第23話 もう一つの帳面
錠前職人のエーミルさんは、右手を机へ置いた。人差し指の付け根に、黒い糸が一本巻いている。細い端を二度ねじってから、輪の下へ押しこんであった。
「三日前の夜、エーミルさん宛。『回す鍵が折れろ』です」
「鍵のほうじゃなく、手にあるのか」
「はい。送り主は、ベルナーさんという方です」
エーミルさんが、折れた鍵へ目を落とした。
「部品を入れてる金物商だ。取り替えを頼みに行った晩だな」
指を少し曲げると、糸も動いた。
「お返ししますか。解きますか」
「今は、解いてほしい。仕上げるものがある」
エーミルさんは布の上の鍵を端へ寄せ、革の袋から錠前を出した。新しい鉄の表面に、鑢の跡が並んでいる。
「明々後日、礼拝堂の戸棚へ付ける。もう一度折ったら、間に合わん」
「解くお代は、銅貨六枚です」
「頼む」
新しい帳面に、二十五番と書いた。ひねった端を起こし、輪を押さえながら逆へ回す。エーミルさんの指には小さな傷がいくつもあったが、糸は一度で緩んだ。消えたところを確かめると、エーミルさんは予備の鍵を出した。錠前へ入れ、途中で手を止める。
「まだ、引っかかる」
私は指の付け根を見た。黒いものは残っていない。エーミルさんは力をかけず、鍵を戻した。道具を一本取り出して蓋を開けると、小さな部品をつまみ上げた。
「……こいつだ」
糸は消えている。エーミルさんは、部品を横へ向けた。
「幅が違う」
袋から金属の物差しが出てきた。部品を測り、薄い紙へ書いてあった数と比べる。
「頼んだ寸法じゃない。これじゃ、こっちの板に当たる」
私には、並べられた二つの部品が、ほとんど同じに見えた。
「私に直せるのは、指のほうまでです」
「ああ。ここからは、私の仕事だ」
エーミルさんは錠前を包み、銅貨を六枚置いた。それから帳面の二十五番を指さす。
「それを、一枚書いてもらえないか。明後日の朝、ベルナーの店で部品の確認をする。戸棚の持ち主にも来てもらう」
「呪いのことでしたら、ご説明に伺えます」
「来てほしい。金物の具合まで呪い返し屋に見てもらったと言われると、困るからな」
指の糸と部品の寸法を、別々の紙へ書くことになった。
礼拝堂は、ミルデの北の通りの端にある。
「何をしまう戸棚ですか」
「古い書類だよ。鍵が折れこんで、今は開かない。新しい錠が仕上がったら、古いほうを切って付け替える。開けたままにはしたくないそうだ」
約束の時刻を書いた紙を受け取る。折れた鍵を一本分、明日の準備に借りたいと頼んだ。エーミルさんは二つのかけらを私へ渡し、もう一本を自分の布へ戻した。
◇
翌日、蹄鉄亭に王宮からの包みが届いた。
クラウスさんの手紙と、図の写しが一枚。それから、私の入宮について書かれた書類の抜き書きがあった。
古い図には、礼拝堂の北側へ、細い区画が延びていた。今の小道と重なるところだ。中庭への曲がり角は、その外へ出ている。私は自分の描いた道を、隣に置いた。草の横で鳴いた位置は、図の端と近かった。今の敷石を誰が敷いたのかまでは、書かれていない。
もう一枚には、見覚えのある姓があった。カーヴェル。その下に、控えの保管先が記されている。ミルデ礼拝堂。
「ヒルデさん。北の通りの礼拝堂は、昔からございますか」
「あるよ。あたしが生まれる前から。何か用かい」
「家の書類が、あるそうです」
クラウスさんの手紙には、続きがあった。私の家は、以前ミルデの近くに住んでいた。王宮へ身代わりを出す際には、この礼拝堂が引き継ぎの書面を確かめ、一部を預かってきたという。王宮側の目録にも、同じ保管先が残っていた。
エーミルさんが直しているのは、その記録の戸棚だった。私は手紙を最後まで読み、入宮の日付を確かめた。十年前の秋。自分の名前が、その下にある。
「管理人のレオンなら、昼過ぎにここを通るよ。パンを買いにね。呼び止めておこうか」
「お願いいたします」
レオンさんは、パンの包みを両腕で抱えて来た。白髪の、細い男の人だった。書類を見ると、すぐにうなずく。
「カーヴェル家の控えなら、うちです。引き継ぎのたびに、代々預かっていますよ」
「私の入宮のものも?」
「あります。どの束かは、表の目録で分かります。戸棚が開いたら、一緒に確かめましょう」
明後日、錠前を付け替える。その場へ伺う約束をした。レオンさんは帰りかけ、私の看板をもう一度見た。
「明日の部品の話も、よろしくお願いします。錠前の代を二度払うのは、困りますので」
ヒルデさんが、パンの包みの下へ落ちかけた手紙を拾ってくれた。私は書類を畳み、夕食を二人分頼んだ。今日は、言い直さなかった。
◇
マリエラさんが戻ってきたのは、鍋に二度目の薪を足したころだった。戸口で鳥を見つけ、次に私を見た。
「先生。ただいま戻りました」
「おかえりなさい」
鞄を受け取ろうとすると、マリエラさんは首を横に振った。
「重いです。紙が増えました」
靴には乾いた土がついている。服は、いつもの灰色だった。
先に手を洗ってもらい、机の向かいへ座る。小さな帳面が、二人のあいだで開いた。
最初の二本の次に、喉の結び目が描いてあった。
「八十二番です。殿下から、こちらも解いてほしいと」
「声の糸ですね」
「はい。二日目に解けました。上を戻しても動かなかったので、いったん手を休めて、下の輪を見なおしました」
私は古い帳面の八十二番を開いた。描かれた端の向きも、重なり方も合っている。本人の報告を聞き、処置の日と名前を書き足した。
「十二本になりました」
「三日いて、増えたのは一本でした」
次の頁には、別の結び目があった。真ん中を黒く塗りつぶさず、見えなかったところを空けてある。
「これは、端がどこから出ているのか分からなくて。触りませんでした」
「はい。そのままでよかったです。ここを引くと、下の糸も寄ってきます」
紙の上へ指を置くと、マリエラさんも同じところを指した。
「それを確かめたくて、持って帰りました」
祈りの時間は、頁の端に書いてある。食事のあいだにそばで祈り、決めた時間に終える。夜の付き添いは、侍女へ頼んだという。糸の図を写して、次に診る人へ渡したことも聞いた。
「夜も、寝ましたか」
「三晩とも。最後の夜は、起こしに来た人へ、侍女頭さんが紙を見せてくれました」
ヒルデさんが煮込みを運んできた。マリエラさんは、匙より先に財布を出す。
「今日の夕食は、私が払います。二人分、お願いします」
「おや。稼いできたのかい」
「はい」
小袋から銅貨を出し、枚数をそろえる手を、私は見ていた。一枚だけ机の隙間へ寄りかけたので、指で止める。
「ありがとうございます。いただきます」
マリエラさんも匙を持った。半分ほど食べてから、机の端の包みに気づく。エーミルさんに借りた、折れた鍵の片方だった。
「先生。明日のお仕事は?」
私は二十五番の写しと、部品の寸法の紙を並べた。
「こちらの鍵を折った責任を、職人さん一人に払わせたい方がいらっしゃるようです」
マリエラさんは最後の一口を食べ、空の皿を紙から離した。
「では、控えも持っていきましょう」
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