第49話 私のお客さま
翌朝、ユッタさんは買い物籠に小銭入れを入れた。
巻き直された持ち手を、マリエラさんが取る。
「お昼を食べたら、粉屋さんから行こう。そのあと、角のお店」
「先に野菜を見たいんだけどね」
「じゃあ、野菜から。帰ったら、私も夕飯を作るから」
私は昨日の輪の図を閉じた。トーマさんからの返事は、まだ届いていない。急いで出掛ける用事もなく、店先までご一緒してよいか尋ねようとした。
戸を叩く音がした。
近所に住んでいるという女性が、マリエラさんの顔を見て手を合わせる。
「帰っていらしたと聞いて。少し、お願いできますか」
「はい。どうなさいましたか」
ユッタさんが椅子を出した。マリエラさんは籠を卓へ戻し、女性の向かいへ座った。
夜に物音がすること。隣の家でも、棚から物が落ちたこと。女性は順に話し、最後に膝の上で手を重ねた。
「今夜、うちで祈っていただけませんか。朝まで家を守っていただけたら、安心で」
マリエラさんの顎が、わずかに下がった。返事が出る前に、開いた戸の向こうから声がした。
「私も、少し。昼から、仕事場へ来ていただけると」
男の人が帽子を取り、戸の脇へ寄った。
ユッタさんはもう一つ椅子を運んだ。通り道を空けるため、卓の籠を持ち上げ、机の下へ置く。小銭入れが傾き、籠の底で小さく鳴った。
マリエラさんの目が、その音を追った。
私は口を開きかけたが、水差しを置くにとどめた。彼女は女性へ向き直り、膝に置いた両手を揃えた。
◇
「先に、私にできることをお話ししてもよろしいですか」
女性がうなずいた。
「私の祈りが届くのは、祈っているあいだ、近くにいらっしゃる方です。家へ祈っておけば、離れたあとも朝まで守れる、というものではないんです」
「では、ここで祈ってもらっても、帰ったら」
「同じように守りが続くとは、お約束できません。それから、もうかかっている呪いを、祈りで消すこともできません」
戸の脇の男性も、こちらを見た。
マリエラさんは一度唇を閉じ、続けた。
「物音だけでは、呪いかどうかは分かりません。お体に痛みや震えがあるのでしたら、祈りだけで済ませず、具合を診てもらってください」
女性は、自分にも夫にも、今のところそういうことはないと答えた。マリエラさんはそれを聞いてから、今ここにいる方のために、短く祈ることはできると伝えた。
私は空いている椅子を少し寄せた。
祈りのあいだ、戸口の男性も帽子を膝へ置いた。終わると女性は礼を言い、立ちながら、もう一度マリエラさんを見た。
「それなら、今夜うちへ来ていただいて、私たちのそばで祈ることは」
マリエラさんの手が、椅子の背に触れた。
「マリエラ。今夜は私と食べる約束だったでしょう」
ユッタさんは空の椀を重ねていた。娘を引き寄せず、返事を待っている。
マリエラさんは母を見て、それから女性へ頭を下げた。
「今日は午後から、母と買い物に出ます。帰って、一緒に夕飯を作る約束もしています。今夜の訪問は、お受けできません」
女性の口もとが少し下がった。マリエラさんは言い直さず、その顔を見ていた。
「そうね。お母さんとも出掛けたいでしょうね」
男性は帽子を持ち直した。
「こちらの話も、今日でなくていいんです」
「では、明日の朝、朝食のあとにいらしていただけますか。まず、お困りのことを聞かせてください」
男性は、その時刻なら来られると答えた。
二人を戸口で見送ると、マリエラさんは机の下へ屈んだ。けれど籠はもうなく、ユッタさんの腕に掛かっていた。
「野菜が先、でしたね」
「ええ。そのあとなら、角のお店もまだ開いてるよ」
マリエラさんが持ち手へ手を添える。ユッタさんは少しのあいだ一緒に持ってから、娘へ渡した。
◇
昼を済ませ、三人で通りへ出た。
野菜の店でユッタさんが玉ねぎを選び、マリエラさんが籠の底へ並べる。角を曲がった先には、紐や針を売る小さな店があった。
店先の棒に、飾り紐が何本も掛かっていた。
「前は、いちばん明るい色を欲しがったね」
ユッタさんが、黄色い紐を指した。
「今は、こっちが好き」
マリエラさんは隣の薄緑の紐へ手を伸ばした。派手な房も、縫いつけた飾りもない細い紐だった。
ユッタさんは店の人に断って、それを娘の頬の横へ当てた。
「これくらいなら、いつもの服にも合うね」
「髪に結びたいの。後ろで、少し垂らして」
マリエラさんが髪を片側へ寄せた。母親は紐を当てる位置を上へ動かし、端を二本揃えた。
「その長さで、結び目まで足りる?」
「たぶん。少し、結んでみてもいいかな」
許しをもらって自分で輪を作る。端が片方だけ長くなり、ユッタさんが指で示した。マリエラさんは笑ってほどき、もう一度、真ん中を取り直した。
私はそこで二人と別れ、ミーナさんの家へ向かった。
仕上げを別に頼むなら、どのくらいの量から受けてもらえるか。代金はいつ要るのか。ミーナさんと、尋ねたいことを紙へ書いた。
ミーナさんは、仕上げ場のエッダさんという職人に話を通してくれていた。今日は手が離せないので、私が代わりに伺う。仕事が終わる夕方に、一般の頼み方だけを聞く約束だった。
いったんユッタさんの家へ戻り、鞄を持って出ようとすると、二人が帰ってきた。
籠には粉の袋が載り、その横から長ねぎが出ていた。
「先生。これにしました」
マリエラさんが、髪の後ろへ手をやった。結んだ薄緑の紐が、肩へ落ちる。
「よくお似合いです」
「思っていたより安かったんです。母に結んでもらいました」
「自分では、左右が揃わないって言うから」
ユッタさんが娘の肩に掛かった紐を、背へ戻した。マリエラさんはその端をつまみ、私にも見えるように広げた。
「夕食までには、戻ります」
「はい。今日は私も作りますから」
二人は籠を挟んで中へ入った。戸を閉める前に、台所から、水を先に汲もうというマリエラさんの声が聞こえた。
◇
仕上げ場では、開いた戸から濡れた布の匂いが流れていた。
声を掛けると、外の片づけ台にいた女性が振り向いた。
「ミーナさんから伺っていた方ですね。エッダです」
「ノエラと申します。お忙しいところ、ありがとうございます」
エッダさんは刷毛を並べ替えていた。毛先の曲がったものをよけ、洗ったものを一本ずつ吊るす。私の立つ場所を見て、足もとの桶を台の下へ入れた。
「これを済ませたら帰ります。今日は妹が煮込みを作る日で」
「お二人で召し上がるのですか」
「ええ。一緒に住んでいても、帰る時刻が合わなくて。週に一度は、鍋を真ん中に置いて食べるんです。遅いと、肉から減っていきますから」
笑いながら、刷毛の間隔を直す。
私は紙を出し、個人で布の仕上げを頼む場合の、普段の窓口を尋ねた。
「申し込みも代金の話も、ゲルトさんのところです。こちらへは札が回ってきます」
「少ない枚数でも、まずそちらへ」
「はい。私から、受けられるとは言えなくて」
台の端に帳簿があったが、私は開いてもらうようには頼まなかった。聞いた窓口だけを書き留める。
エッダさんは最後の刷毛を右手へ渡しかけ、やめた。左手のまま持ち上げ、空いた釘へ掛ける。
中から二人が出てきて、また明日と声を掛けた。エッダさんも返事をしたが、前掛けの紐はほどかなかった。
「ありがとうございました。それでは」
私が紙をしまうと、彼女は通りへ目を向けた。二人の足音が遠ざかる。
「先生」
私は足を止めた。
エッダさんは台の陰へ右手を下ろした。
「私の糸も、あの人のですか」
私は鞄から手を離した。
「二人で、落ち着いてお話しできる場所はありますか」
エッダさんは隣の戸を見た。それから、左手で前掛けの結び目を引いた。
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