第27話 脚立の下で
翌朝、レオンさんは戸棚の前に椅子を置いて待っていた。ズボンの右の裾が、膝まで上がっている。フリーダさんは向かいの椅子に座り、膝の上で両手を重ねていた。
「平らなところでは、歩けるんです。昨夜も、戸締まりはできました」
「昨日の震えは拝見しました。もう一度上がらなくても、結構です」
右膝の外側に、結び目があった。黒い糸が太く一周して、その上へもう一つ、小さな輪が重なっている。端は短く、最後だけ強く引かれていた。私は指を添え、膝へ食いこんでいないことを確かめた。
「二十八番。五日前の夕方、レオンさん宛。『高いところで膝が震えろ』です」
フリーダさんが顔を上げた。
「送り主は、フリーダさん。ご本人のお話とも、合っております」
レオンさんは、娘を見た。
「雨の降った日か」
「父さんが、屋根から下りてきた日よ」
フリーダさんは、組んだ手をほどいた。
「靴を片方、庭へ落としたでしょう。あと一歩ずれてたら、父さんも落ちてた」
「手は、離していなかった」
「靴があんなところまで飛んだのよ」
レオンさんは返事をせず、自分の靴へ目を落とした。かかとの端が、少し削れている。
「私が来たときには、もう片づけてあって。隣の方が、落とした靴を持ってきてくれたんです。それで分かりました」
フリーダさんは天井を見た。しみは、昨日と同じところにあった。
「大工さんへ頼んで、と言ったら、戸棚を先に直すからって。屋根の穴くらい自分で塞げると言うんです」
「どちらも、一度に払うほどはなかったからな」
「言ってくれたら、私も出せるのに」
マリエラさんが、壁へ立ててあった脚立へ近づいた。開こうとせず、そのまま横へ倒す。床へ下りた踏み板の端に、細い割れ目が見えた。
「こちらも、お使いでしたか」
「屋根へ行くときに。脇の窓の下へ置くんです」
レオンさんが、右の靴をその板へ寄せた。踏み板は、靴より少し幅がある。端の割れ目は、釘のところまで伸びていた。
フリーダさんが椅子から身を乗り出す。
「こんなに割れてた?」
「昨日、畳んだときに裏が見えました」
マリエラさんは割れ目を押さなかった。横に置いた指だけで、長さを示す。
私はレオンさんの膝の糸へ目を戻した。
「この板の上で震えたら、足を踏み外します」
フリーダさんの手が、椅子の縁をつかんだ。
「……上がれなくなるだけだと、思っていました」
レオンさんは、板の横から靴を戻した。しばらく、誰も話さなかった。礼拝室のほうで、窓が風に鳴っている。
私は肩へ手をやった。鳥の羽の棘が、指の腹へ当たった。すぐには、手を下ろせなかった。
「どうなさいますか。解けば、こちらの糸は消えます。お返しすれば、同じことがフリーダさんの膝に起こります」
「解いてください」
レオンさんは、こちらを見て言った。
「娘に返すのは、要りません。私の膝を、元に戻してほしい」
「かしこまりました」
フリーダさんは、父親のほうへ口を開きかけた。レオンさんが手を上げる。
「高いところの仕事の話は、あとでしよう。まず、これを取ってもらう」
私はマリエラさんへ場所を譲った。
「この結び目は、これまでにほどいたものと同じ重ね方です。解くのを、弟子が担当してもよろしいですか。私は隣で拝見します」
レオンさんはマリエラさんを見た。
「昨日の、錠前のそばにいた方ですね」
「はい。今日は祈らず、糸をほどきます」
「お願いします」
お代は最後の確認まで含めて、銅貨六枚。次に確かめたときに払いたいと言われ、そのように書き留めた。マリエラさんは椅子を近づけた。膝の下へ畳んだ布を入れ、脚を少し楽にしてもらう。
マリエラさんは下の輪を押さえ、重なったところを少しずつ戻していく。フリーダさんが、父親の膝を見つめていた。
「痛くない?」
「痛くない」
マリエラさんの指が、一度止まった。レオンさんが娘へ向きなおり、膝も動いたからだ。手の位置を合わせなおすと、また同じところから戻しはじめる。
私は、輪が締まらないことを確かめていた。短い端が上へ出て、最後の輪が戻る。黒い糸が消えた。
「先生」
場所を空けてもらい、膝の裏まで拝見した。指でたどっても、残っているものはない。
「済んでおります」
レオンさんは脚を伸ばし、曲げた。両足を床へそろえ、椅子から立つ。
フリーダさんも立ったが、父親の腕はつかまなかった。レオンさんは一歩歩き、床に寝かせた脚立の前で止まる。取っ手へ手を伸ばした。
「その踏み板は、まだ割れています」
マリエラさんが言った。レオンさんの手が止まる。
「大工さんに頼むところを、下から測っていただけますか。机の位置も決めないと、書類を置く場所が足りません」
レオンさんは、戸棚と机のあいだを見た。
「ここの幅なら、分かる。紐を取ってきましょう」
壁の釘から、巻いた紐が外された。
◇
膝に糸のないレオンさんは、よく働いた。机を動かすところを決め、箱の幅を測り、使わない椅子を隣の部屋へ運ぶ。脚立は床に寝かせたままだった。
フリーダさんは、屋根の修理に出せる額を書いていた。レオンさんが礼拝堂の修理費の帳面を持ってきて、その隣へ置く。
「足りるかどうかは、午後に聞いてみよう」
「うん。全部替えるのか、穴だけ塞げるのかも」
マリエラさんは、二十八番の結び目を自分の帳面へ描いた。私はその下へ、解いた人のお名前を記す。マリエラさんが少しだけ帳面をこちらへ寄せたので、日付も入れた。
フリーダさんが近づいてきた。
「膝を止めておけば、安心して家へ帰れると思ったんです」
床の脚立へ目をやる。
「昨日のあれも、私が震わせてたんですね」
「はい」
フリーダさんは、脚立の割れ目をもう一度見た。それから、父親の書きかけの紙へ自分の紙を重ねに戻った。
レオンさんは、雨漏りの場所を下から見せたいと言った。礼拝室の脇に、細い扉があった。その奥を、暗い階段が上へ延びている。以前はこちらから、窓の下へ出ていたらしい。
「上がらなくても、ここから見えます。右の、梁のところです」
戸口からのぞくと、板にしみが広がっていた。マリエラさんが私の袖をつまむ。私は敷居の手前で止まった。いちばん下の踏み板が、真ん中から沈みかけていた。まだ、誰の足ものっていない。肩の上で、鳥は目を閉じていた。
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