第48話 習わなかった手
「ご挨拶が遅れました。ノエラと申します」
トーマさんが腰を下ろしてから、私は名乗った。
マリエラさんも隣で頭を下げる。エーリクさんが椅子を寄せ、四人で窓際の机を囲んだ。
古い布の端は、木片の下に収まっていた。
「この図について、お話を伺ってもよろしいでしょうか」
「古い話になるよ。四十五年ほど前だ。私が師匠のところへ通っていたころだから」
トーマさんは、木札のそばに両手を置いた。
「師匠は、呪いを返したことがある。その人が、返してほしいと頼んだ。私も、そばで聞いていた」
「返すことは、できたのですか」
「できた。手も治ってね。その日は、自分で荷物を持って帰った」
彼の指が、机の縁をつかんだ。
「だが、そのあとで働き口を取られた。呪いを送った側が、手を回したんだ」
エーリクさんが右手を机から下ろした。膝の下へ入れた指は、こちらから見えなくなった。
私はトーマさんへ目を戻した。
「返した糸が、またその方へ戻ったわけではないのですね」
「ああ。手は、治ったままだった」
窓の外で、車輪が石を踏む音がした。通り過ぎるまで、トーマさんは机の縁から手を離さなかった。
「師匠は、それから返す仕事をやめた。私たちにも、その先を教えなくなった。習いかけの形を、見よう見まねで人に教えるなと言われたよ」
「ほかの土地でも、同じことがあったのでしょうか」
「国じゅうのことは知らない。私が知っているのは、ここで起きたことだけだ」
返事はすぐに返ってきた。私はうなずいた。
トーマさんは布の図を見下ろし、上着の袖を引いた。
「私も、別の仕事へ移った。最後まで習わずにね」
そこで声が切れた。
私は最後の図から、最初の輪へ目を移した。
「習っていらしたころは、ほかのお仕事もなさっていたのですか」
「荷を運ぶ仕事を、少し。そっちを続けることにしたんだ。飯を食う方は、残しておきたかった」
「長く、お続けになったのですか」
「ああ。持ち方を覚えるまでは、肩が痛くてね」
袖をつかんでいた手が、肩へ上がった。軽くさすり、それから膝へ戻る。
私は先ほど借りた紐をほどいた。古い布には載せず、机の空いているところへ伸ばす。
「習ったところを、見せていただけますか」
トーマさんが、私の顔を見た。
「最初の輪なら、まだ作れると思うが」
「はい。そこを、拝見したいです」
◇
紐を持つまでに、少し時間がかかった。
トーマさんは端を二度つまみ直し、片方を左手に渡した。輪にして、交差を親指で押さえる。
その指は、動くたびに同じ位置へ戻った。
長い端を通す途中で、輪の片側が細くなりかけた。彼は引くのをやめ、下から人差し指を差し入れた。紐が指の腹に沿って、丸く開き直す。
「もう、遅くなったな」
トーマさんはそう言ったが、急いで続きを作ろうとはしなかった。短い端を少し送り、輪の大きさを確かめてから、次の重なりを押さえた。
私はその手がよく見えるように、椅子を寄せた。
「ここで止められるのですね」
「ここ?」
「はい。輪が狭くなる前に、指を入れ直していらっしゃいました」
彼は手もとを見た。それから、一つ前の形へ戻してくれた。
「ここを引ききると、次に入れる指が痛いんだ。昔、何度もやり直したよ」
エーリクさんが引き出しから紐をもう一本出した。マリエラさんは礼を言って受け取り、隣で輪を作り始めた。
端を下から通すところまでは、同じようにできた。けれど、引き上げると二本が強く重なり、輪が細長くなった。
「あれ。こちらは、開きません」
彼女が両端を持ち直して引くと、ますます細くなる。
トーマさんの手が、少し浮いた。
「そこを、見せてもらえるかね」
「お願いします」
マリエラさんが紐を机へ下ろした。彼は全部をほどかず、重なった一本へ爪の端を入れた。ほんの少し浮かせ、短い端を輪のほうへ送る。
つぶれていた隙間が開いた。
「ここだけ、強かったんだ。もう一度、持ってごらん」
彼女は左手で輪を支え、右手の指を入れた。今度は、紐を押し広げなくても入った。
「このくらい、残すのですね」
「そう。形を揃えようとすると、つい引きたくなるが」
トーマさんが自分の輪を横へ並べた。
大きさは少し違った。それでも、次に指を置く隙間は、どちらにも残っている。
マリエラさんはそのまま続きを作り、一つ先で止めた。
「指を替えても、崩れません」
私にも見えるよう、両手の向きを変える。トーマさんの口もとが、少し緩んだ。
「師匠は、その輪ばかりやらせたよ。早く次を習いたいと言ったら、自分の指を締めなくなってからだと言われた」
「私も、今ので少し痛かったです」
マリエラさんが人差し指を伸ばした。薄い紐の跡がついている。
エーリクさんは机に肘を乗せ、二つの輪を見ていた。
「織りの結びなら、そこで締めてしまうな」
「まだ、動かす場所があるからね」
トーマさんは自分の紐を持ち上げた。次の形へ進めず、同じ輪をもう一度、ゆっくり作って見せた。
私は指を入れる時機を見ていた。母に習った手順の中にも、こんなふうに見直せるところがあった。
◇
窓から入る光が、机の端へ移っていた。
マリエラさんは帳面を開き、今作った輪を描いた。締めたところには、短い線を一本添える。
私は家伝の写しを畳んだ。
「ベネディクトさんの授業について、もう少し知りたいです。何か、記録は残っておりますか」
「授業帳なら、孫が持っている。師匠の住んでいた家に、今も置いてあるはずだ」
私は帳面を取り出しかけた。
トーマさんが続ける。
「見せてもらえるか、まず私から尋ねよう。どれが残っているかも、確かめないといけない」
「お願いいたします。見せていただける範囲で、伺えれば」
日を決める言葉は、いったん口の中へ戻した。帳面を持っている方には、その方の都合がある。
「昔の依頼人のことも、ご家族に聞いてからにしたい」
トーマさんは布の角を見て言った。
「その人は、もう亡くなっている。残った家族が、どこまで話してよいと思うか、私だけでは決められない」
「はい。お名前や、お家のことは、それからにいたします」
私は今日の話を書き留めてもよいか尋ねた。トーマさんがうなずいたので、彼が師のもとで学んだころの話として、時期も一緒に記した。
返却はできたこと。そのあと、働き口を奪われたこと。
授業帳については、まだ見ていないと書き添えた。
隣では、マリエラさんが図に描いた線を消していた。
「ここ、下を通っていましたね」
「はい。私も、今の持ち方を描いておきたいです」
彼女が帳面を少しこちらへ向けた。
「先生にも、初めてのことがあるのですね」
「あります。今も」
私は空いた頁へ輪を描き、指を止めるところに印をつけた。マリエラさんは私の図をのぞき、それから自分の図に指を描き足した。
片づけるころには、借りた二本の紐が、同じ向きに並んでいた。
エーリクさんがそれを引き出しへ戻す。古い布は、この家の机に残した。
戸口で礼を言うと、トーマさんが顔を上げた。
「授業帳には、別々の町から来た弟子の名もあった。町の名が読めず、隣の人に教えてもらった覚えがあるよ」
「この村の方だけでは、なかったのですね」
「ああ。そこも、帳面を見れば確かめられるだろう」
外へ出てから、マリエラさんが自分の帳面を胸へ抱え直した。
「戻ったら、もう一度やってみます」
「私も、ご一緒してよろしいですか」
「はい。今度は、締める前に止めます」
差し出された彼女の指を見て、私も同じように曲げてみた。二人の間に紐はなかったが、どこで止めるかは、分かった。
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