せる。私は預かっていた包みを机へ置いた。
ハンナさんは上着を脱ぐ前に、写した図案を広げた。
「ここを教えてもらったの。線が細いままだと、端が」
「ここでは、足りないのか」
エーリクさんは窓に手を掛けたままだった。
ハンナさんの指が止まる。
「そういうことじゃなくて。向こうには、知らなかった織り方が」
「お前が行ったら、こっちは誰がやるんだ。今だって、手が余っているわけじゃない」
机の反対側で、布を畳んでいたミーナさんが顔を上げた。
「この子の明日まで、家の材料にしないで」
畳みかけの布の角が、彼女の手から落ちた。
「お前まで、出ていくと言うのか」
「私がどこで暮らすかは、まだ決めていないわ。今はハンナが、自分の話をしているの」
「家のことを、抜きにはできないだろう」
「抜きにするとも言っていないでしょう」
ハンナさんは図案の端を巻き始めた。向こうの工房で、何度も押さえていた紙だった。
私は水差しを取ろうとして、棚の場所を知らないことに気づいた。
「ミーナさん、お水をいただいてもよろしいでしょうか」
彼女が私を見て、それから台所を指した。
水差しと、人数分の椀を運んだ。机の真ん中へ置くには、荷物を少し動かす必要があった。エーリクさんが包みを持ち上げた。
「ありがとうございます。道で、喉が渇いてしまって」
注いだ水を飲む。ハンナさんも、片手を紙に残したまま椀を取った。
窓から入った風で、上着の裾が揺れた。ミーナさんは畳みかけの布を仕上げ、棚へ戻した。
◇
椀が一つ、空になった。
エーリクさんは織機へ向いたまま、何も言わなかった。私は水差しを置き、両手で自分の椀を包んだ。
「私も、三人がこちらで一緒に仕事を続けられたらと、考えていました」
ハンナさんがこちらを見る。
「皆さんが同じ答えをお持ちだと、思っていたんです。伺ってもいませんのに」
あの荷車が布を積まずに去ったあと、元へ戻すことばかり考えていた。誰の席を、どこへ戻すのかは、聞いていなかった。
ミーナさんは椀を机の端へ寄せた。
「一緒にいられたら、私は嬉しいですよ」
彼女は娘を見てから、続けた。
「でも、この子に仕事を全部覚えてもらえば何とかなる、では困ります」
「明日からの暮らしで、いちばん心配なのは、何でしょう」
「糸を買って、そのあと食べるお金が残るかどうかです。売れるか分からない布ばかり、ここに増えても」
出荷されなかった包みが、機の横にあった。ミーナさんはその上へ手を置く。
「向こうの家がよかったのも、雨のたびに布を移さなくて済みそうだったから。でも、ここで払っていけるなら、その話も聞きたいわ」
エーリクさんは機の右側をなでた。
「俺は、これで作りたい。ほかで食えるから、これを置いていけばいいとは、まだ思えない」
私はうなずいた。
そのあとに答えを足さずにいると、ハンナさんが紙をもう一度広げた。
「私は、あの人たちのところで習ってみたい。見ているだけで、どうしたのか分からないところが、たくさんあったから」
父親のほうへ紙を向ける手は、途中で止まった。それでも、巻き直しはしなかった。
ミーナさんは紙の上に落ちかけた包みの紐をよけた。
私は空いた椀を重ねず、それぞれの席に置いておいた。
◇
ハンナさんが鞄から、向こうで使わせてもらった端布を出した。
次に同じ鞄から、自分で縁を仕上げた見本を取った。二つを並べると、模様はずいぶん違ったが、端のまっすぐなところは似ていた。
「ここの布が嫌いなら、これを持っていかなかった」
指したのは、家の見本だった。
「見せてみたかったの。お父さんが教えてくれたやり方を、向こうでも使えたから」
エーリクさんが一歩近づいた。端布を裏へ返す。
「ここは、糸が」
ハンナさんも同じところを見た。浮いていた糸を指先ですくい、少しだけ緩める。父親の手は、布へ届く前に止まった。
「昨日は直したのに、畳んだら引っ掛けちゃった」
布を曲げ、戻す。エーリクさんは娘が手を離すまで待った。
「この斜めのところは、どうやった」
「色を替える前に、こっちを残すんだって。絵のままだと、ここで切れてしまうから」
ハンナさんは図案を寄せた。説明の途中で一度言い直し、紙の線をなぞる。
エーリクさんは、その指先を見ていた。
「次は、曲がった線も習いたいの。向こうの人は、注文する人の絵を見て、すぐに直すところが分かった」
「お前は、直せなかったのか」
「どこが困るかも、初めは分からなかった」
ハンナさんは小さく笑った。父親は笑わなかったが、端布を取り上げようともしなかった。
「ここの裏を、もう一度見せてくれ」
娘が布を返す。ミーナさんは灯りを持ってきて、二人の間ではなく、台の奥へ置いた。
窓の外は暗くなり始めていた。私は椀を運び、台所から戻って、少し離れた椅子へ座った。父娘の声はまだ途切れず、糸をどこへ通したかを確かめていた。
いつ帰るか、どれだけ覚えたら家へ戻るかという約束は、しなかった。
◇
夕飯をご一緒することになり、私はいったんユッタさんの家へ知らせに行った。
戻ると、仕事の机から食卓へ、灯りが移っていた。図案は畳んで棚の手前へ置かれ、上に端布が重なっている。
エーリクさんが鍋を持ち、娘の皿へよそった。
「これくらいか」
「うん。もう少し、芋も」
お玉が鍋へ戻る。ハンナさんの皿に、芋が一つ加わった。
向こうで出た食事にも同じ芋が入っていたと、ミーナさんが話した。切り方は違った、と娘が答える。私も思い出して、あちらのほうが小さかったと言った。
エーリクさんは自分の皿を最後によそい、鍋を置いた。
「明日、手紙を書きたい」
ハンナさんが匙を止めた。
「担当の方に、次に見に行く日と、修業の相談をいつできるか、聞いてもいい?」
父親はパンを割った。落ちたかけらを指で寄せる。
「聞くなら、分からないところを聞いてこい。賃金も、寝る場所も」
「うん。それも、聞く」
ミーナさんは娘へ、紙は引き出しにあると教えた。
食べ終わるころ、戸が叩かれた。エーリクさんが立つと、ゲルトさんのところの使いが、外から折った紙を差し出した。
「お戻りになったと聞きましたので。こちらをご覧ください」
ミーナさんが夫の横へ来た。
「いま、返事が要るの?」
「今夜でなくても。ただ、いつまでも同じ条件とは限りません」
使いは中へ入らず、紙を渡すと通りへ戻った。
ミーナさんが灯りの下で開く。読むにつれ、紙を持つ指が縁へ寄っていった。
「家を、譲れという話です」
エーリクさんが紙をのぞいた。
「譲れば、原毛代の残りを、一部は免じると」
ミーナさんは食卓へ紙を置いた。さっきまで鍋が載っていた場所に、家の間口と、残る支払いについての文字が並んでいた。
ハンナさんは皿を持ったまま、棚の図案を見た。それから、皿を台所へ運んだ。
エーリクさんが椅子を引く。ミーナさんも隣へ座った。
私は灯りを、二人が読めるところへ寄せた。
面白かったら評価、ブックマークいただけると嬉しいです。




