第47話 最後の図
ミーナさんは、重なっていた二枚の紙を揃えた。
「今夜、三人で話そう。見に行く日のことも、そのときに」
エーリクさんは返事をしなかった。ハンナさんが父親を見てから、紙へ目を落とす。
「これ、私の台に置いてもいい?」
「油のつかないところにね」
ミーナさんが手を離した。ハンナさんは二枚を持ち、自分の作業台へ運んだ。折り目を伸ばし、図案の台が見えるほうを上にする。
エーリクさんはその背中を見ていたが、取り戻そうとはしなかった。
私は椅子を少し引いた。何か一言添えようとして、膝の上で手を重ね直した。ミーナさんが夫のそばを通り、戸口に寄せてあった籠を持ち上げる。
「その椅子、まだ使いますか」
「はい。よろしければ、もう少し」
私はエーリクさんへ向き直った。
「別のことで、お願いがございます。初めて伺った日に、棚で拝見した紐の見本を、見せていただけませんか」
エーリクさんの目が棚へ動いた。
「あの、古い布か」
「はい。母に教わった形と似ていて、気になっておりました」
彼はうなずき、棚の前を空けた。私は椅子を窓際へ寄せた。
◇
丸めた布の端から、太い紐が一本出ていた。
エーリクさんは両手で下ろし、机へ寝かせた。巻きを開くと、端がまた丸まってくる。彼は短い木片を二つ持ってきて、紐のないところへ置いた。
「強く押さえると、裂けそうですね」
「ここは、もう薄い。こっちへ載せたほうがいい」
木片をずらした指の下で、布が平らになった。一緒に巻かれていた小さな木札は、横へよけられた。
紐は何か所かで布に縫い留められ、その隣に、結び方を順に描いた図があった。二つ目の輪の脇だけ、布の目が白く毛羽立っている。指を差し入れるなら、ちょうど爪が当たる場所だった。
「いつから、こちらにある物なのですか」
「父がもらってきた物だ。亡くなった術師の家を片づけるのを手伝って、そのときに」
お父さんが亡くなってからも、この家に置いてあったという。
「俺は、織りの結び見本だと思っていたよ」
エーリクさんは、ほどけかけた縫い糸を布の上へ戻した。
「糸を替えるときに使えるかと、広げたことはある。だが、これでは端が余る」
彼が指した輪を、私は横から見た。余る端の位置まで、覚えている形に似ていた。
戸が開き、マリエラさんが入ってきた。
「先生、こちらでよかったですか」
包みから出してくれたのは、朝、持ってきてほしいと頼んでおいた家伝の写しだった。私は礼を言って受け取り、古い布の隣へ開いた。
同じ輪から始まっている。次に端を折る向きも、そのあと指を入れる順も。
布の図には、下を通す線をいったん消し、上へ描き直した跡があった。少し先にも、同じところを直している。
「ここで、間違えたのでしょうか」
マリエラさんの問いに、私は二つの跡を見比べた。
「何度か、確かめたようですね」
自分も母の前で、この端を逆へ通したことがある。そう思うと、擦れた布へ、もう少し顔を近づけたくなった。
◇
最後の図だけは、見本の紐がついていなかった。
その手前までは、図の順に手つきを思い出せた。けれど、最後に描かれた短い端は、今までと反対へ出ている。
縫い留められた紐に触れかけ、手を止めた。
「別の紐を一本、お借りできますか」
エーリクさんが引き出しを開け、包みに使う紐を渡してくれた。私は机の空いたところへ置き、片方を長く残して輪を作った。
端を折り、その折ったところを輪の下から通す。重なる二本を親指で押さえ、形が締まりきる前に止めた。
マリエラさんが私の手から図へ目を移す。
「ここまでは、同じですね」
「はい。次で、この端が向こうへ出るはずなのですが」
私は短い端をつまんだ。結びを解くときのように、輪から少しずつ抜いていく。端は向こうへ移ったが、重なっていたところがほどけた。
図には、まだ二本が交差している。
抜けた紐を机へ置くと、曲がっていたところがゆっくり開いた。
「あれ。ここが、なくなってしまいました」
マリエラさんが、布には触れず、交差の上へ指を止めた。
「そうですね。これでは、図と違います」
私はもう一度、最初から輪を作った。今度は長い端を動かしてみたが、輪そのものが小さくなる。戻すと、先ほどと同じところに端が残った。
エーリクさんが木片を持ち上げた。
「この下にも、何か描いてある」
布の隅に、小さな手があった。輪を持っているらしいが、指の線が一部薄れている。
私は結び目をつまんだまま、空いた手の親指を図へ近づけた。
爪のある側をそろえると、人差し指が反対になる。指を入れ替えようとすると、押さえておくべき交差から手が離れた。
「先生。手のひらは、こちらを向いていませんか」
マリエラさんが自分の手を返した。
私も同じようにしようとして、止まった。
端を抜く必要があるとは、どこにも描いていなかった。
親指と人差し指で交差を挟み直す。そのまま、結び目ごと裏へ返した。
短い端が向こうへ出た。二本の交差は残っている。支えている指の腹も、図に描かれた側へ揃った。
「ここです」
思ったより、声が大きくなった。
私は手を止め、マリエラさんにも横から見てもらった。
「指を離さずに、返すのですか」
「はい。この重なりを残したまま」
彼女は布の図を見て、私の紐を見た。それから、先ほど端を抜いた場所を確かめるように、自分の指を曲げた。
私はいったん表へ戻し、もう一度、ゆっくり裏返した。途中で支えを移す場所にも、覚えがあった。実際の呪いを送り主へ返すとき、結び目を崩さずに持ち替える、その手つきだった。
「これは、返却の練習です。解くところで終わらず、結びを残して返すところまで、教えていたのだと思います」
エーリクさんが、私の手の下をのぞいた。
「だから、その端をしまわんのか」
「はい。次に持つ場所を、残してあります」
彼はうなずき、木片を図にかからない位置へ置き直した。
私の手の中にあるのは、借りた紐だった。指を緩めても、その形で机へ置ける。
母に習ったときは、母の手と自分の手を見ていた。ここにも、この形を見せる人がいて、やり直す人がいたのだ。
古い布と家の写しを、もう一度並べて見た。輪の描き方は似ているが、こちらには指の絵がある。写しでは言葉になっているところだった。
マリエラさんが、二つの図へ交互に目をやった。
「同じ方が描いたのでしょうか」
「そこまでは、まだ分かりません。でも、ここで習った方のお話を、聞いてみたいです」
答えてから、私は最後の図へ目を戻した。薄れた線の続きが、さっきよりはっきり見えた。
◇
「エーリク、さっき人が来ていたようだが」
戸口で声がした。
年を取った男の人が、開いた戸に手を掛けていた。エーリクさんが顔を上げる。
「ああ、トーマさん。隣領の工房の話でね」
トーマさんはうなずきながら入ってきた。机のそばで足を止める。最初は古い布を、それから私が作った結び目を見た。
伸びかけた手が、上着の裾へ戻った。
「そこは、もう教えるなと言われた」
私は持ち上げていた紐を、机へ置いた。
「誰にですか」
トーマさんはすぐには答えなかった。布の横へよけられた木札を見つけ、エーリクさんへ目を向ける。彼がうなずくと、札を手に取った。
親指で表をぬぐい、窓のほうへ傾ける。刻まれていた字が見えた。
ベネディクト。
「私の師匠だ」
その名前を、ゆっくり指でたどった。
「私も、ここを習いかけた」
彼は木札を布の横へ戻した。指はしばらく札の端に残り、それから机へ下りた。
「椅子を、一つもらえるかね」
私は窓際の椅子を引いた。古い布と、作り直した紐が、座って見えるところへ。
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