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【連載版】聖女様がいらしたので、身代わりはもう不要だそうです。では、十年分の呪いをお返ししますね。  作者: 堀吉 蔵人


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第22話 一番のつづき

 

「拝見してから、お伝えします」


 ディルクさんは、財布を開けたまま待っていた。私は椅子へ座り、襟を緩めてもらう。喉の下に、黒い糸が巻いていた。結び目の端だけが、きれいにそろっている。前に見たものと、同じだった。


「新しい帳面の、一番ですね」

「増えちゃいないだろうな」

「こちらは一本です。解くお代は、銅貨六枚になります」


 ディルクさんが、財布から銅貨を出す。二枚が重なっていたので、机の上で離した。


「それで、普通にしゃべれるのか」

「この糸による『お帰りください』は、止まります」

「……頼む」


 机の端へ、六枚が並んだ。

 私は帳面の最初の頁を開いた。ヒルデさんのお名前。その下に、ディルクさんへお返しした日がある。余白には、次に寄ったときに解くという約束を書いてあった。


「ヒルデは」


 ディルクさんが戸口を見た。ヒルデさんは、食堂から出てきた客に鍵を渡している。客は荷物を抱えなおし、階段へ向かった。


「聞こえてるよ。次に来たときって、あたしも言ったろ」


 鍵の輪が、帳場へ戻る。


「ノエラ。こっちの支度が済むまで待たせなくていいからね」

「はい」


 ディルクさんが、襟をもう少し下げた。

 喉仏が上下する。糸も一緒に動いたので、私は触れずに待った。


「少し顎を上げてください。話すのは、あとで」


 そろった端の下へ、指を入れる。上から見ると整っている結び目も、裏へ回れば、糸がきつく重なっていた。前には、この結び目を丸ごと裏返した。今日は、最後に締めたところから戻す。

 ディルクさんの手が、膝の上で握られる。私は片方の輪を押さえ、もう片方を緩めた。引き抜いた端が、指先で細くなる。戸口から、ヒルデさんの声がした。


「いらっしゃい。お一人かい」


 ディルクさんの喉が動きかける。


「今は、まだです」


 口が閉じた。

 長い最後の輪を抜くと、黒い糸がほどけた。細い端まで消えたのを確かめてから、手を離す。


「済みました」


 ディルクさんは喉へ手を当てた。上から下へ、二度さする。それから、私に向かって口を開いた。


「いらっしゃいませ」


 少し小さい声だった。通りを行く荷馬車の音に、半分ほど隠れた。


「もう一度、よろしいですか」

「いらっしゃいませ」


 今度は、机の端までちゃんと届いた。

 ディルクさんは、自分の声のしたほうを見るように、顎を引いた。


「……言えた」

「はい。お代を頂戴いたします」


 六枚を数え、財布へ入れる。解いた日と、お代を、一番の下へ書き足した。新しい頁は開かない。

 ディルクさんが椅子から立ったところへ、ヒルデさんが空の盆を抱えて出てきた。


「済んだのかい」

「ああ」

「そうかい」


 それだけ言って、ヒルデさんは机を拭く布を取った。

 ディルクさんは、向かいの自分の宿を見た。金の杯の看板の下では、若い給仕が一人で客と話している。客は荷物を持ったまま、首を横に振っていた。


「うちの飯も、冷めるな」


 ディルクさんは空の財布をしまい、通りへ出た。渡る前に、一度振り返る。


「もし、また同じことを言ったら」

「喉を拝見します。看板はこちらにありますので」


 うなずいてから、ディルクさんは道を渡った。通りの向こうで、若い給仕が主人に気づく。ディルクさんは客へ頭を下げ、何か話しはじめた。こちらへ聞こえたのは、「部屋」という言葉だけだ。客はまだ首をかしげていたけれど、すぐには立ち去らなかった。私は一番の頁を閉じた。


 ◇


 夕食には、豆と肉の煮込みが出た。いま看板にしている板の裏に、値段が残っている。私は一口食べ、昨夜の宿の煮込みを思い出した。豆が、こちらのほうが柔らかい。


「王宮じゃ、何を食べてたんだい」


 ヒルデさんが、向かいの椅子へ腰を下ろした。


「パンと、スープと。お肉もありました」

「そりゃ、あるだろうよ」


 何を話せば食事の説明になるのか考えているうちに、ヒルデさんは笑って立った。水差しを置きに来ただけだったらしい。


「今夜は、食べて寝な。明日の話は、明日だ」


 私はうなずき、煮込みの続きを食べた。皿を返すころには、通りの荷馬車が減っていた。向かいの窓に灯りがつき、ディルクさんが戸口の敷物を振っている。喉の糸が消えても、敷物の埃は自分で払うらしい。

 部屋へ上がる前に、看板を中へ入れた。ヒルデさんに教わって、戸の開く側から少し離して立てる。以前はそこに置いて、戸を開けるたびに倒しかけた。


「覚えてたね」

「倒すと、お代のところから擦れますので」


 ヒルデさんが、板の下を布で拭いてくれた。

 二階の部屋には、寝台が二つある。片方へ鞄を置こうとして、机へ移した。マリエラさんが来たら、そちらを使う。私は窓を少し開けた。向かいの給仕が戸を閉めるところだった。金の杯が、通りの風で一度揺れた。

 机で、一番の記録を確かめる。以前、ここでヒルデさんから受けた依頼は、帳面のいちばん初めにある。そのあとには、マリエラさんが初めてほどいた足首の糸が続く。あのときは、まだ室内履きだった。

 自分の靴を見ると、街道の土が乾いていた。布を湿らせて拭く。二足目に手を伸ばす必要は、今夜はない。


 ◇


 翌朝、窓の下から声がした。


「いらっしゃいませ。朝の食事もございます」


 ディルクさんだった。続けて、同じことをもう一度言った。昨夜より、よく通る声だった。

 私は身支度を済ませて、一階へ下りた。ヒルデさんはすでに鍋をかき混ぜている。戸口を通りかかると、私の分の匙を皿へ置いてくれた。


「よく寝たかい」

「はい。一番も、戻っていないようです」

「朝っぱらから、よく聞こえるよ」


 ヒルデさんは鍋を見たまま答えた。向かいの宿の声につられて、こちらをのぞく客もいた。ヒルデさんが顔を上げ、いらっしゃい、と迎える。

 私は朝食のあと、看板を出した。まだ通りの片側にしか日が当たっていない。机を明るいほうへ少し寄せ、帳面とインクを並べる。

 椅子を一つ置いたところで、男の人が足を止めた。袖に鉄の粉がついている。腰には細い道具を何本も差した革の袋があった。男の人は、下の小さな字まで読んだ。


「折れたものは、戻せるか」

「何が折れたのでしょう」


 差し出された布の上に、鍵が二本あった。正確には、四つに分かれていた。同じところで折れていて、合わせれば二本になる。


「物を直すお仕事は、できません」

「そっちは、私がやる。直しても、次に試すと折れるんだ」


 男の人は布を置き、右手を開いた。人差し指の付け根に、細い黒い糸が巻いている。


「二本とも、私の手の中で折れた」


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