第41話 ただいま
蹄鉄亭の前には、荷馬車が一台止まっていた。
御者が荷の紐を外すのを待ち、私たちは横を通った。街道で一泊してきたので、まだ夕食には少し早い。戸口の脇に、看板一枚分の場所が空いていた。
ヒルデさんは、帳場で鍵を渡していた。最後の客を階段へ送り、私たちを見る。
「おかえり。二人とも」
「ただいま、戻りました」
マリエラさんも、ただいま、と続けた。鞄を下ろすと、看板の角が床へ当たる。ヒルデさんが手を出し、倒れる前に支えてくれた。
「置いときな。今度は、何泊だい」
私は鞄の取っ手から、手を離した。
「長く、お借りしたいです。こちらを住むところにしても、よろしいでしょうか」
ヒルデさんは、手にしていた鍵を帳場へ置いた。
「部屋は、前のところが空いてるよ」
「看板も、いつもの場所へ。お仕事には、食堂の端の机をお借りしたいです。お食事の邪魔にならない時間に」
「そこは、また一緒に決めよう。あんたが一日中座ってたら、給仕が通れないからね」
ヒルデさんはマリエラさんを見た。
「あんたも、同じ部屋でいいかい」
「はい。下の引き出しを、もう先生からいただきました」
「箪笥は、うちのだよ」
私は、早まりました、と頭を下げた。ヒルデさんは笑って、前と同じ鍵を出した。
ひと月ごとの部屋代と、二人が留守にする日の扱いを聞いた。マリエラさんが横で数えている。今度は財布を止められずに、必要な分だけを出せた。
「では、お世話になります」
「うん。夕飯までに、荷物を上げといで」
ヒルデさんは鍵を私の手へ置いた。受け取って、今夜の煮込みを二人分頼んだ。
◇
翌日の午後、伯父の家へ図を返しに行った。
水車の音が、塀の向こうから聞こえる。伯父は戸口で待っていた。私の肩を見て、そこから半歩よけた。
「手紙は、昨日届いた」
「遅くなりました。二枚とも、お返しいたします」
机へ板を置き、紐を外した。伯父は角の折れていないことを確かめてから、図より先に私を見た。
「自分で、解いたんだな」
「はい。母にも見てもらいました」
鳥の形になった糸を、端までほどいたことを話した。母へ返してはいない。伯父は聞き終わると、紙を元の木箱へ収めた。
「借りているあいだに、必要なところは写しました。教えるときにも、使わせていただきます」
「ああ。使ってくれ」
マリエラさんが自分の帳面を出し、写した図を見せた。下の輪まで入るよう、一頁を広く使ってある。伯父は目を近づけ、まだここは自分にはできないと言った。
「この図で、家の外の方にも教えていたのでしょうか」
伯父は、木箱へ手を置いた。
「誰が習ったかまでは、これには書いていないな」
「ほかの家にも、同じものがあるかもしれませんね」
「あるかもしれん。だが、私は見ていない」
私はマリエラさんの写しを見た。今日ここにある一冊は、カーヴェルの家の者ではない人の帳面だった。
昔にも、こんなふうに机を並べた人がいたのかもしれない。図の形だけでは、その人がどこへ行ったかまでは分からなかった。
「ノエラ。宿にいるなら、ここの部屋も空いている」
「ありがとうございます。蹄鉄亭で暮らすことにしました」
伯父は、奥の部屋へ向けかけた手を下ろした。
「そうか」
「はい。ヒルデさんにも、お願いしてあります」
水車が回り、水を落とした。前にここへ来たときは、図の続きを探していて、ほかの物を見る余裕がなかった。窓ぎわに、外套を掛ける釘がある。伯父の外套が、そこに掛かっていた。
「茶を飲んでいくか」
「今日は、いただきます」
伯父が湯を取りに行くあいだに、私は鞄から木の櫛を出した。図を入れるところへ一緒に紛れていたのだ。小さな指袋も、その横へ出てきた。
乾いた革を、指の腹で一度伸ばす。今の親指は入らない。櫛と一緒に、私の鞄へ戻した。
伯父の湯呑みが、机に三つ並んだ。
◇
蹄鉄亭へ戻り、私は箪笥の上の引き出しを開けた。
底へ敷く布を、ヒルデさんが一枚くれた。端を折って収め、その上に着替えを置く。鞄へ戻しかけた二着目も、隣へ入れた。
マリエラさんは床へ座り、下の段を拭いていた。
「先生。上に、まだ入りますか」
「はい。全部入りました」
「では、その端に櫛を置くと、服を出すたびに落ちますよ」
櫛は鏡の横へ移した。指袋は小さな包みにして、引き出しの奥へ入れる。夜に使うものは、探さずに出せるところへ、とマリエラさんが教えてくれた。
古い帳面は机へ置いた。百九十七番の頁を確かめ、閉じる。王家の残りの糸を診るときにも使うので、鞄の底へしまいこむのはやめた。
新しいほうは、その隣へ。二十八番のあとに、まだ白い頁がある。
「私の帳面も、並べていいですか」
「もちろんです」
小さな一冊が増えた。机は、三冊並べても、まだ手を置くところがあった。
マリエラさんは荷をほどき終え、空になった鞄を持ち上げる。白い神官服も、下の引き出しへ移していた。
「王都へ行くときは、また詰めるんですね」
「はい。そのときに」
私は自分の鞄を寝台の下へ押した。取っ手がつかめるところで止める。どこへ出かけるにも、全部持って歩かなくてよくなった。
食堂から、匙を並べる音がした。
「先生は、ほかの町にも行きたいですか」
「はい。フルトの向こう岸にも、まだ渡っておりませんので」
「私も、行きたいです。でも、その前に一度、村の母に会いたいです」
「いつにしますか」
「お手紙を書いてから、決めます」
私はうなずいた。彼女が留守の夕食は、一人分を頼めばいい。帰ってくる日には、二人分に戻す。今度は、どの部屋で待てばよいか分かっている。
ヒルデさんに呼ばれ、マリエラさんが先に立った。私は引き出しを閉め、鍵を持って部屋を出た。
◇
何週間かたつと、食堂の端の机へ、私が座っていない日にも人が声を掛けるようになった。
ヒルデさんは、王都へ仕事に出た日は帰る日を伝え、休みの日には休みだと答えてくれた。私たちも、出る前に必ず話しておく。
王家の古い糸は、まだ残っている。先日の訪問でも、全部は解かなかった。決めた日の仕事を終えて帰ると、部屋の窓には、ミルデの通りの灯りが映っていた。
マリエラさんが王宮で描いた図を机へ出す。私が町で受けた仕事の記録も、隣へ並ぶ。分からないところを相談してから、どちらも閉じた。
「続きは、明日にしましょう」
私が言うと、マリエラさんは伸びをした。
その夕方、看板を中へ入れるのは私の番だった。板の下についた土を落とし、戸が当たらない場所へ立てる。薄くなったお代の文字は、昼のうちに書き直してあった。
ヒルデさんが、二人分の煮込みを運んでくる。私はいつもの椅子へ座った。
「パンは、もう一つ食べますか」
「半分なら」
マリエラさんが言ったので、私は一つ取って、真ん中で割った。多く割れたほうを渡そうとすると、彼女が小さいほうを取る。
「今日は、それで足ります」
「では、こちらは私が」
食べ終わった皿を重ね、部屋へ戻る。
箪笥から明日の服を出した。引き出しの奥には、指袋の包みがある。母から届いた手紙は、その隣へしまってあった。裁縫の続きと、近所まで買い物に出た話が、母の字で書かれていた。
私は机の前へ座り、返事の続きを書いた。蹄鉄亭の窓から見える通りのこと。弟子が、よく食べること。最後のところをマリエラさんに読まれ、先生もです、と言われたので、私も、と書き足した。
封をする前に、マリエラさんが自分の手紙を持ってきた。お母さんからの返事だった。
「帰る日を、決めてもいいですか」
「はい。次に王宮へ伺う日とは、別にできます」
机へ二人の予定を並べた。出る日と、戻るつもりの日を確かめてから、マリエラさんは手紙を畳んだ。
「先生も、一緒に来てくださいませんか」
「村に、診てほしい方がいらっしゃるのですか」
「母に、先生に会ってほしいんです」
私は、依頼を書き留めようとしていた筆を置いた。
「私に、ですか」
「はい。手紙には、何度も書きましたから。先生がどんな方か、母はもう知っているつもりなんです」
「それは、一度ご挨拶しなければなりませんね」
マリエラさんが笑った。
私は机の端を空け、二人の予定を重ねた。帰った日には、またここで帳面を開ける。
「ご一緒したいです」
そう答えてから、寝台の下の鞄を見た。まだ出さなくてよかった。持っていく服は、出発の前に選べばいい。
翌朝は、隣の寝台で布団が動く音で目が覚めた。
窓が明るい。階下からパンの匂いが上がってくる。私は顔を洗い、鏡の横から櫛を取った。
食堂へ下りると、二人の席へ皿が出ていた。看板は、まだ壁に立ててある。
「おはよう、ノエラ。先に食べるかい」
「はい。いただきます」
マリエラさんが、向かいへ座った。
パンにバターを塗り、お茶を飲む。最後の一口まで食べてから、私は看板を持った。戸口でマリエラさんが板の端を支える。二人で外へ出すと、朝の日が白木の面に当たった。
彼女が机を拭くあいだに、私は椅子を二つ並べた。
その帰省で、私は一人の織工の手を治すことになる。
震えなくなった手で、その人は娘に仕事を教えた。私も、一緒に喜んだ。
けれど翌日、同じ人から、帰ってくださいと言われた。
手は、治ったままだった。
荷車は、隣の家の布だけを積んでいった。
(第一部完)第二部につづきます
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