第36話 寝室での誓約
クラウスさんは、紙の右下を示した。母が寝台で誓約を読んだ日には、立ち会った神官の署名もあった。同じ名が、次の日にも続いている。
「文を読む場所については、礼拝堂に限られていません。病床へ書面を運び、そこで更新した記録です」
「私にも、できたのですね」
「はい。魔術師長にも確かめました」
私は紙を机へ戻した。熱があった朝、階段の途中で座ったことがある。手すりから手を離すと、もう一度立てなくなりそうだった。あのとき、文を持って上がってくれる人がいればよかった。
母の署名のあとに、立会人の名がある。私の朝には、誰が署名していたのだろう。
「私の分も、拝見できますか」
「明日、書記局で原本をご覧いただけるようにします」
明日は午前と午後のどちらがよいかと聞かれ、朝食のあとを選んだ。泊まる部屋の手配は頼まなかった。
クラウスさんが帰る前に、母の説明の写しを一枚取ってもらった。どの紙を持ち帰るのか、二人で確かめる。百九十七番を記した帳面は、私の鞄へ戻した。
◇
翌朝、王宮の門では、名を告げるだけで通れた。クラウスさんが届けておいたという。門の内側に、先日の陛下の書面が掲げてある。私の仕事の名前も、まだ読めた。
マリエラさんが肩へ目をやり、すぐに前を向いた。私も、門を越すときに顔を左へ向けかけた。
書記局へ向かう途中、ボルツさんがいた。こちらを見て片手を上げ、それから私の肩を二度見た。
「おはよう、嬢ちゃん。今日は静かだな」
「おはようございます。昨日、解きました」
「そうかい」
ボルツさんは少し笑った。鳥のことを聞く代わりに、朝飯は食べたかと言う。食べてきたと答えると、用意しかけた包みを自分の懐へ戻した。
私はその包みを見なかったことにして、書記局の場所を教わった。
長い机には、紙の束が三つ置かれていた。魔術師長と、書類を出した書記官が待っている。クラウスさんは私たちの椅子を引き、机の端へ自分の手帳を置いた。
母の時期の束と、私が務め始めた年の束は、別々に綴じられていた。母の最後の記録には、北の塔の寝室という文字が続く。途中から、筆の違う署名が増えていた。
「こちらの神官は、母が礼拝堂へ来られないあいだ、塔へ通っていたのですね」
「そう記録されている」
魔術師長が答えた。私は自分の年の束を開く。日付の横には、礼拝堂、とある。立会人の欄はなく、月の終わりにまとめて署名する欄があった。
「毎朝、見ていた方の署名ではないのですか」
「月ごとの報告を受け取った者の署名です」
書記官が紙の下を押さえた。最後に、欠務なし、と書かれている。次の月も、同じ字だった。
私はその行をたどった。毎朝の誓約を欠かさなかったことは、合っている。
「これで、病気もなかったと扱われていたのでしょうか」
「少なくとも、今回の取りまとめでは、そう読んでいました」
書記官が、自分の作った下書きを引き寄せた。まだ魔術師長へ出していないという。健康状態についての文がある。私は、その紙を手前へ向けてもらった。
「そこは、直してください。熱があっても、私が行きました」
書記官はペンを取り、魔術師長を見た。魔術師長は原本の頁を開いたまま、うなずく。
「病状を確かめた記録は、この欄にはない。欠務の有無と分けるように」
私は直される文字を見ていた。十年分を全部、元気で務めたことにされるところだった。綴じられた束は、十分に厚かった。
◇
マリエラさんが、自分の小さな帳面を開いた。三日間の王宮勤務を終えたときに、確かめたことを読み返している。
「夜に祈らなかったことも、欠務になりますか」
「そなたは、夜の祈りを引き受けておらん」
魔術師長は答え、私の最初の書面を見た。私も同じところを見る。次の聖女が見つかるまで。期間はあるが、熱が出た日に誰を呼ぶかは書かれていなかった。
「母のときに来ていた方は、私にも来ることになっていたのですか」
「それを命じた紙は、今のところ見つかっていない」
「では、来る方を私が待ち損ねたわけではありませんね」
魔術師長は、しばらく書面を見た。白い眉の下で、目だけが動く。
「君に知らせた記録もない。引き継ぐときに、決めるべきだった」
私は椅子へ座りなおした。背を伸ばして話していたので、腰のあたりが固くなっていた。マリエラさんが水を寄せてくれる。
書面を寝室へ運んでもらえば、階段は下りずに済んだ。けれど、それだけで一日休めるわけではない。読めないほどの熱なら、別に引き受ける人が要る。
「寝室で読むことと、務めを休むことは、分けて調べてください。寝たまま毎朝読むだけでは、交替する方がいたことにはなりません」
「承知した」
魔術師長は書記官へ、二つに分けて書かせた。誰が具合を確かめ、誰が代わるのか。私の引き継ぎ書面には、どちらも決めた形跡がない。
昨日持ってきた母の説明も、机へ並んだ。母の糸が私を留めていたことと、王宮が何も決めていなかったことが、同じ紙の束に入る。
「百九十七番は、もう解いたと伺った」
「はい。図はこちらです」
私は必要な紙だけを出した。魔術師長は空いていた輪の図を指で追い、母の説明と見比べた。結び目そのものは、もう見せられない。
「解く前に、こちらで見るべきだったか」
「私は、昨日解くと決めておりましたので」
魔術師長は顔を上げた。私は紙を押さえ、日付を示す。送り主を読んだ日と、母に会った日と、解いた日は別々に書いてある。
その三つを、書記官が写した。
◇
昼までに、取りまとめの文を読みなおした。元の記録は削らず、今回確かめたことと、私が話したことを添える。熱がなかったという文は、そこにはなかった。
私は自分の話した部分へ署名した。魔術師長は調べの責任者として、その下に名を書いた。写しを一通、私が受け取る。務め始めたときの書面も、原本と照合した写しを付けてもらった。
「これで、陛下へ上げる。手当や休みの扱いについても、次に回答を出す」
「お願いいたします。いただいた仕事代とは、別のお話です」
「分かっている」
クラウスさんが次の知らせの宛先を確かめた。今の宿にいるあいだに返事がまとまらなければ、移る前に知らせる。私は受け取った写しを板へ挟んだ。昔の自分の書面を、ようやく自分の鞄に入れられた。
机を片づけると、クラウスさんがもう一枚の封を出した。
「別の用件です。陛下から、次の診察のご依頼がございます。車輪と橋に関わる糸を、出立の前に」
私は封の宛名を見た。呪い返し屋、ノエラ・カーヴェル。中には陛下の署名があり、まず診察を受けたいと書かれている。
マリエラさんが、私の新しい帳面を鞄の上へ寄せた。私は古いほうを取り出す。王家の分は、こちらに続きがある。
「診察のあと、返すか解くかを伺います。お代も、その範囲で」
「陛下にも、そのようにお伝えしてあります」
私は食堂へ向かう廊下を見た。まだ、昼食を食べていなかった。
「では、午後に」
クラウスさんは時刻を書き入れた。私が椅子から立つと、マリエラさんも帳面を閉じる。
車輪を三つ外した糸の頁には、細い紙が挟んであった。端から、送り主の名が少し見えた。
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