第35話 羽をほどく
翌朝、母の家へ行くと、机が窓の近くへ寄せてあった。椅子は三つある。昨日の私の席だけ、手もとに光が入る向きになっていた。
母は先に座っていた。灰色の肩掛けの端を膝へ置き、私の鞄を見る。マリエラさんが椅子を引くと、母は立ち上がりかけるのをやめた。
「おはようございます」
「おはよう、ノエラ」
私は鞄から古い帳面と図を出した。紐の見本は、結んだまま持ってきた。昨夜、自分で一度ほどき、順番を確かめてから作りなおしたものだ。
鳥を左手へ移す。羽先が、袖口に掛かった。いつもなら払って外すけれど、今日は棘の向きを見て、一つずつ布から抜いた。
「返さずに、解くのね」
母が聞いた。私はうなずき、百九十七番の頁を開く。
「はい。お返ししても、私が八つだった日に戻るわけではありませんので」
送り主の欄は、もう空いていなかった。母の名の下に、昨夜までに写した説明が続いている。図は別の紙に描き、どちらの面から見たものかも書いた。
私は帳面を母へ渡さず、頁の向きだけ変えた。
「日付も、お名前も残します。昨日いただいたお話も」
「ええ」
「今日ほどくことと、これからお会いすることは、私がその都度決めます」
母は膝の上へ両手を置いた。私は椅子を少し引き、鳥が手のひらへ収まるようにする。
マリエラさんは水の器を遠ざけた。図を押さえる重しを置き、袖を肘まで上げる。光は出していなかった。
「先生。図を、こちらへ置きます」
「お願いします。今日は、手は私だけで」
「はい」
母の椅子が、床を擦った。身を乗り出すために寄せたらしい。手もとが陰にならないところで、母は止まった。
◇
上の羽を、右の中指でよけた。左手の上で鳥が首を動かす。羽の下へ爪を差しこみ、内側へ折れたところを開いた。
母の名前を読んだ端が見える。その先の輪を、引かずに押し戻す。今は何も通っていない輪だったが、隣の糸と重なったところは固かった。
昨日、紐ならここで指が入った。現物は、それよりずっと細い。私は息を吐いてから、親指の腹をよけた。
「ここです」
マリエラさんに、図の場所を示した。彼女がうなずく。母も同じところを見ていたが、私の手へは触れなかった。
折り返しを少し押すと、鳥の片方の羽が下がった。羽の形をした糸が、長く指へ垂れる。まだ端は抜けていない。
私は左の指を一本伸ばし、垂れた糸を支えた。棘が指の間へ入りそうになったので、手首の向きを変える。鳥はくちばしを開いた。
「いくな」
母が肩を動かした。私の手も一瞬止まる。下の輪は、つぶさずに残した。
「お母さま。そちらの紐は、触らずに置いてください」
母は、見本へ伸びていた手を戻した。知らずに同じところを引こうとしていたらしい。私は鳥の羽を、もう少しだけ広げた。
抜けてきた端は、長かった。帳面に最初に描いた鳥の幅では、やはり足りない。内側へ返した分をほどき、母の癖が残るひとねじりを逆へ戻す。
鳥の背が、細い糸になった。残ったくちばしの根へ、右の爪を添える。引けば締まる最後の輪を、外から押した。
そのとき、母が小さく息を吸った。
端が抜けた。
黒い糸は手のひらへ落ちる前に薄くなった。指の間の棘も消えた。私は右手を開き、左の人差し指に何も掛かっていないことを確かめた。
窓の外で、桶を置く音がした。
「終わりました」
マリエラさんが私の両手を見た。それから図を押さえていた手を外す。紙は、風で少しだけ浮いた。
母は机のこちら側を見つめていた。練習用の紐は残っている。鳥のいた場所へ手を伸ばしはしなかった。
「痛くは、なかった?」
「今は、刺さるところもありません」
私は左の袖を下ろした。手首へ指を入れる必要がなく、そのまま布が落ちた。
◇
帳面へ今日の日付を書いた。百九十七番、解いた。ペン先を持ち上げて、インクが乾くのを待つ。
新しい帳面は、鞄に入れたままだった。母も私も、お代の話はしなかった。
マリエラさんが、練習の紐をほどいて片づけた。私の指を見て、もう少し休みましょうと言う。私はうなずき、出してもらった水を飲んだ。両手で器を持っても、羽が邪魔をしなかった。
母の従姉妹が、薄く切ったパンを持ってきた。皿を置くとき、私の肩へ目をやった。
「もう、いないのね」
「はい」
それ以上は聞かず、もう一枚、パンを足してくれた。私は端の一枚を取る。母も食べたが、二口目は手に持ったままだった。
「お兄様には、私から知らせるわ」
「伯父様へは、私もお手紙を書きます。図を返すときまで黙っておくつもりはありません」
「そうね」
母はパンを皿へ戻し、口もとを拭いた。昨日は膝の上で何度も畳んでいた布だった。
「手紙を送っても、いいかしら」
「今はこちらの宿へ。王都を出るときには、受け取れるところをお知らせします」
私は宿の名と場所を書いた。クラウスさんへ昨夕届けたものと、同じ住所だった。母は紙を受け取り、折らずに机へ置いた。
「お返事は、すぐには書けないこともございます」
「ええ」
私は残りのパンを食べた。母は、もう一枚いらないかと皿を寄せる。朝食も食べてきたので、首を振った。
出るとき、母は椅子に座ったままだった。従姉妹の方が戸口まで送ってくれる。石段の欠けたところを避け、私は通りへ下りた。
肩へ手をやりかけて、鞄の紐を持ちなおす。鳥は鳴かなかった。
◇
宿には、クラウスさんからの返事が届いていた。今日の午後、調べている書類の写しを持って訪ねたいという。私は主人に取り次ぎを頼み、先に部屋へ鞄を置いた。
マリエラさんは窓を開け、鞄に結んだ看板の紐をほどいた。板の裏を拭いてから、扉の横へ立てかける。
「先生。看板を、下へ持っていきますか」
「今日は、お話の席が終わってからにしましょう」
昼食を終えたころ、クラウスさんが来た。私の肩を見たが、先に挨拶をした。席へ案内すると、持っていた書類を二つに分ける。
「お母様には、お会いになれましたか」
「はい。糸も、今朝解きました。こちらのお話から、よろしいでしょうか」
私は百九十七番の図と、母の署名した説明を出した。クラウスさんは読み終えるまで、私へ質問を挟まなかった。
紙を机へ戻してから、自分が持ってきた束を開く。いちばん上の写しには、母の名があった。
「誓約の更新に、立ち会った者の控えです。セルマ様が退任なさる前のものが、見つかりました」
私は日付を見た。八つになる前だった。母の名の横へ、どこで立ち会ったかが書かれている。
北の塔、寝室。
私は、その二文字へ指を置いた。
「礼拝堂へ、行かなくてもよかったのですか」
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