第33話 向かいの椅子
王都の東門が見えたのは、翌日の昼前だった。
昨夜は街道の宿へ泊まり、朝食を食べてから歩いた。母に会う時刻までは、まだ間がある。門をくぐったあと、通りの井戸で靴の泥を落とした。マリエラさんは私が片足でよろける前に、鞄を持ってくれた。
「先生。腰を下ろせます」
「はい」
低い石へ座れば、両手が使えた。私は靴先を拭き、革に残っていた水を布へ吸わせる。
通りの宿で、寝台のある部屋を二人分取った。荷物を置き、昼食を頼む。母の家の場所を尋ねると、主人はパンを切る手を止め、窓から見える角を指した。
「橋を渡ったら、二本目の道だ。そっちへ行けば、表の通りより静かだよ」
礼を言い、紙の住所へ目を戻す。十年前の私が見た戸口は、まだ思い出せなかった。
◇
母の家は、石造りの家のあいだにあった。戸口の上へ小さな屋根が出ている。呼び鈴を鳴らすと、中で足音がした。
出てきた女の人に、伯父が書いてくれた取り次ぎ人の名前を尋ねた。私です、と答える。母とは従姉妹になる方だと教えてくれた。
「ノエラさんね。手紙は、昨日の夕方に届きました」
「今日、お会いできますか」
「ええ。お昼も済んで、待っていますよ」
私は礼を言った。女の人は、肩の鳥に気づいた。驚いていたけれど、手で払おうとはしなかった。
「セルマに知らせます。こちらへどうぞ」
小さな部屋へ通される。窓ぎわに椅子が二つあり、机には私の封が置かれていた。切った端まで、そろえてある。
私は立ったまま、鞄の紐を外した。奥の扉が開き、灰色の肩掛けをした女の人が出てくる。
母だった。
髪を後ろへ留め、片手に畳んだ布を持っていた。頬は記憶の中より細く、髪には白いものがある。けれど私を見るときに、先に顎を少し引くところは同じだった。
「ノエラ」
私は鞄を床へ置いた。
「お久しぶりです、お母さま」
母の手が、布を持ったまま上がった。私の頬の高さまで来て、止まる。母は手を戻し、椅子の背へ置いた。
「こんなに、大きくなって」
「十八になりました」
母は、私の靴まで見た。それから、隣へ顔を向ける。
「こちらは、弟子のマリエラさんです。一緒に話を聞いていただきます」
「はじめまして。お世話になっております」
「弟子……」
母の目が、私へ戻った。私は机の上の封を見た。仕事のことは、手紙にも書いてある。
「今は、お代をいただいて解いております」
マリエラさんが、私の隣へ椅子を寄せた。母は向かいへ座る。従姉妹の方が水を置き、用があれば呼んで、と部屋を出た。
子どものころは、母の寝台の横に立っていた。今日は机を挟んで、顔の高さがほとんど同じだった。
◇
私は古い帳面を出した。百九十七番のところへ挟んだ紙を抜き、母の前へ向ける。
「手紙に書いた糸は、こちらです」
鳥を左手へ移した。母が息を吸った。羽の下を見せると、布を持つ指が固くなる。
「こんな姿に、なったの」
「王宮を出るときに。それまでは、左の手首にありました」
袖を少し上げた。母は、肌の同じところへ目をやる。今そこには、茨がない。
「折り返した端が、内側にございます。伯父様に結び図をお借りして、ようやく読めました。お母さまのお名前です」
「……私が、あなたに送った」
私は母を見た。返事を聞いてから、鳥を机のこちら側へ戻す。母の手が届く場所までは、出さなかった。
「八つの、最初の冬ですね」
「兄が来た晩よ。あなたが雪の中にいたと聞いて」
母は、布を膝へ置いた。
「誰にも言わずに、門のほうへ行ったと。あのまま倒れていたら、朝まで見つからなかったかもしれない。私はそのとき、寝台から玄関まで歩くこともできなかった」
「それで、私を塔から出さないように?」
「ええ。礼拝には行けるようにして、ほかへは行かないように」
私は、王宮の小道の図を出した。母はすぐに北側の線へ指を置いた。かつて自分も通った道だという。
危ないところで鳴くのかと思った、とマリエラさんが言った。母は傷んだ階段の話を聞き、ミルデの図へ目を移す。私が描いた割れ目を、長く見ていた。
「そこへは、上がらないで」
「上がっておりません。鳥は、そこで黙っていました」
母の指が紙から離れた。
水の入った器が、手もとにある。母は持ち上げたが、飲まずに戻した。器の底が机へ当たった。
「その夜だけ、止めるおつもりでしたか」
「いいえ」
母の声は、今度はすぐに出た。
「務めているあいだは、あそこにいてほしかった。食べるものがあって、朝には人が来るから」
私は、八つの私が書いた日付を見た。母の言葉を、その横に控える。終わりを決めていたかと尋ねると、母は首を横に振った。
「聖女様が見つかれば、と思っていたわ」
「見つかったのは、十年後でした」
マリエラさんの手が、膝の上へ下りた。
母はその手を見てから、私へ向きなおった。
「帰りたいと言わなくなったと、聞いたの。朝もちゃんと務めていると。落ち着いたのだと、思った」
「お母さまに教わった通り、毎朝、誓約を読んでいました。熱がある日にも」
「熱があるときは」
「交替する方は、いませんでした」
母は口を開いたまま、しばらく何も言わなかった。窓の外を荷車が通る。輪の軋む音が、部屋の前から離れていった。
「ご自分で歩けるようになってからも、私のところへは来ませんでしたね」
「ええ」
「私が何も言わなかったからですか」
「それで済ませていた。会いに行くことは、できたのに」
私はペンを机へ置いた。母の顔を見て話すには、書く手を止める必要があった。
「私には、十年がありました。お母さまの病気がよくなるのを待つ日も、その中にあったと思います」
母は、膝の布を取り直した。角が、指の間で小さく畳まれる。
「ごめんなさい」
私は、水を一口飲んだ。
母が顔を上げるまで待ち、器を机へ戻した。
「聞いていただきたいことが、まだございます」
母はうなずいた。私は先日の王宮での仕事を話した。陛下から依頼を受け、仕事代をいただいたこと。夜は客間で眠ったこと。終わってから、自分で東門を出たこと。
マリエラさんが、隣から一言添えた。
「先生には、私の靴を買っていただきました」
母は机の下を見た。マリエラさんの靴は、つま先に小さな擦り傷がある。
「この靴で、ずいぶん歩きました」
「そう……」
母は、それ以上続けなかった。私は鞄から指袋を出した。伯父の家で見つかったものだと伝え、机へ置く。
母の指が縫い目へ触れた。取り上げる前に、こちらを見る。
「見てもいい?」
「はい」
母は指袋を手へ載せた。縫い目を直すように爪でなぞり、私の前へ戻した。
「もう、入らないわね」
「はい」
私はそれを、自分の袋へしまった。
◇
話しているうちに、窓の光が机の半分まで移っていた。母は背もたれへ体を預けた。私は帳面を少し端へ寄せる。
「お疲れでしたら、休んでください」
「少し、水を飲ませて。まだ、話せるわ」
母が飲むあいだ、鳥の羽を見た。棘は残っている。指を添えると、棘が指の腹に当たった。
器が机へ戻ったところで、私は鳥を持ち上げた。
「この糸を、今はお返ししておりません。解く前に、結び方を伺いたいです」
「私が、ほどこうか」
「手順を、教えてください。処置は私が決めます」
母は伸ばしかけた手を引いた。
私は借りてきた図と、練習用の紐を出す。机のこちらへ現物を置き、向こうへ紐を渡した。
「十年間、私は門へ行こうとしませんでした。今は、鳥が鳴いても歩けます。お母さまが結んだとき、どのように留めたのですか」
母は紐を取り、端を二つそろえた。内側へ折り返すところまで、伯父よりずっと早かった。
下の輪を作る前に、母は指を止めた。
「毎朝、誓約を読むあなたを思い浮かべたの」
私は、母の両手が見えるところへ椅子を寄せた。
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