第29話 カーヴェルの家
レオンさんは、新しい鍵を迷わず選んだ。戸棚を開け、机に出してあった帳簿を下の段へ戻す。よく使うものは腰の高さまでに、古い図面は大工さんが下ろしてくれた箱へ、と置き場所を変えてあった。
私は、右膝をもう一度拝見した。二十八番の糸はなく、歩いても症状は戻っていない。
「昨日、直してもらった階段は?」
「大工と一緒に、下の二段まで確かめました。震えませんでしたよ」
レオンさんは裾を下ろし、隣の椅子へ置いていた財布を取った。
屋根の点検は、次から大工さんへ頼むことになった。レオンさんの机には、その連絡先が置いてある。礼拝堂の鍵と帳面は、以前と同じく本人が持っていた。
「娘が、全部こちらへ来ると言うもので」
「戸締まりを、何度も確かめに来るのはやめました」
フリーダさんが、空の箱を重ねながら言う。
「雨が漏ったら、教えて。黙って屋根に上がらないで」
「分かった。そっちも、膝に何か結ぶ前に言ってくれ」
「もう、しません」
レオンさんは銅貨を六枚置いた。私は二枚を受け取り、残りをマリエラさんの前へ寄せる。読み取りと、最後の確認は私。解いた仕事は、マリエラさんの分だった。
マリエラさんは枚数を確かめ、自分の帳面を開く。私は二十八番に、今日の再診とお代を書き足した。
「これで、膝のお仕事は済みました」
「ありがとうございました。踏み板も、助かりました」
フリーダさんが、畳んだ布をしまう。古い脚立は、まだ壁に立ててある。割れた踏み板は外され、修理が済むまで使わないと札がついていた。
レオンさんは立ち上がり、今度は私のために椅子を机へ寄せてくれた。
◇
カーヴェル家の書類は、昨日使った箱にまとめてあった。
母が務めを始めた年の記録と、私へ引き継いだときの書面を並べる。前の聖女の祈りを受けられなくなったあいだ、王家へ身代わりを出す。そのための話し合いを、この礼拝堂の当時の管理人が取り次いでいた。
「お家には、務めを教える方がいらっしゃったそうです。控えを預かるたび、王宮で何をするか確かめて、送り出していたと」
レオンさんが、古い目録の余白を示した。母の名の前にも、同じ家の名がある。務めの開始と引き継ぎが、それぞれ違う日付で記されていた。
幼いころ、母の膝の横で、紐の輪を押さえたことがある。強く引くと締まると叱られ、端をほどいては結びなおした。塔へ持っていった櫛のことより、指の置き場所のほうをよく覚えている。
「私も、母に教わりました。王宮へ入る前に」
マリエラさんが、自分の左手の指を曲げた。つい先日まで、私が押さえていたほうの指だ。
「お母さまも、先生だったんですね」
「そのころは、先生とは呼びませんでしたが」
母が療養へ移ったときの欄には、病によって務めを続けられない、とある。その次が私の名前だった。私に休みが要るか、いつ家へ帰るかを決めた紙は、同じ束には見当たらなかった。
レオンさんへ尋ねると、入っている書類を目録と一枚ずつ合わせてくれた。枚数は、足りている。
「こちらでお預かりしたのは、ここまでです。王宮側に、別の記録があるかもしれません」
「そちらにも、調べていただいています」
陛下の言葉を思い出した。誰がどう決めていたのか、調べよ、とおっしゃった声だ。
私は、ここで確かめた書面の題と日付を控えた。王宮の返事と比べるときに、必要になる。
「この伯父の住所へは、今も手紙が届きますか」
エーヴァルト・カーヴェルの名の下を指すと、レオンさんはうなずいた。
「ええ。今も西の水車の隣です。町から歩いて一刻もかかりません。先月、こちらへ屋根の修繕の寄付を届けてくださいました」
「母の、王都の住所は」
「そちらは、私には今のことは分かりません。お兄さまなら、ご存じでしょう」
私は紙を一枚、手前へ引いた。
自分の名前を書き、ミルデにいることを伝える。入宮のときのことを伺いたい。明日の昼、蹄鉄亭で会っていただけるだろうか。
「今日、お届けする便はありますか」
「午後に、近くへ行く者がおります。返事を頼んでおきましょう」
書き終わった紙を畳む前に、もう一度読んだ。帰ります、とは書いていない。会って話したい、と書いた。
レオンさんへ渡すと、宛先を確かめて受け取ってくれた。
◇
蹄鉄亭へ戻ると、ヒルデさんが戸口の泥を掃いていた。私たちが礼拝堂から持ってきた分も、そこへ少し増えた。
「明日の昼、奥で人とお会いしたいのですが」
「何人だい」
「伯父が、一人」
ヒルデさんは箒を止め、私を見た。
「ご飯も食べるかい」
「お茶を、お願いします」
「分かった。食事の客と、席を離しておくよ」
私は礼を言って、借りている机へ帳面を広げた。百九十七番の頁は、今日も同じところから開く。
外の物置で鳴き、傷んだ階段では鳴かなかった。二つの場所の図を並べ、王宮の小道の図も添える。
マリエラさんは、鳥の羽と私の絵を交互に見た。
「先生。この線は、端ですか」
指さしたのは、羽の下に隠れかけた短い線だった。
「端に見えたので、最初はそう描きました」
「二十八番をほどいたとき、短いほうの下に、続きがありました。これは、こちらへ戻っていませんか」
マリエラさんの指が、紙の上を曲がった。
私は鳥を手へ移し、羽の重なりを見た。引っ張らず、光も当てず、見えるところだけをたどる。短い線の先は、内側へ折れているようにも見えた。
新しい紙へ、大きく描きなおす。端だと思ったところに、ひとまず印をつけた。
「お名前は、分かりません」
「はい。ここがどう続くかも、まだ確かめておりませんので」
鳥を肩へ戻し、帳面の空いている欄は、そのままにしておいた。
伯父に尋ねたいことを別の紙へ書く。入宮のとき、私に何を話したのか。雪の夜を知っているか。母へは、今も会えるか。
最後の問いを書いたところで、ペンが止まった。インクをつけなおし、母の名を横へ添えた。
夕方、礼拝堂の使いの人が、返事を届けてくれた。封の中には、短い手紙が一枚入っていた。
明日の昼、蹄鉄亭へ伺う。エーヴァルト・カーヴェル。
署名の上を指で押さえ、時刻をもう一度確かめる。ヒルデさんが、皿を運ぶ手を止めた。
「来られるって?」
「はい。明日の昼に」
「じゃあ、奥の席を空けとくよ」
マリエラさんが、私の脇へ椅子を一つ寄せた。私は断らず、伯父に見せる鳥の図を、その席からも見える向きに置いた。
面白かったら評価、ブックマークいただけると嬉しいです。




