第32話 セルマ・カーヴェル
マリエラさんが、明かりを机の奥へ移した。私の指の影がよけて、ねじれた端が見える。
上の輪は右手で支えた。左の爪を下へ添え、折り返しを引き出さずに広げる。強く押したところだけが平たく、そのすぐ手前に細かな曲がりが残っていた。
私は、端から順にたどった。
一度ねじり、指の腹で押す。そのあとに、もう一度戻してある。借りてきた図では、その最後の戻し方までは決まっていない。結んだ人の手の癖だった。
「読めますか」
マリエラさんに聞かれ、私はうなずいた。最初の音を、口の中で確かめる。続きも読めた。母の字を見なくても、同じ名になった。
「セルマ・カーヴェル」
明かりの皿を持つ手が止まった。私はそのまま、最後まで読んだ。奥の折り返しまで、同じ方の癖が続いていた。
鳥を肩へ戻す前に、外側の輪を元の位置へ収める。棘が親指へ触れた。羽も、くちばしも消えていない。
私は帳面の百九十七番を開いた。宛先には、自分の名前がある。内容は、行くな。隣の空いていた欄へ、ペンを置く。
セルマ・カーヴェル。書き終わってから、インクをつけすぎた最後の文字へ、紙の端を当てた。
「お母さまですね」
「はい。百九十七番を結んだのは、母です」
乾くまで、帳面は開いておいた。マリエラさんは、描きかけの図へ目を戻した。
「私が見えたのは、ここまででした」
「その続きを、今日、拝見できました。ありがとうございます」
短い線の先へ、細い端を描き足す。母に教わった指の使い方で、母が私へ結んだ糸を読んだ。練習の紐は、まだ机に残っている。片づけようとしてつかむと、思ったより固く握っていた。
指を一本ずつ開き、紐を皿の横へ置いた。
◇
煮込みが運ばれてきたので、帳面を閉じた。ヒルデさんは紙へ皿が乗らないことを確かめ、パンを置いていく。私は匙を取った。豆を一つすくい、口へ運ぶ前に戻してしまった。
マリエラさんが、自分の皿を少し横へ寄せた。
「明日、お手紙を?」
「はい。朝の便に間に合わせます」
「私も、王都まで一緒に行っていいですか」
私はマリエラさんを見た。まだ、行くと口にはしていなかった。伯父に教わった道を、食べながら考えていた。
「お願いしても、よろしいですか」
「はい」
マリエラさんは、寄せた皿を手前へ戻した。私は今度は豆を食べた。少し冷めていたが、噛まずに飲みこむほどではなかった。
食事を終えてから、白い紙を二枚もらう。一枚目のいちばん上へ、お母さま、と書いた。続きが、すぐには出てこない。病の具合を先に尋ねるか、ミルデへ来た話を書くか。ペン先のインクが、丸く溜まった。
紙を裏返し、自分の名から始めた。ノエラです。今はミルデの蹄鉄亭にいて、呪い返し屋をしている。伯父に会った。明日の朝、王都へ向けて出る。
日中の明るいうちに着けなければ、街道の宿へ泊まる。家へ伺うのは、明後日の午後にした。
「急すぎますか」
聞くと、マリエラさんは紙の日付を見た。
「具合が悪くて会えないなら、着いたところで聞けます。先生の泊まるところも、別に決めておきましょう」
「そうですね」
私は、長く寝ついていた母を思い浮かべた。伯父からは家の中のことができると聞いた。今も同じ寝台にいるところばかりを考えていたが、それは十年前の私が見た姿だった。
会って、話を聞きたい。次の行に、それを書いた。その下へ、百九十七番のことを続ける。
『最初の冬に届いた「行くな」の糸を、今も持っています。今日、お母さまのお名前を読みました。あの晩のことを、直接伺いたいです』
そこまで書いて、読み返した。消すところはなかった。最後へもう一度ノエラと署名し、乾くのを待つ。
二枚目はクラウスさんへ。明日ミルデを発ち、王都に私用で向かうと知らせる。追加の仕事は、こちらの用が済んでから内容を伺いたい。宿が決まったら、連絡先を届ける。
王宮で集めてもらっている記録の件も、一行添えた。ミルデ礼拝堂の控えには、休みや帰省の取り決めがなかった。詳しい写しは、持参する。
封を二つ並べると、母宛のほうが厚かった。百九十七番の図を入れるのはやめた。現物は、私と一緒に行く。
◇
翌朝、便を頼む店には、すでに荷馬車が止まっていた。伯父が書いてくれた通りの看板がある。私は荷を積む人の邪魔にならないところで待った。
店の人は二つの宛先を見て、王都なら今日のうちに着くと言った。屋敷や家へ配るのは、到着してからだという。母への封には、取り次ぎ人の名前も書き添えてある。
「返事は、ここへ戻せばいいかい」
「私も、これから王都へ向かいます。返事を待つ便は、お願いしません」
「じゃあ、届ける分だけだね」
言われた代を払い、封を渡した。店の人は宛先を外に向けて、ほかの手紙と一緒に箱へ入れる。蓋が閉まった。
私は店の前を空けた。荷馬車の車輪を止めていた木が抜かれ、馬が一歩進む。すぐに私たちを追い越していった。
マリエラさんが、鞄の口を確かめている。二冊の帳面も、借りた結び図も入っていた。
「朝ご飯は、まだですよ」
「はい。先に戻ります」
蹄鉄亭では、ヒルデさんがパンを包んでいた。私たちの分だというので、昼食代を払う。泊まった分も数えてもらい、銅貨を机へそろえた。
「看板は、預かろうか」
「持っていきます。戻りましたら、またこちらへ置かせてください」
「そのときに、場所を空けるよ」
板の裏を拭いてもらい、鞄へ結びつけた。紐の端は、すぐほどけるほうを外へ出す。昨夜の見本とは違い、こちらは簡単でよかった。
伯父への短い知らせは、ヒルデさんに託した。母に会いに行くことと、結び図は次に寄ったとき返すことを書く。送り主の名前は、母に会ってから自分で話す。
戸口で、ヒルデさんが鳥へ目をやった。
「そっちは、まだ一緒かい」
「はい。お連れします」
鳥が、いくな、と鳴いた。
ヒルデさんはいつものことだという顔で、戸を広く開けてくれた。
◇
西へ出る道で、マリエラさんが歩幅を合わせた。水車へ曲がる道を通り過ぎ、そのまま街道へ出る。伯父の家の屋根は、ここからは見えない。
古い帳面には、母の名前が書いてある。読めた今なら、お返しする先を定められる。肩の鳥を持ち上げ、結び目ごと裏返せばいい。
私は鞄の紐を持ち直した。母の家は、王都にある。
「先生。返すかどうかは、もう決めましたか」
「まだです。母が何を知っているのか、聞いてから考えます」
「解くのも?」
「はい。この結び目は、母にも見てもらいます」
マリエラさんは鳥を見た。それから、街道の先へ顔を戻す。靴底が土を踏む音が、二人分続いた。
前に王宮へ向かったときには、陛下の署名を鞄へ入れていた。今日は、母の住所がすぐ取り出せるところにある。私は番地を確かめ、折りなおした。
母を訪ねるのは、明日の午後だ。途中で昼食を抜いて、今日中に歩き切る必要はない。パンの包みを、板に押されないところへ移した。
「先生のお母さまには、何とご挨拶すればいいでしょう」
「弟子のマリエラさんです、とお伝えします」
「はい。先生、と呼んでもいいんですね」
「もちろんです」
マリエラさんが、次の宿へ続く道を指した。私はうなずき、隣へ並ぶ。
母の前で先生と呼ばれたら、どんな顔をされるだろう。
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