第40話 帰る日のこと
宿へ戻る前に、次の仕事の相談をした。
殿下の部屋へ行くと、椅子のそばに杖があった。殿下は先に座り、私たちにも席を勧める。マリエラさんは、自分の小さな帳面を机へ置いた。
「次も、三日ずつならお受けできます。日にちは、戻ってからお返事します」
「今度は、何本解ける」
「拝見するまで、決められません。前も、三日で解いたのは喉の一本でした」
殿下は自分の喉へ触れた。マリエラさんは、見えないところを空けて描いた図を開く。
「これも、まだございますか」
「ああ」
「先生に相談してきました。ただ、こちらで今の形を見てからにします。ほかの糸と重なっていたら、一人では触りません」
私は隣から図を見て、次に確かめるところへ印をつけた。
殿下は机の紙へ目を移す。祈りの時間と、手を休める時間が、別々に書かれていた。
「祈っているあいだは、新しいものは来ないのだな」
「そばで防げます。終えると、止めていたものが届くこともあります。祈りを終える前に、何が残っているか確かめます」
「終えずにいれば」
殿下はそこで言葉を切った。マリエラさんの手へ目をやる。
「……いや。夜は、休むのだったな」
「はい」
マリエラさんは紙を引き寄せ、最後の日の終わる時刻にも線を引いた。
「そのあとは、ミルデへ帰ります。町でも仕事をしますので」
殿下は杖を取り、膝の横へ立てた。転ばないように歩くのは、まだご自分で続けなければならない。
「分かった。次に来られる日を知らせてくれ。その日までに、どの症状で困っているか書いておく」
マリエラさんは、私を見ずにうなずいた。
クラウスさんが、陛下の分も紙へまとめると言った。次の診察で扱う範囲と、来られる日を、依頼状で相談する。残った糸を全部解くまで滞在する、という行はなかった。
私は連絡先へ、ミルデの蹄鉄亭と書いた。
「今度は、しばらくあちらで暮らしたいと思っています。ヒルデさんにも、帰ってからお願いします」
「では、まずはそちらへ」
クラウスさんは新しい紙を、私の書いた向きのまま畳んだ。
◇
母の家へは、夕方に寄った。
従姉妹の方が戸を開け、母に会えるか尋ねてくれた。ほどなく戻り、窓の部屋へ通される。あの机には、縫いかけの布が広がっていた。
母は針を針山へ戻した。向かいの椅子を空けようとして、私の顔を見る。
「座る時間は、ある?」
「少しだけ。明日の朝、王都を出ますので、そのお知らせに参りました」
母は布を畳んだ。マリエラさんの席も空けてから、自分で水を注ぐ。器の縁まで入れず、途中で止めた。
私は蹄鉄亭の名を書いた紙を渡した。
「ミルデで、呪い返しの仕事を続けます。お手紙は、こちらへお願いします」
「お兄様の家へは」
「図を返しに行きます。住むのは、宿にしようと思っています」
母は、紙の宛先を読んだ。自分の兄の名を書き足すことはしなかった。
「お部屋は、寒くない?」
「窓が閉まります。ヒルデさんに、お布団も出していただけます」
マリエラさんが、煮込みもおいしいです、と添えた。
母の口もとが動き、少し笑った。私は水を飲んでから、大広間で話してきたことを伝えた。母は両手を膝へ置いて聞いた。
「階段のことも、話したのね」
「はい」
母が、縫いかけの布を見た。その端は、まだそろっていない。
「私がしたことを、陛下にも」
「説明は、お渡ししてあります。今日、皆様の前でお名前を読み上げることはしませんでした」
母は顔を上げた。
「ただ、私が熱のある朝に歩いたことは、話しました」
「……ええ」
窓の外で、人の足音が近づいて、離れていった。母は私の肩を見ず、顔を見ていた。
私は空の器を置いた。
「お手紙は読みます。返事を書く日や、また伺う日は、こちらからお知らせします」
「分かったわ」
母はうなずいた。それから、畳んだ布へ手を置く。
「何を書けばいいか、少し考えていたの。あなたに聞きたいことが、たくさんあって」
「お母さまのことも、書いてください。今、何をしていらっしゃるか」
母は布を持ち上げた。食事のときに膝へ掛けるものを、従姉妹の方と縫っているのだという。
「端をそろえるところで、私だけ遅くなるの」
「ここは、二枚重なっていますね」
「そう。切りすぎないようにしていたら、かえって曲がってしまって」
母は机へ広げ、私も身を乗り出した。話が途切れたら帰ろうと思っていたが、どちらを表にするのかまでは聞いた。
立つとき、母は私の手首へ手を伸ばさなかった。畳んだ住所の紙を、自分の裁縫箱へしまう。
「気をつけてね、ノエラ」
「はい。お母さまも、お休みを取ってください」
戸口で頭を下げた。母は段の上から見送り、私は欠けた石をよけて下りる。通りへ出て振り返ると、母が片手を上げた。私も上げてから、マリエラさんと歩きだした。
◇
宿では、クラウスさんが待っていた。持ってきた袋は、机へ置くと底が広がった。
補償の金貨が五十枚。書面の額と、数えた枚数が合った。私は受領の紙へ署名し、同じ内容の控えを受け取る。
袋の口を閉めても、まだ手を載せていた。こんなに先の暮らしまで考えられるお金を、自分のために受け取るのは初めてだった。
「明日からのことで、ご不明なところは」
「ございません。何に使うかは、ゆっくり考えます」
クラウスさんはうなずき、控えを鞄へ入れた。
私も受け取った紙を畳んだ。糸の送り主は、帳面に控えてある。けれど、十年分のお返事がこの一枚になるまでには、私が話すだけでなく、話を聞いて、調べてくださる人が要った。
侯爵の兵が私たちを追わなくなったのも、奥歯の糸を返したからではなかった。
「この控えも、取っておきます」
「はい。お手元に」
黒い帳面と重ねず、補償の書面を別にしまった。
見送ったあと、伯父への手紙を書いた。母に会い、百九十七番を自分で解いた。明日、ミルデへ向かう。着いたら、借りた二枚の図を返しに伺いたい。
解いてから知らせるまで、日が空いたことも、一行書いた。話は会ってから、と添え、夜のうちに便を頼む店へ預けた。
戻ると、マリエラさんが窓を閉めていた。明日着る服が、二人の寝台へ一着ずつ置かれている。
「先生。この袋も、鞄の下へ入れますか」
金貨の袋だった。私は受け取り、持ち歩く仕事代とは分けて包む。看板を上へ結ぶと、前より重くなった。
「歩けますか」
「はい。途中で、休みます」
マリエラさんが荷物を持ち上げ、私の鞄と比べた。結び図の板を自分のほうへ移してくれる。それで、少し軽くなった。
◇
朝食のあとに宿を引き払い、王宮の門へ挨拶に寄った。
ボルツさんは、見回りから戻るところだった。看板を見て、私の顔へ目を上げる。
「今日は、発つんだな」
「はい。ミルデへ帰ります」
「帰るのか」
ボルツさんはそう繰り返し、詰所から小さな包みを持ってきた。
「昼の分だ。二人で食べてくれ」
「ありがとうございます」
マリエラさんが、自分の鞄へ包みを入れた。今度は私が看板を持つ。
門から離れると、北の塔の窓が見えた。窓の向こうに、誰がいるかを確かめる用はなかった。ボルツさんが手を振り、私たちは通りの東へ向いた。
王都の東門を出るころには、朝の日が道へ届いていた。マリエラさんの革靴が、石から土へ移る。私も、その隣へ足を下ろした。
「先生。蹄鉄亭で、ずっと同じお部屋にしますか」
「空いていたら、お願いしたいです」
「では、箪笥の下の段は、私にください」
「上の段では、いけませんか」
「先生のほうが、届きます」
私はマリエラさんの頭と、自分の肩を見比べた。
鞄の中で、木の櫛が帳面に当たった。しまう場所を、今のうちに考えておこうと思った。
マリエラさんが、図の板を移してくれた鞄を持ち直した。母から習わなかったところを、私はあの図で知った。帰ったら、伯父へ返せる。
あの図を使って、私の家の人たちは、誰に教えていたのだろう。
八つの私へ引き継がれたのは、塔の務めだった。その前に、何があったのかは、まだ知らなかった。
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