第37話 三つの車輪
陛下の机には、曲がった鉄の棒が三本載っていた。先が丸く削れているものと、途中で折れているものがある。下に敷いた布には、黒い油の跡がついていた。
革の前掛けをした男の人が、私たちに気づいて棒をまとめた。
「邪魔でしたか」
「いいえ。私のほうが、これから伺うところです」
車大工のロルフさんだと、クラウスさんが教えてくれた。王都へ戻された馬車を預かり、外れた車輪を調べた方だという。隣には、帽子を両手で持った御者が立っている。
陛下は、今日は寝台ではなく椅子に座っていた。長靴の片方だけ、留め金が外してある。
「足にあるかと思ったのだがな」
「まず、腕を拝見いたします」
私は机の空いたところへ帳面を置いた。車輪と橋に関わる糸の診察と、翌朝の確認で銀貨一枚。処置をするなら、一件につき一枚。その範囲を確かめてから、袖を上げていただいた。
右腕の外側に、固い輪が重なっている。上の糸を指の背でよけると、帳面の図と同じ折り返しが見えた。
「二百八十四番。去年の春、陛下宛。『乗る馬車の車輪が外れろ』」
御者の帽子が、手の中でへこんだ。私は結び目を裏まで見てから、送り主の名を読み上げる。
「フーゴ・レムケ様です」
「レムケ伯爵か」
陛下が、机の鉄を見た。クラウスさんのペンが止まり、日付をもう一度尋ねる。私は帳面の日付を伝えたが、何があった日なのかは知らなかった。
「宮廷へ馬車を納める商会の変更を、伯爵が申し出たころです。以前の記録を照合します」
クラウスさんが書きつけた。ロルフさんは鉄の棒を握っていた。細いほうを指で転がし、元へ戻す。
「陛下。納めたときには、留め具も軸も見ております」
「それは聞いた」
陛下の返事で、ロルフさんは口を閉じた。私は、棒の一本を見せてもらえるかと尋ねた。ロルフさんは自分の袖をまくりかけてやめ、鉄を差し出した。
持つと、重かった。魔術の糸はついていない。
「こちらは、私は直せません。陛下の腕にある一本を扱います」
「馬車に、何か仕込まれたんでは」
「呪いは、陛下へ届いております。この馬車を取り替えても、陛下が次にお乗りになるものへ、同じことが起きます」
ロルフさんは、抱えていた包みを机へ置いた。中には木の欠片もあった。厚い布で包んでいたのは、机を傷つけないためだったらしい。
◇
御者は、三つの車輪が外れたときのことを話した。最初に後ろが沈み、手綱を引いたときには前も傾いていたという。三度、別々に壊れたのかと書記が聞きかけたので、御者は首を振った。
「いっぺんです。直したものが三度外れたんじゃございません」
私は二百八十四番の図を示した。腕にある輪も、同じところで一つに結ばれていた。
ロルフさんが、三本の留め具を並べなおす。どの車輪についていたものか、順に指さした。陛下は最後まで聞いてから、私へ右腕を向ける。
「返せば、あの者の馬車がこうなるか」
「伯爵ご自身に糸が移ります。伯爵がお乗りになる馬車の車輪が、外れることになります」
「……御者が誰であってもか」
「はい。お乗り合わせの方も、おられるかもしれません」
陛下は御者を見た。御者は帽子の縁を指で伸ばしていたが、その視線に気づいて、両手を下ろした。
私は、触れていた輪を元の位置へ戻す。ほどくにも返すにも、陛下のお返事を聞いてからだった。
「名は、確かか」
「現物から読みました。帳面に控えたお名前とも一致しております」
マリエラさんが、自分の紙へ描いた図を見せた。端を下へくぐらせたあと、外へ向けて二度曲げてある。私が読み直したところを、彼女も描き分けていた。
陛下はクラウスさんに、今日読み取った名と形を記録させた。ロルフさんの提出した物も、誰から受け取ったかを添えて残すという。
「解いてくれ。伯爵には、こちらから聞く」
「かしこまりました」
陛下が選んだ処置を、依頼の紙へ書き足した。署名をいただくと、クラウスさんが机の端へ寄せる。ロルフさんは鉄を包み、私の肘が当たらないところへ移った。
私は右手を洗って戻った。陛下の腕の下には、畳んだ布が敷かれていた。
◇
上にある細い糸を、左の指の間へ通す。二百八十四番の輪は、その下にあった。外へ向いた端を戻し、重なったところを一つずつ広げる。
マリエラさんが机の向こうから見ていた。私が指を移す前に、次の輪へ目が動く。どこを押さえるかは、もう分かるようだった。
折り返しを戻すとき、陛下の指が少し曲がった。
「痛みますか」
「引かれたように思った」
「ここで、少し止めます」
端をつまむ指を緩めた。下の糸まで一緒に持ち上がっていたので、そちらを戻す。陛下の指が伸びたところで、二百八十四番だけを持ちなおした。
最後の曲がりは、小さかった。爪を入れずに指の腹で戻す。抜けた端が細くなり、腕を一周していた黒い輪が消えた。
残りの糸を元へ収め、同じところをもう一度確かめた。
「車輪の一本は、解けました」
御者が、大きく息を吐いた。ロルフさんは包みを持ち上げかけ、まだ用があると思ったらしく、机へ戻した。
「それなら、今から馬をつなぎましょうか」
「橋のほうも、まだございます。馬車の点検も、ロルフさんにお願いします」
御者はうなずいた。馬車の修理が終わったという知らせと、陛下を乗せてよいという知らせは、別々に要る。クラウスさんが、それぞれ誰に聞くかを書いた。
私は二百八十四番へ処置を追記した。陛下が袖を下ろすと、残った細い糸が、その下へ隠れた。
◇
ロルフさんが布包みの下から、畳んだ紙を出した。何度も開いたらしく、折り目だけが白くなっている。
「修繕の残りの代は、これでいただけるのでしょうか」
クラウスさんが紙を受け取った。帰還した馬車を直した代のうち、部品の分だけが先に払われていた。仕事が済んだことを確かめる欄は、空いている。
「不具合の原因が分かってから、と言われまして。弟子の手間も、この残りに入っております」
陛下が手を出した。クラウスさんから紙を受け取り、修繕の日付を見る。私たちが母に会う前に、直し終えていた。
「車輪を外したのは、先ほどの呪いで間違いないな」
「内容と事故は合っています。ただ、直した馬車の仕上がりは、私には分かりません」
私は鉄を指さしかけ、手を下ろした。ロルフさんが布を開く。傷んだ部分と、取り替えたものの図が、同じ紙に描かれていた。
「クラウス。馬車を見る役人を呼べ。今日中に修繕を確かめ、不備がなければ残りの代を払わせろ」
陛下は、手にしていた紙をクラウスさんへ返した。クラウスさんが余白へ指示を書きつける。
ロルフさんは礼を言い、紙を受け取った。折り目へ沿って畳もうとし、まだインクが乾いていないところで手を止める。
クラウスさんが、乾いた紙を一枚差し出した。
「陛下。次は、左のお手をお願いいたします」
私は帳面を二百九十七番までめくった。橋の糸を送った方は、伯爵とは別だった。
送り主の名の隣には、夏の終わりの日付がある。
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