第26話 開いた戸棚
礼拝堂の戸棚は、思っていたより大きかった。私が両手を広げても、端まで届かない。二枚の扉の継ぎ目に、古い錠前がついている。エーミルさんは、その前に布を敷いた。
「削りくずが出る。足もとへ来ないでくれ」
マリエラさんが、私の靴を見た。まだ、布を踏んではいなかった。
レオンさんは鍵の束を持って、少し離れたところで待つ。横には、私より年上の女の人がいた。娘のフリーダさんだと紹介された。
「普段は、町の南に住んでいるんです。今日は父が、戸棚を空にすると言うので」
「全部は出さん。必要なところだけだ」
レオンさんが言い、フリーダさんが床へ空き箱を二つ置いた。
エーミルさんは古い金具を切り、留め具を外した。戸が少し開きかけたところを、手で押さえる。
「先に、扉を支える。寄りかからないでくれよ」
古い錠前の裏には、茶色い埃が溜まっていた。レオンさんはすぐに布を持って近づきかけ、娘に袖を引かれた。エーミルさんの肘が、ちょうどその場所へ出た。
「あとで、拭きましょう」
フリーダさんは、使わない椅子を壁へ寄せる。脚立だけが、戸棚の横に残った。
新しい金具がつき、扉が閉まった。エーミルさんは、自分で鍵を二度回した。それから、レオンさんへ渡す。
「確かめてくれ」
細い指が鍵の柄をつかんだ。昨日と同じ音がして、掛け金が動く。レオンさんが取っ手を引くと、今度は二枚とも開いた。
棚には、紙の束と帳簿が詰まっていた。私の二冊を並べても、一段の端が少し埋まるくらいだ。
「これで、出せますな」
レオンさんは、鍵を抜いた。
「新しいものは、この輪へ。古いほうは、捨てる袋へ入れてください」
マリエラさんが言うと、レオンさんは鍵の束を見た。
「古いのも、取っておこうと思ったんだが」
「では、別の袋に。戸棚の前で全部試さなくて済みます」
フリーダさんがうなずき、小さな袋を一つ出した。古い鍵は、そちらへ入った。
◇
錠前の代がエーミルさんへ渡り、私たちも昨日決めたお代を受け取った。私は六枚、マリエラさんは四枚。マリエラさんは自分の財布へ入れる前に、帳面へ書く。昨日より、字を書く場所を少し広く取っていた。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。人の指まで折れずに済みました」
レオンさんは自分の右手を見てから、机の上を片づけた。
私は開いた戸棚へ目をやった。私の家の書類も、あの中にある。
エーミルさんは道具を数え、革の袋へ差していた。
「それで、屋根の方はどうなりましたか」
レオンさんが上を指す。天井の端に、水がしみた跡があった。壁に沿って、色の濃い筋が下りている。
「知り合いの大工に、話がついた」
「あなたにも見ていただけると、助かりますが」
「私は錠前だけだよ」
エーミルさんは最後の道具をしまった。
「明日の午後なら、下見に来られるそうだ」
「お願いします。次の雨までには、何とか」
エーミルさんは来てもらう時刻を紙へ書き、布の上の鉄くずまで持って帰った。机の上に残ったのは、新しい鍵と、古い紙だった。
◇
レオンさんは、入口の机から目録を出した。角に布を貼った、分厚い帳簿だ。紐でつないだ札が、頁のあいだから何枚も出ている。
「身代わりの引き継ぎは、こちらです。ご実家が近くにあったころから、うちで控えを預かっていました」
カーヴェル、と書かれた行があった。少し前の頁にも、同じ姓がある。さらに前にも、一つ。始まった日と、終わった日が、横に並んでいた。
「こちらの方は、新しい聖女様が務めに就かれたので、お戻りになっています」
レオンさんが一つの行を指す。始まりから終わりまでは、一年もなかった。
私は、終わりの日付を指で押さえた。数字の最後に、小さな点が打ってある。私の帳面で、済んだ仕事につけるものと似ていた。
「終わっているんですね」
「ええ。この次の方も。間が空いたときに、家から出していただいていたようです」
頁がめくられる。私の名前が、出てきた。ノエラ・カーヴェル。十年前の秋の日付。その右は、何も書いていない。始まりの日の下に、控えの束の番号だけがあった。
「退任の知らせは、まだ来ていませんでしたな」
「私が持っています」
解任状と、先日いただいた書面を出した。レオンさんは宛名と署名を確かめ、日付を写す。書き終わるまで、私は自分の名前を見ていた。
家から出していただいた、と、レオンさんは言った。八つの私は、何を持って王宮へ入ったのだったか。木の櫛は覚えている。書類を誰が持っていたのかは、思い出せなかった。
「引き継ぎの控えも、拝見できますか」
「出しましょう。番号は、この束です」
フリーダさんが、中段の手前から紙の束を下ろした。表に、目録と同じ番号がある。
いちばん上の紙には、母の名が書かれていた。セルマ・カーヴェル。病による退任と、私への引き継ぎ。その下に、入宮に付き添う親族として、もう一つの名前がある。エーヴァルト・カーヴェル。母の兄だ。
私は、二人の名を自分の紙へ写した。母の署名の最初の一文字を、もう一度見た。
「詳しい書面も、この下に。ここでお読みになれます」
「ありがとうございます」
レオンさんは、今度は戸棚の上の段を見た。
「屋根の古い図も、明日の大工に見せておこう」
母と伯父は、私がいつ帰ると思っていたのだろう。
私は次の書面へ指をかけた。マリエラさんが、目録の開いた頁を押さえてくれた。
フリーダさんは机を片づけ、下の段から出した帳簿を箱へ移している。レオンさんは脚立を開いた。
「父さん。上のものは、私が」
「手前の束だ。すぐ届く」
片足が、一段目にのった。膝が、細かく震えた。私は椅子から立った。レオンさんの手が棚の端をつかみ、フリーダさんが脚立を押さえる。
「いったん、下りてください」
もう片方の足は、まだ床にあった。レオンさんは一段目から足を戻し、両足で立つ。
震えが止まった。靴の先を動かしても、膝は揺れない。私はズボンの右膝のあたりを見た。布越しに、黒い輪の端が見えている。フリーダさんが、私の視線に気づいた。
「……私です」
脚立を握る手が、緩む。
「私が、父にかけました」
レオンさんが娘を見た。私はまだ、糸へ手を伸ばしていなかった。
「レオンさん。膝を、拝見しましょうか」
レオンさんは、自分の脚を見下ろした。廊下では、夕方の礼拝へ来た人の声がしはじめている。
「頼みたい。明日の朝、娘と一緒に、きちんと話をしたいんですが」
「今も拝見できます。歩いていて、お困りではありませんか」
「床では、何ともないんです。今日はもう、上へは行きません」
フリーダさんが頷き、脚立を畳んだ。
私は翌朝伺う約束をした。まだ読んでいない書面の前に、二人の名を写した紙を挟む。家の書類は机へ置き、上の図面は大工さんが来てから下ろすことになった。
「父を、屋根へ上らせたくなくて」
フリーダさんは、畳んだ脚立を見たまま言った。
面白かったら評価、ブックマークいただけると嬉しいです。




