第34話 手首の輪
母は、折り返した紐へ左手を通した。手首の内側を上へ向け、残った端を右の指で押さえる。私が毎朝、誓約の文を読むときと同じ向きだった。
「ここを、誓約を結んでいるあなたへ掛けたの。塔を離れようとしたら、戻るように」
「毎朝、結びなおしていた誓約に、ですか」
「ええ。私も長くしてきたことだから、どこへ留めればいいかは分かった」
母の右手が、下の輪を押さえた。左手を動かすと、紐が締まる。上の結び目まで、同じほうへ引かれた。
私は鳥を持ち上げた。羽の下に、先ほどの端がある。その奥を広げると、細い輪が二つ重なっていた。片方は、どこへも掛かっていない。
「少し、そのままでお願いします」
母の手首と、鳥の内側を見比べた。紐の輪には母の手が通っている。鳥の下の輪には、私の手首も、ほかの糸も通っていなかった。
私は左の袖を上げた。解任状を当てたのは右腕だったけれど、両腕の茨はあの日に動いた。百九十七番があった左手首には、今は何もない。
「今は、この輪の中が空いています。誓約を解く前には、見えなかったところです」
マリエラさんが図へ輪を描いた。私は鳥を裏返さず、下から指を添える。母の紐と違い、輪の片側を持ち上げても、手首へ引かれるところはなかった。
母は、まだ自分の手を抜かずにいた。私はその輪を指した。
「そちらから、手だけ抜いていただけますか。結び目は残して」
母が指をすぼめた。左手が抜けると、下の輪は机へ落ちた。右手に残った結び目は、ほどけなかった。
私は自分の鳥を、隣へ置いた。
「この形ですね」
「……ええ。留めるところが、なくなっている」
下の輪を支えにして、上を引く結び方だった。毎朝の誓約を結ばなくなった今は、その支えがない。鳥は羽を動かし、母の紐の上へくちばしを向けた。
それでも、棘は私の指に当たる。
「上のほうも、留めるところがなくなれば、ほどけますか」
母は紐を見た。二本の端へ手を添えたが、引かなかった。
「そちらは、解くまで残るわ」
「務めが終わっても、こちらは残るのですね」
「そうなる。私は、ここまでしか考えなかった」
図の下へ、母の説明を書いた。昔の輪の中身は、もう見られない。今見える形と、母が示した形は分けて残す。誓約を結びなおして確かめるつもりはなかった。
マリエラさんが、空になった輪をもう一度見た。
「フルトの親方の糸には、手を抜くところがなかったんですね」
「はい。あちらは、親方ご自身の足へ留まっていました」
ペーターさんは向こう岸へ足をつけるたびに、戻されていた。私は靴を履いたまま、ここまで歩いてきた。母は、私の靴先へ目を落とした。
◇
母の従姉妹が、水差しを替えに来た。机に並んだ紐を見て、器を少し離して置く。母へ横になるかと尋ねたが、母は首を振った。
「この結び方を、最後まで見せてからにするわ」
私は残りの紙を出した。母は水を飲み、右手を膝の上で一度開く。それから、祈りに行く道のところを示した。
「礼拝の場所へ行くのは、止めないようにした。塔の部屋と、祈りのために使うところ。私が通っていたときも、小道までその中に入っていたから」
「王宮の、その場所だけを?」
「塔は、あの塔を思ったわ。礼拝のほうは、祈りに使う場所、と」
私はミルデの図を開いた。古い階段も、その隣の床も、かつて祈りに使っていたところだった。雨宿りをした道の礼拝堂には、母は行ったことがないという。
母の知らない場所でも、鳥は黙った。紙の上の境と、歩いて確かめた位置を合わせる。塔の外へ一歩出たら止める、という糸ではなかった。
「階段が傷んだことまでは、この結び目に入りませんね」
「ええ」
「私が転ぶところも、助けてはくださいませんでした」
母はうつむいた。マリエラさんが、井戸の前で鞄を持ってくれた話をしそうになり、口を閉じる。あちらは私が片足で立ったせいだったので、帳面へ足す必要はない。
私は紐へ目を戻した。結び目の下を広げる手順は、これで全部見えた。母が自分で結んだものをほどくと、図では隠れていた端が最後に出てくる。
「私にも、させてください」
母は紐を結びなおして渡した。私は同じ順に輪をよけ、下の折り返しを戻した。端を引くと、まだ締まる。長く残ったほうを先に押しこむと、指の間が緩んだ。
抜けた紐を、机に伸ばす。マリエラさんが書き終えるまで待ち、もう一度結んだ。
二度目は、母の手を見なくてもほどけた。
「この図と、今日のご説明を、王宮の調べにも使いたいです。私が毎朝、何をさせられていたかを確かめるために」
「私が送ったことも、話すのね」
「はい。百九十七番のことは。ほかの方のお名前がある頁は、お渡ししません」
母はしばらく図を見ていた。借りてきた見本の端に、自分で書いた字が残っている。
「名前を、ここへ書けばいい?」
「ご自分で読んで、違うところがなければ、お願いします」
私は説明を声に出して読んだ。母は、礼拝の場所を示した一行で止めた。王宮の礼拝堂だけ、と書いていたところを、私が直す。
直した文をもう一度聞いてから、母は署名した。最後の文字が下へ伸びた。鳥の内側にも、同じ方の癖がある。
◇
帰る支度をしていると、母が立ち上がった。椅子の背を押さえてから、戸口まで来る。途中で休むほどではなかったが、私たちと同じ速さでは歩けなかった。
「明日も、来てくれる?」
私は結び図を挟んだ板をしまう手を止めた。紐と署名の紙は、別の袋へ入れてある。
「午前に、もう一度伺います。百九十七番を解きますので」
母が左手を握った。私は、その手へ鳥を渡さなかった。自分の肩に載せ、羽が服へ引っかからないようにする。
「ここで?」
「お母さまにも、見ていていただきたいです。解くところを」
母はうなずいた。夕食を一緒に、と続けかけたが、窓の外を見て口を閉じた。
私は昼に取った宿へ戻ると伝えた。マリエラさんが先に戸を開ける。外へ出ると、鳥がいつもの声で鳴いた。
「いくな」
母は、戸口からその声を聞いた。
私は石段を下りた。下の一段だけ、縁が欠けている。右へ寄って降り、振り返って場所を教えた。
「明日は、こちらから上がります」
母は私の足もとを見てから、顔を上げた。
「待っています」
橋へ向かう角まで来たところで、私は肩へ手をやった。下の輪は、空のままだった。
宿へ帰る前に、クラウスさんへ泊まる場所を届けなければならない。私は王宮へ続く通りを、マリエラさんに確かめた。
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