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聖女様がいらしたので、身代わりはもう不要だそうです。では、十年分の呪いをお返ししますね。  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第50話 返さない理由

 

 隣の控え室には、長椅子と小さな机があった。

 エッダさんは前掛けを畳んで座り、右手をその下へ隠した。私が向かいの椅子を引くと、閉じた戸を見た。


「ここなら、もう誰も来ません」

「では、お話を伺います。いつから、お手の具合が悪いのでしょう」

「先生が村へいらっしゃる前からです。刷毛や刃を持つと、震えて。疲れているだけかと思ったんですが」


 前掛けの端が、膝から落ちた。


「賃金を、いつ払ってもらえるか聞きに行ったんです。ゲルトさんに。急がせるなと言われて、私も、いつまでも待てないと。そのあとからでした」


 私は机の手前を空けた。


「右手を、こちらへ出していただけますか」


 エッダさんは前掛けを左手でよけた。差し出された手の甲には、細かな古傷があった。袖の下から、薄い糸が指の付け根へ延びている。


「刃を持ったほうが、分かりますか」

「いいえ。このままで結構です」


 手首を支え、絡んだ輪をたどった。指が止まっていても、糸は消えていない。重なったところをよけると、内側へ折り込まれた端が見えた。

 結び方と、締めた跡を確かめる。糸に込められた言葉も、結んだ人の名も読めた。


「『道具を持つ右手が震えろ』。そう結ばれています。送り主は、ゲルトという方です」


 エッダさんは、机の上の手を見ていた。


「やっぱり、あの人でしたか」


 その声は小さかった。私が手首から指を離すと、彼女は右手を膝へ戻した。


「エーリクさんの手が治ったと、聞きました」

「はい」

「荷車が、あの家の荷を置いていったでしょう。隣の分だけ積んで。通りから、見えたんです」


 机の木目を見ながら、エッダさんは言った。


「私も治ったら、次は、もう来なくていいと言われるんでしょうか」


 ◇


「この糸は、今ここで解けます。送り主へ返すこともできます。返さずに解くだけでしたら、糸は消えます」

「返さなければ、分からないでしょうか」


 私はすぐには答えられなかった。

 エッダさんが顔を上げる。


「手が戻れば、分かるでしょう。何日か見られなくても、また仕事に出れば」

「気づかれるおそれはあります。知られずに済むとは、お約束できません」


 彼女はうなずき、左手で右の袖を引いた。


「妹の稼ぎだけでは、二人分は足りません。仕上げを外されたら、来週、何を食べるかから考えないと」


 糸の端は、もう見えている。引き出す順も分かっていた。

 けれど、その手を机へ戻してくださいとは言えなかった。


「今までに、刃を落としかけたことはございますか」

「一度、滑らせました。台に当たっただけです。刷毛も、端からはみ出すことがあって。でも、少しくらいなら」

「お怪我は」

「していません。痛みも、今はありません」

「刃を使う仕事は、いったん避けていただきたいです。次も台に当たるだけで済むとは限りませんので」


 エッダさんの左手が止まった。


「それでは、仕事が」

「刃も刷毛も使わずにできることは、ありますか。今日は治さないとお決めになっても、その間のお仕事を一緒に考えたいんです」


 戸の向こうで、桶を動かすような音がした。エッダさんはそちらを見たが、足音は近づいてこなかった。


「治していただこうと思って、呼び止めたのに。おかしいですね」

「おかしくはありません」


 私は机へ置いた手を、自分の膝へ戻した。


「治ったあとの暮らしも、心配ですものね」


 エッダさんは口を結び、しばらくしてから息を吐いた。


「ええ。怖いんです」


 今度は、戸へ目をやらなかった。


 ◇


「布の検品なら、知り合いに聞けるかもしれません」


 エッダさんが言った。


「目が飛んでいるところや、仕上がりのむらを見る仕事です。数を書きつけるのも、頼まれるんですが」

「ペンも道具ですから、右手での記入は避けましょう」

「では、見つけたところを口で伝えて、書くのは別の人に。伝票を分けるだけなら、左手でもできます」


 机にあった紙切れを左手で動かし、二つに分ける。右手は膝に置いたままだった。


「明日、仕事を始める前に聞いてみます。刃を使うほうは、今はできないと伝えます」

「賃金と、いつ受け取れるかも、確かめてください」

「はい。妹にも、今夜話します。明後日までは、買ってあるもので食べられますから」


 私は鞄から帳面を出した。

 明朝は、エーリクさんたちと隣領の工房へ見学に行く。昨日の晩に一家で相談し、希望を伝えて日取りが決まったと、昼にミーナさんから聞いていた。一泊して、翌日の夕方には村へ戻る予定だった。

 エッダさんにも、その不在を伝えた。


「出掛ける前に心配なことがあれば、今でも、明日の朝でも伺えます」

「今、お話しできてよかったです。仕事の返事は、先生がお戻りになってからでも」

「はい。ただ、痛みが出たり、震えが強くなったりしたら、仕事を止めてください。私の帰りを待って我慢せず、診てもらえるところへ。食べるものが足りなくなりそうな時も、早めに相談しましょう」


 十日後の午後、ユッタさんの家で、もう一度ゆっくり話すことにした。帳面の日を指し、互いに確かめる。


「その前にも、一度お仕事の様子を伺います。処置を受けたくなったら、十日後まで待つ必要はありません」


 エッダさんは、帳面の空いたところを見た。


「今日のことも、書いておいていただけますか。いつからだったか、何と言われたか。あとで、私がうまく話せなくても」

「はい。お名前やお話をほかの方へ伝える時は、改めて伺います」


 日付と症状、読み取った言葉を書き、話してもらった経過を確かめながら続けた。エッダさんが一か所言い直し、私はそこを直した。


「記録のために、糸を残しておく必要はありません。治したい時は、今日でも」


 彼女は右の指を一本ずつ伸ばした。


「今日は、待ちたいです」

「承知しました」


 私は帳面を閉じた。エッダさんは前掛けを脇へ抱え、戸のところまで歩いてから振り返った。


「返せる日が来たら、私からお願いします」

「はい。その時に、またお話を伺います。解くだけに変えても構いません」


 エッダさんはうなずいた。

 外へ出ると、通りの向こうに灯りがついていた。彼女は帰る方角へ一歩進み、それから前掛けを抱え直した。


「今日は、妹に肉を残しておいてもらわないと」


 私は頭を下げて見送った。左腕に掛けた前掛けの端が、歩くたびに揺れていた。


 ◇


 ユッタさんの家では、母娘がもう食卓についていた。

 私の席に、空の椀が一つ置いてあった。


「遅くなりました。戻ると言っていたのに、すみません」

「鍋に残してありますよ。まだ温かいから」


 マリエラさんが椅子を引いた。髪の薄緑の紐が、背へ落ちる。

 私は鞄を部屋へ置き、手を洗って戻った。


「今日、粉屋さんで袋を受け取ったら、底が少し開いていたんです」


 マリエラさんは、自分の膝のあたりを指した。


「すぐ気づけばよかったのに。籠へ入れるまで持っていて、前が真っ白になって」

「先に袋を置けばいいのに、服を払おうとするからね」


 ユッタさんが言うと、娘は口を押さえて笑った。

 私は鍋から一人分をよそい、席へ戻った。


「明日は、朝食をいただいてから工房へ向かいます。戻るのは、明後日の夕方の予定です」

「はい。私は、朝のお客さまをお迎えします。そのあとも、母とこちらにいますから」


 マリエラさんはパンの籠を寄せてくれた。

 相談のことを尋ねる声はなく、私も話さなかった。匙を入れると、大きく切った玉ねぎが浮かんだ。


「これは、私が切りました」

「お店で選んでいた分ですね」


 私はひと匙を口へ運んだ。よく煮えていて、噛むと甘かった。


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