第46話 用意された家
翌朝、エーリクさんは、持参した見本の縁を二本の指で挟んだ。
「この幅なら、きれいに収まります」
「では、お願いいたします」
ミーナさんが注文の紙へ印をつけ、見本と一緒に棚へ置いた。机に残っていた布も片づけていく。
私は戸口のほうへ寄った。エーリクさんが壁際から椅子を運び、机の横へ置いた。床の継ぎ目を避けるように脚をずらし、手を離す。
「ありがとうございます」
頭を下げると、彼は椅子の背を見たまま、うなずいた。
まだ席へ着く前に、少し声を落として尋ねた。
「手の症状と、解いたときのことを、お話ししてもよろしいですか」
「それなら。誰からだったかは、今日は」
「はい。そこはお話ししません」
エーリクさんが椅子の向こうへ回ったところで、戸が叩かれた。
訪ねてきたのは、リゼ伯爵のもとで工房への受け入れを担当しているという方だった。挨拶を終えると、革の袋から紙を二枚出した。
伯爵の印がある案内と、建物を上から見た図だった。
「こちらが仕事場です。織機はこちら側に。染め場は、水場に近いほうへ分けてあります」
指が中庭を横切り、その裏に描かれた家へ移った。
「今、こちらが空いています。ご家族でお住まいいただけます」
ミーナさんの手が、膝の上で揃った。
担当の方は、案内の紙をその隣へ並べた。働き始めの賃金と、その支給期間。住居にかかる費用も、別の欄に書いてあった。
「差し引いたあと、お手元に残る額はこちらです。材料は工房で用意します。まず、実際の仕事場を見ていただけます」
エーリクさんが紙を引き寄せると、担当の方は彼へ顔を向けた。
「お手の具合も、伺ってよろしいですか」
「今は、織れます。こちらの方に診てもらって」
私は、机に置かれた彼の手を見てから答えた。
「拝見したときは、布を張る手に震えがございました。ご依頼で呪いを解き、糸が消えたのを確かめています。そのあと、布を織り上げるところも見せていただきました」
担当の方はうなずき、エーリクさんへ、見学の折には仕事のお話もできれば、と伝えた。
エーリクさんがうなずくのを待って、見取図を三人のほうへ向け直した。
◇
「この家の屋根は、どなたが直すんでしょう」
ミーナさんが尋ねた。担当の方は、家の隅へ指を戻した。
「屋根や外壁は、こちらで手配します。普段は工房の管理人に知らせてください」
「雨漏りのときも、まずその方へ」
「はい。見学のときに、ご紹介します。仕事場のほうも、気になるところがあれば」
ミーナさんは、今度は紙の上へ手を出した。
「染め場の水は、どちらへ流れますか。ここを通ると、干す場所の足もとが濡れませんか」
「溝は、この外側です。ただ、作業中にどのくらい濡れるかまでは、私には。染めを担当する者に、聞けるようにしておきます」
「水を使っているところを、見せていただけたら」
担当の方は、手元の控えに書き留めた。ミーナさんは図を少し回し、染め場から干し場までの間を、爪の先でたどった。
隣で、ハンナさんが椅子を寄せた。
「ここは、何をするところですか」
「図案を広げたり、仕上がりを確かめたりする台です」
「図案を、教えてくださる人もいますか」
語尾が小さくなった。ハンナさんは母親を見たが、ミーナさんは紙を娘のほうへ向けた。
「いますよ。模様を考える仕事をしている織り手です。お会いになりたいですか」
「はい。それと、仕上げまで、一人で任せてもらえるようになるには」
「最初は、仕上げの担当と一緒に確かめてもらいます。どこから覚えていただくかは、今できることを見せていただいてからですね」
ハンナさんはうなずき、台の描かれたところへ指を置いた。
エーリクさんは席を離れ、織機の横に立っていた。布切れで枠を拭き、同じ角へもう一度手を戻した。
担当の方が控えを書き終えたとき、彼が口を開いた。
「こいつを、持っていけるのか」
布切れを持つ手が、横木の上にあった。
「お使いの織機ですね。大きさと、運ぶときに分けられるところを教えていただけますか。向こうの戸口と床も確かめてから、お返事したいと思います」
エーリクさんは、横木の端を拭いた。
「外せるのは、ここと下だ。だが、組み直すときには俺も見る」
「そのように伺っておきます」
担当の方が椅子から立つと、エーリクさんは織機の脇を空けた。
◇
織機の幅を書き終えるまで、ミーナさんは賃金の欄を読んでいた。
私は、図に描かれた染め場を見た。原毛が入って、ここで糸になり、布になって出ていく。今この家に来なくなったものが、向こうには揃っている。
担当の方が机へ戻ったところで、尋ねた。
「この家で織り続ける場合にも、原毛をお願いできますか」
ミーナさんの指が止まった。
担当の方は案内を開き直し、工房と住居の上にある一行を示した。
「こちらは、領内へ移って働く方をお迎えするための費用です。材料も、その工房で織る分として用意します。同じ予算から、この村へお渡しすることはできません」
指は、ほかの条件を説明していたときと同じ速さで、行の下をたどった。
「伯爵は、ご領地で織る人と技術を増やしたいとお考えです。今、そこで働いている方々にも、そのための工房だとお伝えしています」
「そうですか」
私は、紙へ伸ばしかけた手を引いた。
仕事場の枠から、その奥に描かれた家へ目を移した。三人とも、そこへ移るとはまだ言っていなかった。
ミーナさんは案内を図の隣へ戻し、家の窓を指した。
「ここは、開く窓でしょうか」
「はい。中庭に面しています」
「部屋に糸を置くなら、風が通ると助かります。窓の高さも、見ておきたいです」
担当の方はうなずき、見学のときには家の中も見られると答えた。
「お返事の期限は、一か月先です。日付をここに書いてあります。見学の日は、ご相談して決めましょう」
ミーナさんが紙の下を見た。ハンナさんも、横からのぞいた。
「今日、何か書くものは」
「今日はございません。この二枚は置いていきます。皆様で、お確かめください」
担当の方は控えだけを袋に戻した。案内の余白には、見学を申し込む宛先も書いてあった。
◇
見送って戸を閉めると、部屋の中に、紙を重ねる音がした。
エーリクさんが案内の折り目をなぞっていた。上へ重ねた見取図も、同じところで折ろうとする。
「見学の紙は、置いておいて」
ハンナさんが手を伸ばした。
父親の手が止まる。娘さんは図の端を押さえたまま、続けた。
「私は、行ってみたい」
ミーナさんが椅子へ戻り、畳みかけられた案内を開いた。
「私も見たいよ。水を使うところと、家の中を」
エーリクさんは妻を見た。それから、娘さんの指へ目を移した。ハンナさんが押さえているのは、先ほど図案の話を聞いた台のそばだった。
「この家を残したいのは、俺だけなのか」
ハンナさんの唇が動き、止まった。父親の顔を見たまま、紙の上で指を曲げる。けれど、手は離さなかった。
私も口を開きかけた。
ミーナさんの顔を見た。案内を押さえたまま、夫を見ていた。私は椅子の背から手を下ろし、紙へ目を戻した。
「今日、移るかどうかを決めなくてもよいと、おっしゃっていましたね」
ミーナさんが、うなずいた。
エーリクさんは立ったまま、机を見ていた。折りかけの見取図が少し持ち上がり、ハンナさんが手のひらで押さえ直した。
窓の明かりが、その指と、紙に描かれた仕事場に当たっていた。
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