第39話 十年の返事
大広間の真ん中に、椅子が二つ置かれていた。
片方へマリエラさんが座る。私はもう片方の背に手をかけた。叙任式の日、膝を折ったあたりだった。今日は、座って話してほしいと言われている。
鞄を足もとへ置き、黒い帳面を膝に載せた。
陛下と殿下の前には、長い机がある。魔術師長とクラウスさんがその端に立ち、両側には宮廷の役人や貴族が並んでいた。あの日より少ないが、見覚えのある顔もある。
ザイデル侯爵は、窓の下にいた。左の頬を押さえる布は、持っていなかった。
「先に、ザイデルの件を」
陛下が言い、クラウスさんが紙を開いた。
二百六十一番。『熱を出して寝込め』。送り主はザイデル侯爵。陛下から侯爵へ返り、本人の依頼で解いたことまで読み上げられた。魔術師長が、自分もその場にいたと答える。
次に呼ばれたのは、街道で会った隊長さんだった。剣は帯びていない。私へ一礼してから、陛下へ向きなおる。
「紋を外し、商人の服で五人、東へ出ました。命じたのは侯爵閣下です」
「帳面は、どこへ届けるよう命じられた」
「まず閣下へ。殿下にお渡しする前に、閣下がご覧になると」
侯爵が、顔を上げた。
「王家の記録でございます。取り戻す許可は、殿下からいただいております」
殿下は、机の上の手を握った。今度は、私を見る。
「私が、好きにしろと言った」
広間の後ろで、服の擦れる音がした。
「帳面が誰のものかも確かめずに、許した。侯爵に任せればよいと思った。私の誤りだ」
「ですが、殿下のお許しに従った者を――」
「その許可で、お前の名を燃やすことまで正しくなるのか」
殿下の声は、最後まで同じ高さだった。
隊長さんが、侯爵の名を消してから渡すよう命じられたと続けた。クラウスさんの机には、すでに聞き取った証言が置かれている。侯爵はそちらを見たまま、口を閉じた。
フルトで帳面を求められたことも、記録から読まれた。湯呑みの話は省かれていた。
「ノエラ殿。街道でのことに、違いは」
「ございません。帳面をお断りしたあと、剣を抜かれ、手首をつかまれました」
私は左手を、帳面の上へ置いた。今は、誰の手も掛かっていない。
陛下が侯爵を見た。
「宮廷への出仕を禁ずる。街道へ出した私兵を含め、お前の私兵の指揮権は取り上げる。兵と武器は、すでにこちらの管理へ移した」
侯爵の後ろに立つ兵が、頭を下げた。侯爵家の紋ではなかった。
「国王への呪詛と、帳面を奪おうとした件で、確かめられた被害を賠償させる。ノエラとマリエラを、もうお前の兵で追わせることはできぬ」
侯爵が私を見た。私は膝の帳面を閉じた。
兵が窓の下から進み、侯爵を扉へ促す。侯爵の足が、兵の前で止まった。侯爵は一度陛下へ頭を下げ、広間を出ていった。
続いて、レムケ伯爵にも馬車の被害を償わせると伝えられた。昨日呼ばれた伯爵は、結び目の記録と納入商会の願い出を示され、送ったことを認めたという。橋の送り主も、こちらから出した記録をもとに責任を問われる。私が追いかけて、聞き出す仕事はなかった。
◇
殿下が、椅子から立った。
「ノエラ・カーヴェル。この広間で、お前の話を遮った。務めの中身を確かめず、人前で侮辱した。そのあとには、帳面を奪う許可まで出した」
私は、殿下の手を見ていた。あの日は、その手を振られて話を終えた。
「申し訳なかった」
殿下は頭を下げた。背後の貴族が、互いの顔を見かけてやめる。
私は返事を探した。すぐに差し出せる言葉がなく、帳面の表紙から手を離した。
「お話は、伺いました」
殿下は顔を上げ、続きを求めずに座った。
クラウスさんが、別の束を開く。母の署名のある説明は、綴じた中に収めたままだった。先日私が確かめた、休みと交替の調べが前へ出た。
魔術師長は、その紙を持たずに話した。
「君に務めを引き継がせる際、病気の日の対応を決めなかった。休みも、交替する者も。毎月の欠務なしという報告だけを受け取り、本人へ確かめに行かなかった」
「母のときには、寝室へ来る方がいました」
「君のところへも行くよう、手配できた。していなかった」
白い眉が下がった。
「君が言わなかったからで済ませてきた。申し訳なかった」
陛下はその言葉を聞いてから、私へ向きなおった。
「わしは、熱がある日も来ておると知っていた」
机の端で、書記のペンが止まった。
「勤めを欠かさぬ娘だと聞き、そのままでよいと思っていた。送りつけてくる者と向き合うより、お前一人に預けるほうが都合がよかった」
陛下の袖口に、黒い糸が一本見えた。
「お前に、王都へ戻れと命じた。王命なら、戻ってくるかもしれぬと思った。十年の責任は、わしにもある」
陛下が椅子から立つ。腰を伸ばすまで少し時間がかかったが、侍従を呼ばなかった。
「ノエラ。すまなかった」
頭が下がった。机の向こうへ、私にも分かるほど深く。
私は膝の紙を開いた。階段のことを一行だけ書いた紙だ。読もうとしたが、字を見る必要はなかった。
「熱のある朝、階段に座っていたことがございます」
声が、広間の奥まで届いた。話を止める手は上がらなかった。
「一段下りたら、次の段が遠くて。手すりを離すと立てなくなりそうで、握ったまま休みました。遅れたら、誓約を読めなくなると思っていました」
陛下は、立ったまま聞いている。
「その日も、礼拝堂へ行きました。ですから、欠務なしと書かれたことは、間違っておりません」
私は一度、息を継いだ。
「でも、あの朝は、誰かに来てほしかったです」
隣で、マリエラさんが動いた。手を伸ばしかけ、私の手が開いているのを見て、椅子の上へ戻した。
八つのときの床は冷たかった。ここで役目を言い渡され、塔へ行った。それから何年たっても、次の聖女が見つかる日を、私は知らなかった。
「これから同じ務めをなさる方に、いつ終わるか分からないまま、待たせないでください。休める日は、始める前に教えてください」
陛下がうなずいた。
「同じ任を、次の一人へは渡さぬ。期限と休み、交替を決めずに誓約を結ばせることを、今日から禁ずる。決められぬ間の呪いは、わしら自身で受ける」
私は、殿下も聞いていることを確かめた。
クラウスさんが一枚を私へ渡す。受け取るとき、紙の端が少し震えた。自分の指だった。
◇
補償は、十年間に受け取った手当とは別に、金貨五十枚と決まっていた。休みも交替もないまま続けさせた務めに対して、王家から支払う。今日の治療代を引くことも、これからの仕事を条件にすることもない。
「明日の出立までに、お渡しします」
クラウスさんが言った。書面の末尾には、陛下の署名があった。
私は、支払いを受けても王宮へ残る必要がないことを、自分の目で読んだ。マリエラさんも、横から同じ行を確かめる。
「受け取ります」
陛下へそう答え、紙を畳んだ。
八つの日の書面も、退任の書面も、鞄に入っている。今日の一枚をその隣へ収めた。帳面は、私が持って立った。
扉まで、マリエラさんが隣を歩く。足音が二つ続くあいだ、誰からも呼び止められなかった。
廊下へ出たところで、彼女が顔を寄せる。
「先生。お水を、持ってきましょうか」
「お願いします」
窓の下の長椅子へ腰を下ろした。口の中が乾いていた。持ってきてもらった杯を、両手で受け取る。
一口飲むと、マリエラさんが、私の隣へ座った。
「明日、帰れますね」
「はい」
私は残りを飲んだ。もう少しここで休んでから、宿へ帰ろう。マリエラさんも鞄を下ろしたので、窓の外を一緒に見た。
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