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聖女様がいらしたので、身代わりはもう不要だそうです。では、十年分の呪いをお返ししますね。  作者: 堀吉 蔵人
第1部

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第38話 橋の向こうへ

 

 陛下の左手は、右手より冷たかった。机の下で握っていらしたらしい。指を開いていただくと、手首の外側に、平たく潰れた結び目が見えた。

 帳面の図も、真ん中だけ横へ広がっている。上にある糸をよけ、折り重なった端を確かめた。


「二百九十七番。去年の夏の終わり、陛下宛。『渡ろうとする橋が崩れろ』」


 御者が、顔を上げた。


「そのとおりでございます。渡る前でした。先の馬が、まだ坂を下りているところで」


 私は指を止めず、裏に回った端まで読んだ。


「送り主は、オスカー・ハイネ様です」

「ハイネか。レムケの名ではないのだな」

「はい。こちらの一本は、別の方です」


 クラウスさんが名を書き留める。私は帳面に控えた日付を示した。二百八十四番とは、端の折り方も違っていた。

 御者は、川を見に行った兵から聞いたという話をした。橋の真ん中が落ち、向こう岸には荷車が二台、渡れずに残っていたらしい。


「陛下がお通りにならなければ、あの橋は落ちなかったのか」


 ロルフさんが言った。鉄を包んだ布を、両手で持っている。


「この一本は、陛下が渡ろうとなさる橋へ働きます。ただ、石の具合までは、私には分かりません」


 陛下は窓の外を見た。ここから、あの川は見えない。


「ハイネへ返せば」

「今度は、その方が渡ろうとする橋に起こります。先にお通りになる人も、下を舟で通る人も、おられるかもしれません」

「解けば、橋は」

「崩れたままです。これから崩す糸を、ここで消します」


 陛下の指が、布の上で伸びた。


「解いてくれ。あの川の橋は、工事の進み具合を確かめさせる」


 私はうなずいた。クラウスさんが依頼の紙へ解呪と書き、陛下の前へ戻す。署名をいただいてから、左手を持ちなおした。


 ◇


 結び目は、外から押し潰してあった。重なった糸を持ち上げると、いちばん下の端だけが残る。そこを引かず、畳まれた順に広げた。

 マリエラさんは、私の向かいから下の輪を見ていた。図を描く手が止まり、机の上で自分の指を曲げる。


「そちらの端が、最後ですか」

「はい。今抜くと、こちらが締まります」


 爪の背を差し入れ、先に上を戻した。薄い輪が一つ浮く。御者が身を乗り出したので、ロルフさんがその袖を引いた。二人とも、そのあとは椅子の背から離れなかった。

 最後の端は、指の腹で押すと動いた。輪から抜け、陛下の手首に巻いていた一本が細くなる。私は手の下まで見て、消えたことを確かめた。


「橋の糸も、済みました」


 陛下は左手を返した。手の甲を見てから、袖を下ろす。

 御者は帽子をかぶりかけ、ここが陛下のお部屋だったことを思い出したらしい。膝へ戻した帽子を、ロルフさんが横から見ていた。


「明日は、乗っていただけますか」

「朝にもう一度、拝見します。それから、馬車の点検のお返事も伺ってください」


 私は道具を片づけ、二百九十七番へ今日の処置を書いた。車輪の頁と橋の頁、二か所に挟んでいた紙を抜く。

 陛下の袖口には、まだ細い糸がのぞいていた。私はそこへ手を伸ばさず、帳面を閉じた。


 ◇


 王宮を出ると、通りの店に灯りがつきはじめていた。マリエラさんが、右手を開いたり閉じたりしている。今日は図をたくさん描いたので、指にインクがついていた。


「先生。帰りは、いつにしましょう」


 私は宿の窓を見上げた。洗って干した服が、一着下がっている。


「明日の確認が済んだら、王宮からのお返事を伺います。その次の朝なら、発てると思います」

「ミルデへ?」

「はい。蹄鉄亭へ戻りたいです」


 口にしてから、マリエラさんを見た。


「マリエラさんは、どうなさいますか」

「私も。帰ったら、あの机で練習したいです。今日のは、端の曲がったところが、まだよく分からなくて」


 彼女は小さな帳面を開きかけ、手を止めた。指のインクが、表紙へ一つ増えた。


「先に、洗ってきます」


 宿の主人に夕食を二人分頼んだ。私は窓の服を取り込み、鞄の上へ畳んだ。乾いていた。明後日の道で着られる。

 母に知らせる日と、伯父へ返す図のことを考えながら階段を下りた。途中で足を止めても、下から急かす声はなかった。マリエラさんは先に座り、私の皿に蓋をしていた。


「熱いです。今、来たところなので」


 蓋を持ち上げると、湯気が顔へかかった。


 ◇


 翌朝、陛下は上着を着て待っていた。昨日開いていた長靴の留め金も、今日は留まっている。

 両腕を拝見した。二百八十四番も二百九十七番も、ほどいた場所に残りはなかった。周りの糸も締まっていない。


「この二件の処置と確認は、済みました」


 クラウスさんから、馬車も点検を終えたと聞いた。ロルフさんへの残りの代は、昨夕、弟子の手間も含めて支払われたという。

 銀貨が三枚、私の前へ置かれた。診察と確認で一枚。二本を解いた分で二枚。受け取ってから、帳面の記録を閉じる。


「残りを、続けて頼みたい」


 陛下の左手が、机へ置かれた。袖の下にあるものの重さを、手首で確かめていらした。

 私は財布をしまい、両手を膝へ戻した。


「明日の朝、ミルデへ発ちます。次のご依頼は、そちらへお願いいたします」


 言い終わるまで、陛下を見ていた。椅子の脚へ寄せていた足を、床にそろえる。


「……そうか。明日か」

「はい。マリエラさんとも、そう話しました」


 陛下は、隣に座るマリエラさんにも目を向けた。彼女は自分の帳面を持って、うなずいた。


「では、次の訪問で扱うものを決めよう。クラウスを通して、都合を聞かせてくれ」

「お願いいたします」


 机の左手が下がり、陛下は袖口を直した。

 私が鞄を持ったところで、クラウスさんが、厚い封を一つ出した。


「十年間の務めについて、陛下からのお返事がまとまりました。侯爵と私兵の調べも、今日お伝えできます。午後に、お時間をいただけますか」


 私は封を受け取った。中の紙には、先日私が直してもらった文が入っている。欠務なし、の隣に、熱のある日にも誓約を更新したと、私の話が添えてあった。


「午後で、結構です。私も、お話ししたいことがございます」


 宿へ戻ってから、机へ写しを並べた。治療の道具は鞄へ戻す。八つの私の入宮の日付と、十年後の解任の日付を、同じ紙で確かめた。

 その下へ、話す順に書こうとして、最初の一行だけにした。

 熱のある朝、階段の途中に座っていたこと。

 私はその紙を、いちばん上へ置いた。

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