第51話 遠くの織機
荷車を降りると、建物の奥から織機の音が聞こえた。
朝食のあとに村を出て、途中で荷を積み替える馬車をよけながら、昼に着いた。ハンナさんは膝に置いていた包みを抱え、入口の上を見上げた。窓が二段に並んでいる。
案内の方が戸を開けても、エーリクさんはすぐには入らなかった。敷居へ足を載せ、奥の機と床を見比べている。
「いま織っているところも、見せてもらえるのか」
「ええ。通路からになりますが。荷物はこちらへどうぞ」
作業場には、幅の違う機が置かれていた。止めてある一台の脚には薄い木片が挟まっている。エーリクさんはそこへしゃがみ、触れずに、床へ顔を近づけた。
ミーナさんは住居の見取図を開いた。私は一緒に、裏の家まで歩いた。
案内で見た窓は、実際に押すと少し重かった。ミーナさんが両手で開ける。中へ入った風で、窓台の砂が一粒落ちた。
「水は、どちらから運ぶんでしょう」
家を出て水場へ向かい、戻ってくる。ミーナさんは戸口に空の桶を置く仕草をしてから、通路の幅を見た。
「ここなら、誰かが帰ってきても通れますね」
屋根の継ぎ目と、雨水の流れる溝も見せてもらった。修繕は管理人へ知らせる、と案内の方が言うと、ミーナさんは名前の書かれた札を確かめた。
仕事場へ戻る途中、窓からハンナさんの顔が見えた。父親の隣で機を見ていたが、こちらへ気づくと、小さく手を振った。
◇
午後の染め場では、湯気の向こうで布が引き上げられていた。
ミーナさんは袖を押さえ、干し場への溝をまたぐ。現地の染め手が水桶の前で足を止めると、すぐに隣へ並んだ。
「ここの水だと、この色は沈みませんか」
「最初は沈みましたよ。村から来た人に、前の分量のまま入れないでと言われて」
「私も、それをやりました。乾けば明るくなると思って待ったんです」
「なりませんでしたか」
「ええ、まったく」
二人は干してある布を見上げて笑った。ミーナさんが指した端を、相手が裏へ返す。私は濡れた布の色が袖につかないよう、少し下がった。
隣の仕上げ台では、ハンナさんと同じくらいの年頃の女性が、小さな図案の紙へ線を引いていた。客からの注文を、工房で織れる形へ直しているという。
「こんな小さな注文も、一人で任されるんですか」
「仕上げる前には見てもらいます。ここ、初めの絵のままだと端が細すぎるでしょう」
紙を回され、ハンナさんが身を乗り出した。
見学で試せる端布を出してもらい、色の違う糸を少しずつ通す。ハンナさんは端へ来ると、ひと目分だけ戻った。
「そこは、どなたに?」
「父です。引きすぎると、縁がつれるから」
エーリクさんが台の反対側へ回った。娘の指を見て、口を開きかける。
「この模様の時も、戻る長さは同じでいいんでしょうか」
ハンナさんの問いは、隣の女性へ向けられていた。
女性は別の端布を取って、並べた。エーリクさんは出しかけた手を引き、台の角をつかんだ。
「こちらは、もう少し余裕を残します。ほら、裏を見てください」
ハンナさんは裏を見てから、自分の糸を緩めた。横で見ていると分かるのに、表へ戻すと、どこを直したのか私には分からなくなる。
そう言うと、二人がそれぞれの布を差し出してくれた。
「端を持って、こう曲げるんです」
言われたとおりにして、ようやく小さな違いが見えた。
「こちらは、指に引っ掛かりませんね」
ハンナさんがうなずき、もう一度自分の布を曲げた。
ミーナさんは染め場から戻っても、すぐには座らなかった。窓辺で見本の色を確かめ、いま聞いてきた水の話を夫へしていた。
エーリクさんは聞きながら、娘の端布へ目を移した。私は受け取った布を返し、まだ空いている席へ腰を下ろした。
◇
夕方、食堂で温かい飲み物をいただいていると、リゼ伯爵がいらした。
工房の様子を見に来ていたという。案内の方が紹介すると、伯爵は私たちの卓へ来て、ハンナさんの前の端布を見た。
「今日、織ったものですか」
「端を、少し試させていただきました」
ハンナさんが立ちかけると、伯爵は座ったままで、と手を下げた。
「きれいに収まっていますね。私の領でも、こうした仕事を続けていただきたいのです。家を用意して待つのも、そのためです」
ミーナさんは飲み物の椀を置いた。
「初めの賃金がある間は、暮らせると思います。その期間が終わったら、どうなりますか」
案内の方が書類を開いた。保証される期間の先は、受ける仕事と工房での働き方を相談することになる。今と同じ額がずっと続くという約束ではなかった。
ミーナさんは該当する行へ、持参した紙の端を当てた。
「ここは、もう一度家で読みたいです」
「もちろん。そのためにお渡ししています」
エーリクさんは、機の運搬と据え付けを尋ねた。支援の範囲に入る分と、寸法を見なければ決まらない分がある。案内の方は空欄に線を引き、見積りを取ってから承諾してほしいと言った。
私は、椀の取っ手から手を離した。
「移ったあと、続けられないと分かった場合は、どうなりますか」
伯爵が案内の方へ目を向ける。指された箇所には、申し出る時期と、仕事を終えてから住居を空けるまでの猶予が書かれていた。
「その日に家も出なければならない、ということではないのですね」
「はい。ただし、こちらの期間は守っていただきます。分からないところは、契約の前に」
ハンナさんは、膝の上で布を畳んだ。
「家族で移るかどうかが決まらなくても、私の修業だけ、相談できますか」
エーリクさんの椀が、卓へ当たった。
案内の方は、ハンナさんへ向き直った。
「成人されたご本人の応募として伺えます。採用するか、期間や賃金をどうするかは、別にお話をしましょう」
ミーナさんが娘を見た。ハンナさんは布を膝から卓へ戻し、連絡先を紙の裏へ写した。
今夜、署名を求められることはなかった。村で仕事を続けるための助けは、移住の支援とは別に相談が必要だという話も、変わらなかった。
食堂を出る時、エーリクさんはもう一度、止まった織機の並ぶ部屋を見た。
◇
一晩泊まり、翌日も水場と荷の出る場所を確かめてから、帰りの荷車へ乗った。
午後の道では、車輪がくぼみを越すたびに、膝の包みが持ち上がった。ハンナさんは写した図案の折り目を伸ばし、その上へ手を置いている。
「向こうの機は、よく手が入っていたな」
エーリクさんが言った。
「床に合わせて、脚も直してあった。あれなら、長く踏んでも揺れない」
「窓も大きかったわ」
ミーナさんが答えた。
少し間が空いてから、エーリクさんは自分の掌を見た。
「うちの機の右側に、傷があるだろう。じいさんが道具を落とした跡だ」
「削らないで、と言っていたところ?」
「ああ。初めて一人で座らされた日に、そこへ手を置いたんだ。踏む方ばかり見ていたら、手元も見ろと言われてな」
彼は荷車の縁へ手を掛けた。親指で木をこする。
「あの傷へ、父親も手を置いていた。あそこで、もう少し作りたいんだ」
ミーナさんはうなずいたが、案内の紙を鞄へしまうのはやめなかった。
私は道の先を見た。畑の向こうに、村の屋根が低く並び始めていた。まだ明るい窓にも、そろそろ夕方の色が差していた。
ハンナさんが図案を畳んだ。
「私の修業は、別に相談したい」
父親を見て、それから母親を見る。
「家をどうするか決まるまで、しまっておきたくないの」
車輪がもう一度くぼみを越えた。エーリクさんは荷車の縁を握ったまま、娘の膝の紙を見た。
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