第42話 母の椀
第2部開始します!
着替えを鞄へ入れると、引き出しの底の布が見えた。
私はいちばん上の一着を戻した。帰ってから着る服まで、連れていくことはない。鏡の横の櫛を取り、代わりに、母へ書きかけた手紙を机の上へ置く。
マリエラさんは、包みの紐を結び直していた。中には、母へ贈る布が入っている。昨日の市で、何度も手を通して選んだものだ。
「お代は、足りましたか」
「はい。自分でいただいた分で、買えました」
膝へ載せた包みを、両手で押さえる。
帰省の日は、お母さんからの返事を待って決めた。王宮へ伺う日とも重ならない。私も一緒に、と誘われたときには、村で診てほしい人がいるのかと尋ねてしまった。
「母に、先生に会ってほしいんです」
そう言われてから、鞄を出した。
部屋の鍵を持って下りると、ヒルデさんが看板を帳場の奥へ寄せてくれた。王都から便が来たら、預かっておいてくださるという。
「行っておいで。あちらのお母さんにも、よろしくね」
「はい。帰りましたら、また煮込みをお願いします」
「帰るまで同じ鍋を置いとくわけじゃないよ」
それは困るので、新しいものをお願いした。
マリエラさんが笑い、包みを抱え直す。私は鍵を腰の袋へ入れ、隣へ並んだ。
◇
街道を離れ、畑のあいだを抜けると、家が見えてきた。
マリエラさんは途中から道を教えなくなった。角を曲がるたびに私を振り返り、ついてきているのを見ると、また先へ進む。低い柵の前で止まったときには、鞄の肩紐がずり落ちていた。
「ここです」
戸を叩く前に、髪を耳へ掛け直した。包みを私へ渡しかけ、自分で持ち直す。そのあいだに、中から戸が開いた。
「マリエラ」
「ただいま」
用意していたらしい言葉は、それだけになった。
お母さんは娘の顔を見て、頬へ手を当てた。次に肩の埃を払う。マリエラさんは動かずにいたが、片方の手だけを上げ、お母さんの袖をつかんだ。
「お手紙に書いた、先生です。ノエラ先生」
「初めまして。ノエラ・カーヴェルと申します」
「ユッタです。遠いところを、よく来てくださいました。さあ、中へ」
ユッタさんは台所の椅子を一つ引いた。私が鞄を下ろす横で、マリエラさんはようやく包みを差し出す。
「これ、お母さんに。肩に掛けるのに、いいと思って」
紐をほどく手を、マリエラさんが見守っていた。布が広がると、ユッタさんは窓へ向け、それから肩へ掛けた。
「軽いね。こんなに暖かいのに」
「重いのと、迷ったんです。でも、家の中でも使えるから」
「うん。これなら、針仕事もできる」
マリエラさんが布の端をそろえた。もう片方は、ユッタさんが自分で直す。二人の指が同じところでぶつかった。
窓の下の机には、小さな椀が出ていた。マリエラさんが手に取り、縁を指でなぞる。
「まだ、これなんですね」
「割れてないもの」
「ここは、欠けています」
「そこは、前からでしょう」
マリエラさんは笑い、欠けたところを向こう側にして置いた。ユッタさんが鍋の蓋を開けると、豆と肉の匂いがした。
「これで足りる? 大きい椀もあるよ」
「おかわりをします。今は、前より食べますから」
ユッタさんはお玉を止めて、娘を見た。それから小さな椀へよそい、私の前にも一杯置いてくれた。
◇
窓が赤くなるころには、鍋の中身が半分ほど減っていた。
マリエラさんは向かいのお宅のことを聞き、ユッタさんは、あの裏の柵も直した、と答える。どちらの家か、私には分からなかった。二人は柵を倒した犬の話をして、同じところで笑った。
私も口もとを緩めたが、続きは聞けなかった。椀の豆を寄せ、匙をいったん置く。あとで部屋をお借りしたら、荷物を片づけようと思った。
「先生。その豆、お嫌いですか」
マリエラさんが、私の椀を見ていた。
「いいえ。よく煮えていて、おいしいです」
「よかった。母は、私が帰ると聞いて、昨日から水につけておいたんですって」
ユッタさんが、まだ鍋にあるからと言ってくれた。私は匙を取り、豆を一つ押した。力を入れなくても、真ん中から割れる。
「皮まで柔らかくするには、長く煮るのですか」
「火を強くしすぎないほうがいいんです。底だけ焦げますからね」
「私は一度、上だけかき混ぜました」
マリエラさんが言った。
「下が全部、鍋に残りました」
「それでも、食べられるところを探していたんだよ、この子は」
「上は、おいしかったので」
今度は、私も一緒に笑えた。
ユッタさんはパンの籠を寄せ、柔らかいところと端の硬いところ、どちらが好きかと聞く。両方食べてみたいと答えると、端も切り分けてくれた。
煮込みにつけるなら、硬いほうがよかった。そう伝えると、明日の朝も残しておきましょう、と籠の一切れをよけてくれる。
母への手紙に、これも書こうと思った。豆を焦がさず煮る方法を教わったこと。マリエラさんのお母さんが、贈った布を食事のあいだも肩へ掛けていたこと。書きかけの続きに、今日のことを足せる。
「何か、お手伝いすることはございますか」
食べ終わり、立ちかけると、ユッタさんが私の椀を受け取った。
「今日は座っていてください。歩いてきたでしょう」
マリエラさんも私へ座るように言ったのに、自分は皿を運び始めた。ユッタさんに呼ばれ、二枚だけ持って戻ってくる。
「私も、今日は座るそうです」
隣の椅子へ腰を下ろしたので、私は少し横へ寄った。彼女が足を伸ばす。私も靴の中で、丸めていた指を伸ばした。
◇
翌朝、包み布を受け取りに行くことになった。
ユッタさんが近所の織工へ頼んでいたものだ。場所を聞くまでもなく、マリエラさんは家の裏の道へ出た。私は空の籠を持ち、ついていく。
工房の戸は開いていた。中で若い娘さんが、長い布の端を二つ折りにしている。向かいの女性が、光にかざして端をずらした。
「こちらが表。色の濃いほうを見て」
「あ、反対だった」
マリエラさんが声を掛けると、二人とも手を止めた。
女性はミーナさん、娘さんはハンナさんという。奥の織機から立ったのが、織工のエーリクさんだった。ユッタさんの布ならできている、と棚を指す。
「マリエラか。よく帰ってきたな」
「はい。こちらは、私の先生です」
私も名乗った。呪いを解く仕事だと聞くと、エーリクさんの目が娘さんへ動く。ハンナさんは布を畳み直していた。
「うちは、見てのとおりの仕事だ。これは、昨日仕上げた分でね」
机の上にあった布を広げてくれた。端に細い筋が通っている。指で触れてよいか尋ねると、裏側も見せてくれた。どちらから見ても、端がまっすぐだった。
顔を上げたとき、棚の隅に、丸めた布が見えた。そこだけ太い紐が出ている。飾りかと思ったが、端は布へ縫い留めてあった。その横には、結び方を描いたらしい線が見える。
「あちらも、お仕事にお使いになるのですか」
「いや、古いものだよ。うちにずっとあってね」
外へ出た輪の形に、見覚えがあった。母に習った結び方と似ている。もう少し近くで見たかった。
エーリクさんが棚へ手を伸ばす。布を押さえた指が震えた。下に重ねてあった品が崩れ、床へ落ちる。
ハンナさんはすぐに膝をついた。父親の手を見ず、一枚ずつ拾い上げる。
「少し、滑った」
エーリクさんは手を下ろした。ミーナさんが棚の見本を取り、机の端へ置く。私はそれより先に、エーリクさんの指を見た。何も持っていないのに、まだ震えていた。
「お仕事の邪魔にならないところで、お手の具合を伺ってもよろしいですか」
エーリクさんは右手を左手で包みかけた。
ハンナさんが、拾った布を机へ広げる。さっき見せてもらったものとは違い、端の筋が途中から曲がっていた。
「昨日も、ここで止まってしまって」
娘さんの指が、織りかけの端を押さえた。
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