第43話 織り上がった端
ハンナさんが広げた布は、途中から幅が狭くなっていた。
エーリクさんは娘さんの指をよけ、曲がった筋を内側へ折った。隠れたところを、ミーナさんがもう一度開く。
「こちらも、見ていただいたら」
棚から出した二枚目には、小さなくぼみがあった。三枚目は、端が波のように寄っている。
「最初にお見せした分は、何度もほどいて揃えたんです。昨日は、あれだけで」
「余計なことまで、いい」
ミーナさんは口を閉じたが、布はしまわなかった。
私は窓際の椅子を借りた。エーリクさんが向かいへ座り、右手を差し出す。厚くなった指先に、細い糸くずがついていた。
「痛むところは、ございますか」
「痛くはない。ただ、ここで引いてしまう。少しずつな。気づくと、幅が違う」
指を曲げ、糸をつまむ形にする。その指先が、揺れた。
ハンナさんが父親の後ろへ回ると、エーリクさんは手を膝へ下ろした。
「お前は、向こうを片づけておけ」
「片づけたよ。昨日の続き、私もやってみたけど、揃わなかった」
「引きすぎるからだ」
「うん。でも、緩めたら、端だけ余った」
エーリクさんは布へ目を戻した。娘さんの指したところを、左手でなぞる。
「打ち込む前に、見ないといかん」
声が、先ほどより低くなった。ハンナさんはうなずいて、その手もとを見ていた。
「お手が戻ったら、最初に何をなさいますか」
私が尋ねると、エーリクさんは右手を机へ置いた。
「これの端を、見せてやりたい。口で言っても、うまく伝わらんのでね」
私は袖口を少し上げてもらった。手首の近くに、糸が絡んでいる。細い輪が重なり、指が震えるたびに締まっていた。
◇
外側の輪をよけると、奥の結び目が見えた。
誰が、何を願って結んだものか。端の返し方と、締めた跡をたどる。名も、手に起きていることも、読み取れた。
私は顔を上げ、声を落とした。
「送り主が分かりました。お二人にも、お話ししてよろしいですか」
エーリクさんは妻を見た。ミーナさんが娘さんの隣へ立つ。
「ここで、聞かせてください」
「ゲルト、という方です。『布を張る手が震えろ』と、結ばれています」
エーリクさんの唇が閉じた。ミーナさんは机へ置いていた手を引き、前掛けの縫い目を押さえた。
「うちの布を買う人だ」
しばらくしてから、エーリクさんが言った。
「別の買い手の話をしたことがある。それからだな、手がおかしくなったのは」
マリエラさんが水を運び、手の届くところへ置いてくれた。エーリクさんは取らず、私の指を見ていた。
「解けますか」
「はい。解けば、この糸は消えます。結び目を残して、送り主へ返すこともできますが」
「解いてください。明日までに、仕上げたい布がある」
「かしこまりました」
机へ腕を置き直してもらい、手首を支えた。マリエラさんが横へ寄る。
「こちらの下に、端がございます」
私が少し輪を開くと、彼女は顔を近づけてうなずいた。
下の輪を押さえ、折り込まれた端を戻す。一つ抜くたびに、次の結び目が緩んだ。エーリクさんの手が動きかけたので、もう少しだけ、と声を掛ける。
最後の曲がりを伸ばすと、糸が消えた。
私は袖口を戻し、手を離した。エーリクさんは五本の指を開いてから、一本ずつ曲げた。小指まで曲げ終わっても、すぐには立たなかった。
「水を、いただいても」
「どうぞ」
マリエラさんが答えた。エーリクさんは右手で器を持ち上げ、半分ほど飲んだ。残りの水面を見て、もう一口飲む。
ミーナさんが、そこで初めて息をついた。
◇
織機へ戻ると、エーリクさんは、まず短く織ってみると言った。
足を踏み替え、杼を持つ。糸の間へ通す前に、自分の指を見た。ハンナさんも、その手を見ていた。
杼が向こうへ抜ける。張った糸の間に、横糸が一本渡った。
エーリクさんは端を指で整え、筬を手前へ寄せた。乾いた音がした。足を替え、今度は反対から通す。先ほどと同じ幅のまま、布が少しずつ伸びた。
ハンナさんの肩が上がっていた。父親が振り返ると、長く息を吐く。
「見ていたか」
「見てた」
「では、やってみろ」
場所を譲られたハンナさんが、杼を受け取った。エーリクさんは背後に立ち、娘さんの手が端へ届くところで止める。
「そこから引かない。通した糸を、少し斜めに残しておけ」
「これくらい?」
「もう少し。打ち込むと、その分も入る」
ハンナさんが直し、筬を寄せた。二人で布の両端を見る。父親がうなずくと、娘さんは次の糸を通した。
私はマリエラさんと並んで、織機の横から見ていた。手を止めずに続けられるようになると、音の間隔が揃ってくる。
「ここ、さっきより狭い?」
「同じだ。続けていい」
ハンナさんは唇を結び、もう一度足を踏み替えた。
試しに織った分を確かめると、エーリクさんは昼前まで仕事を続けた。仕上がった布をミーナさんが窓へ広げる。光へ透かし、指で筋を追って、裏へ返した。
「これなら、出せる」
エーリクさんの肩が下がった。織機の横へ置いてあった失敗布を取り、今日の端と並べる。
「ここを覚えておけよ」
「分かった。こっちは、取っておいていい?」
ハンナさんが失敗したほうを指すと、父親は少し迷ってから渡した。
私は棚にあった青い布を、もう一度見せてもらった。暗いところでは灰色に見えたが、窓へ近づけると、糸の青がよく分かる。
「この色で、小さいものを一枚、お願いできますか」
「包み布ですか」
「机へ敷きたいんです。宿の部屋に、帳面を置いている机がございますので」
ミーナさんが幅を尋ねた。私は両手を広げ、マリエラさんに少し狭く直された。
「端まで敷くと、引き出しに挟みます」
「では、このくらいで」
教わった値段を帳面へ控え、端には細い筋を入れてもらうことにした。青一色より、そのほうが好きだった。
「見本を合わせてから、織りますね」
ミーナさんは私の注文を書き留め、明日出す分の布を数え始めた。
◇
ユッタさんの包み布を届けてから、夕方、もう一度工房へ伺った。
食事をしていってほしいと誘われたのだ。昼間の机には皿が並び、布は棚へ移されていた。
エーリクさんがパンを切ると、ミーナさんは薄いほうを自分の皿へ取った。
「明日の分が出たら、油も買わないと。底に、少ししかないよ」
「針も。細いほうが曲がってる」
ハンナさんが言うと、父親は、分かった、とパンを渡した。
明日はどの布から始めるか。残った糸で足りるか。ハンナさんは食べながら尋ね、エーリクさんは皿の脇に指で線を引いて答えた。ミーナさんに、そこへ汁を置くよ、と言われるまで続いていた。
私の布の筋は、白に近い色に決まった。マリエラさんが、帳面をどけたくなりますね、と言う。敷くために頼んだのに、それでは困る。
食後、戸口に男の人が来た。
「明日の分を見に」
「ああ。揃っている」
ゲルトさんのところの使いだと、ミーナさんが小声で教えてくれた。エーリクさんは棚から布を下ろし、両手で広げた。
「端も見てくれ。今日は、きれいに入った」
男の人は布へ手を伸ばしたが、触れる前に止めた。その目が、布をつかむ右手へ移る。
「手は、もういいのか」
「ああ。ほら、このとおりだ」
エーリクさんは指を曲げてみせ、また布を持った。男の人の手には小さな札があったが、何も書かず、上着へ戻してしまった。
「明朝、いつもの荷車で頼むよ」
「戻って、聞いておく」
戸が閉まってから、ミーナさんが机の空いたところを見た。
「今日は、札を置いていかなかったね」
「荷車と一緒に持ってくるんだろう」
エーリクさんは布を畳み、娘さんへ渡した。ハンナさんが明日の荷へ重ねる。
私は戸口を振り返った。きれいに揃った端を、あの人は一度も確かめなかった。
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