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聖女様がいらしたので、身代わりはもう不要だそうです。では、十年分の呪いをお返ししますね。  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第49話 私のお客さま

 

 翌朝、ユッタさんは買い物籠に小銭入れを入れた。

 巻き直された持ち手を、マリエラさんが取る。


「お昼を食べたら、粉屋さんから行こう。そのあと、角のお店」

「先に野菜を見たいんだけどね」

「じゃあ、野菜から。帰ったら、私も夕飯を作るから」


 私は昨日の輪の図を閉じた。トーマさんからの返事は、まだ届いていない。急いで出掛ける用事もなく、店先までご一緒してよいか尋ねようとした。

 戸を叩く音がした。

 近所に住んでいるという女性が、マリエラさんの顔を見て手を合わせる。


「帰っていらしたと聞いて。少し、お願いできますか」

「はい。どうなさいましたか」


 ユッタさんが椅子を出した。マリエラさんは籠を卓へ戻し、女性の向かいへ座った。

 夜に物音がすること。隣の家でも、棚から物が落ちたこと。女性は順に話し、最後に膝の上で手を重ねた。


「今夜、うちで祈っていただけませんか。朝まで家を守っていただけたら、安心で」


 マリエラさんの顎が、わずかに下がった。返事が出る前に、開いた戸の向こうから声がした。


「私も、少し。昼から、仕事場へ来ていただけると」


 男の人が帽子を取り、戸の脇へ寄った。

 ユッタさんはもう一つ椅子を運んだ。通り道を空けるため、卓の籠を持ち上げ、机の下へ置く。小銭入れが傾き、籠の底で小さく鳴った。

 マリエラさんの目が、その音を追った。

 私は口を開きかけたが、水差しを置くにとどめた。彼女は女性へ向き直り、膝に置いた両手を揃えた。


 ◇


「先に、私にできることをお話ししてもよろしいですか」


 女性がうなずいた。


「私の祈りが届くのは、祈っているあいだ、近くにいらっしゃる方です。家へ祈っておけば、離れたあとも朝まで守れる、というものではないんです」

「では、ここで祈ってもらっても、帰ったら」

「同じように守りが続くとは、お約束できません。それから、もうかかっている呪いを、祈りで消すこともできません」


 戸の脇の男性も、こちらを見た。

 マリエラさんは一度唇を閉じ、続けた。


「物音だけでは、呪いかどうかは分かりません。お体に痛みや震えがあるのでしたら、祈りだけで済ませず、具合を診てもらってください」


 女性は、自分にも夫にも、今のところそういうことはないと答えた。マリエラさんはそれを聞いてから、今ここにいる方のために、短く祈ることはできると伝えた。

 私は空いている椅子を少し寄せた。

 祈りのあいだ、戸口の男性も帽子を膝へ置いた。終わると女性は礼を言い、立ちながら、もう一度マリエラさんを見た。


「それなら、今夜うちへ来ていただいて、私たちのそばで祈ることは」


 マリエラさんの手が、椅子の背に触れた。


「マリエラ。今夜は私と食べる約束だったでしょう」


 ユッタさんは空の椀を重ねていた。娘を引き寄せず、返事を待っている。

 マリエラさんは母を見て、それから女性へ頭を下げた。


「今日は午後から、母と買い物に出ます。帰って、一緒に夕飯を作る約束もしています。今夜の訪問は、お受けできません」


 女性の口もとが少し下がった。マリエラさんは言い直さず、その顔を見ていた。


「そうね。お母さんとも出掛けたいでしょうね」


 男性は帽子を持ち直した。


「こちらの話も、今日でなくていいんです」

「では、明日の朝、朝食のあとにいらしていただけますか。まず、お困りのことを聞かせてください」


 男性は、その時刻なら来られると答えた。

 二人を戸口で見送ると、マリエラさんは机の下へ屈んだ。けれど籠はもうなく、ユッタさんの腕に掛かっていた。


「野菜が先、でしたね」

「ええ。そのあとなら、角のお店もまだ開いてるよ」


 マリエラさんが持ち手へ手を添える。ユッタさんは少しのあいだ一緒に持ってから、娘へ渡した。


 ◇


 昼を済ませ、三人で通りへ出た。

 野菜の店でユッタさんが玉ねぎを選び、マリエラさんが籠の底へ並べる。角を曲がった先には、紐や針を売る小さな店があった。

 店先の棒に、飾り紐が何本も掛かっていた。


「前は、いちばん明るい色を欲しがったね」


 ユッタさんが、黄色い紐を指した。


「今は、こっちが好き」


 マリエラさんは隣の薄緑の紐へ手を伸ばした。派手な房も、縫いつけた飾りもない細い紐だった。

 ユッタさんは店の人に断って、それを娘の頬の横へ当てた。


「これくらいなら、いつもの服にも合うね」

「髪に結びたいの。後ろで、少し垂らして」


 マリエラさんが髪を片側へ寄せた。母親は紐を当てる位置を上へ動かし、端を二本揃えた。


「その長さで、結び目まで足りる?」

「たぶん。少し、結んでみてもいいかな」


 許しをもらって自分で輪を作る。端が片方だけ長くなり、ユッタさんが指で示した。マリエラさんは笑ってほどき、もう一度、真ん中を取り直した。

 私はそこで二人と別れ、ミーナさんの家へ向かった。


 仕上げを別に頼むなら、どのくらいの量から受けてもらえるか。代金はいつ要るのか。ミーナさんと、尋ねたいことを紙へ書いた。

 ミーナさんは、仕上げ場のエッダさんという職人に話を通してくれていた。今日は手が離せないので、私が代わりに伺う。仕事が終わる夕方に、一般の頼み方だけを聞く約束だった。


 いったんユッタさんの家へ戻り、鞄を持って出ようとすると、二人が帰ってきた。

 籠には粉の袋が載り、その横から長ねぎが出ていた。


「先生。これにしました」


 マリエラさんが、髪の後ろへ手をやった。結んだ薄緑の紐が、肩へ落ちる。


「よくお似合いです」

「思っていたより安かったんです。母に結んでもらいました」

「自分では、左右が揃わないって言うから」


 ユッタさんが娘の肩に掛かった紐を、背へ戻した。マリエラさんはその端をつまみ、私にも見えるように広げた。


「夕食までには、戻ります」

「はい。今日は私も作りますから」


 二人は籠を挟んで中へ入った。戸を閉める前に、台所から、水を先に汲もうというマリエラさんの声が聞こえた。


 ◇


 仕上げ場では、開いた戸から濡れた布の匂いが流れていた。

 声を掛けると、外の片づけ台にいた女性が振り向いた。


「ミーナさんから伺っていた方ですね。エッダです」

「ノエラと申します。お忙しいところ、ありがとうございます」


 エッダさんは刷毛を並べ替えていた。毛先の曲がったものをよけ、洗ったものを一本ずつ吊るす。私の立つ場所を見て、足もとの桶を台の下へ入れた。


「これを済ませたら帰ります。今日は妹が煮込みを作る日で」

「お二人で召し上がるのですか」

「ええ。一緒に住んでいても、帰る時刻が合わなくて。週に一度は、鍋を真ん中に置いて食べるんです。遅いと、肉から減っていきますから」


 笑いながら、刷毛の間隔を直す。

 私は紙を出し、個人で布の仕上げを頼む場合の、普段の窓口を尋ねた。


「申し込みも代金の話も、ゲルトさんのところです。こちらへは札が回ってきます」

「少ない枚数でも、まずそちらへ」

「はい。私から、受けられるとは言えなくて」


 台の端に帳簿があったが、私は開いてもらうようには頼まなかった。聞いた窓口だけを書き留める。

 エッダさんは最後の刷毛を右手へ渡しかけ、やめた。左手のまま持ち上げ、空いた釘へ掛ける。

 中から二人が出てきて、また明日と声を掛けた。エッダさんも返事をしたが、前掛けの紐はほどかなかった。


「ありがとうございました。それでは」


 私が紙をしまうと、彼女は通りへ目を向けた。二人の足音が遠ざかる。


「先生」


 私は足を止めた。

 エッダさんは台の陰へ右手を下ろした。


「私の糸も、あの人のですか」


 私は鞄から手を離した。


「二人で、落ち着いてお話しできる場所はありますか」


 エッダさんは隣の戸を見た。それから、左手で前掛けの結び目を引いた。


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