第44話 戸口の荷車
朝、工房へ伺うと、戸口までの床が空けてあった。
昨日は織機の横にあった籠も、今は壁際に寄せられている。エーリクさんは畳んだ布を運び、積み重ねた端を揃えた。
「上の二つから渡してくれ。下は、少し重い」
「分かった」
ハンナさんが埃よけを掛ける。短いほうの端を引くと反対側が出てしまい、ミーナさんが別の布を持ってきた。
私はマリエラさんと、戸の脇へ寄った。ここなら、運ぶ人の邪魔にならない。
エーリクさんは右手を腰で拭き、戸口を見た。外から、車輪の音が近づいていた。
「来たな」
戸を大きく開けると、朝の光が布の上まで入った。
荷車は、隣の工房の前で止まった。御者が下り、戸口から出された荷を受け取る。エーリクさんは埃よけを外し、上の一枚を持ち上げた。
隣の荷が積まれ、紐を掛ける音がした。御者が座へ戻る。
「おい。こっちも揃っている」
動き出した車輪へ、エーリクさんが声を掛けた。
御者は手綱を引いたが、下りてはこなかった。
「今日の荷には、入っていないよ」
「昨日、使いの者に見せた。今朝だと話したはずだ」
「こっちに来ているのは、隣の分だけだ」
御者は膝の札を確かめ、裏も見た。それから上着へ手を入れる。
「そうだ。これを渡すようにと」
差し出された紙を受け取るために、エーリクさんは布をミーナさんへ渡した。
隣家の人が戸口に立っていた。こちらを見て、何か言いかけたように口を開いたが、中から呼ばれると戻っていった。
荷車がまた動き出す。今度は、エーリクさんも呼び止めなかった。
ミーナさんの腕から、布の端が垂れていた。昨日、光へ透かして確かめたところが、床についている。
ハンナさんが手を添え、持ち上げた。
◇
紙は、机の真ん中に置かれた。
今回の買い付けを取りやめること。次に渡すはずだった原毛も、用意しないこと。短い知らせの下に、ゲルトさんの名があった。
エーリクさんは同じところを指で押さえていた。
「布も見ていないのに」
ハンナさんが、戸口の荷を見た。
「昨日は、端だって見なかった。まだ一枚も」
ミーナさんは引き出しから二枚の紙を出した。折り目を開き、日付の順に並べる。
「前に渡した分は、どうなるんだろう」
布の数と、受け取った人の印があった。ミーナさんの指が、一枚ずつ端を押さえる。
「こちらは、もうお納めになった分ですか」
「はい。受け取ったという書き付けだけで、お代はまだなんです。今日の分と一緒に、聞こうと思っていました」
昨日の夕食で、油を買うと言っていた。針も必要だった。
ミーナさんは紙を揃えたが、引き出しには戻さなかった。
「ほかへ持っていったら」
ハンナさんが言うと、エーリクさんは窓の外を見た。
「持っていった先で、すぐ買ってもらえるものでもない」
「でも、このまま置いていたら」
「分かっている」
ハンナさんの手が、布の上で止まった。
エーリクさんは机から右手を引き、指を開いた。震えてはいなかった。手のひらを返してから、私を見る。
「来てくださらなければ……」
その先を、言わなかった。
ハンナさんが顔を上げた。父親を見て、私へ目を移す。口を開きかけた娘さんの前で、エーリクさんはまた紙へ顔を向けた。
昨日、同じ手で水の器を持っていた。水面が揺れないのを見て、もう一口飲んだ。そのことを口にしかけたが、声にはならなかった。
ここにある布は、まだ売れていない。
「今、いちばんお困りなのは」
「今日は、帰ってください」
返事を待つ声ではなかった。
私は机の脇から離れた。マリエラさんも、手に持っていた帽子を私へ渡してくれる。
「必要でしたら、ユッタさんのお宅におります」
エーリクさんはうなずかなかった。
ミーナさんが戸を押さえてくれた。私はその横を通り、外へ出た。荷車の通った跡が、工房の前をまっすぐ続いていた。
◇
夕食の椀は、両手に収まる大きさだった。
持ち上げたまま、しばらく置くところを探した。目の前は空いている。そこへ戻すと、匙が縁に当たった。
「少し温めましょうか」
ユッタさんが、私の椀を見ていた。
「まだ、いただいている途中で」
「ええ。残った分を、少し温めるだけですから」
椀を渡し、両手を膝へ戻した。私は指を重ね、ほどいた。
マリエラさんはパンを一切れ、私の皿へ置いた。端の硬いところだった。自分の分も取り、煮込みにつけている。
ユッタさんは何も尋ねず、鍋をかき混ぜた。下からすくい上げる手つきを見て、上だけ混ぜたというマリエラさんの話を思い出す。笑おうとしたが、口もとがうまく動かなかった。
「熱いから、椀は置いたままでどうぞ」
戻ってきた煮込みから、湯気が上がった。
エーリクさんは、娘さんへ杼を渡していた。引きすぎないように止めた指も、布の幅を確かめた目も、覚えている。
あの手は戻った。今日、紙を押さえていたときにも、震えてはいなかった。
それを思うと少し息ができたが、食べる前に、また戸口の布が浮かんだ。
「お母さん。明日、あの籠を干してもいい?」
「裏に置いてあるほう?」
「うん。持ち手も、巻き直したいんです」
「紐が残っていたね。朝、出しておくよ」
マリエラさんはうなずき、パンの柔らかくなったところを食べた。
私は匙を取った。煮えた野菜が一つ載る。口へ運ぶと、思っていたより熱くて、ゆっくり噛んだ。
飲み込んでから、戸を叩く音がした。
◇
王都からの便だろうか。それとも、診てほしい人が来たのだろうか。
椅子を引く前に袖口を直し、戸へ向かった。
外にいたのは、ミーナさんだった。胸の前に、小さな包みを持っている。
「お食事中でしたか」
「大丈夫です。どうぞ」
「ここで、少しだけ」
私は戸を開けたまま、脇へ寄った。マリエラさんが灯りを持ってきて、足もとの低い台へ置いてくれる。
ミーナさんは包みの角を押さえた。昼間と同じ前掛けに、青い糸がついていた。
「治していただいて嬉しかったのは、本当です」
私は、包みから顔を上げた。
「あの人、娘に手を見せていたでしょう。こうすると揃うんだって。ハンナができたときも、同じところを何度も見て」
ミーナさんの親指が、布の折り目をなぞった。
「私も、嬉しかったんです。昨日は」
お気になさらないでください、と言いかけた。
けれど、朝の机はまだ覚えていた。口にすると、ミーナさんが話してくれたことまで、早くしまってしまいそうだった。
「私も、嬉しかったです」
それだけ答えると、ミーナさんは小さくうなずいた。
包みの紐がほどかれる。中に入っていたのは青い布と、白に近い色の細い見本だった。
「ご注文の分です。合わせてからと、お話ししていましたから」
差し出され、私は両手を出した。青の上に淡い筋が重なると、灯りの下でも端がよく見えた。
「こちらは、もう少し細くもできます。明るいところで、ご覧になってください」
「はい」
「受けたお仕事まで、私たちのほうから、勝手に終わりにはしたくなくて」
布の端を持ち直した。宿の机に敷いたら、帳面の横に、この筋が見えるだろうか。私は青い布を支え、細い見本を少し横へずらしてみた。
ミーナさんは空いた包み布を畳んだ。
「明日、話を聞いていただけますか」
「はい。何時ごろがよろしいでしょう」
「夕方、仕事を片づけてからでも」
「では、そのころに。こちらでお待ちしております」
ミーナさんは一度、家の中へ頭を下げて帰っていった。
私は見本を重ねた。明日の夕方まで、折り目をつけずに置いておこうと思った。
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