第22話 一番のつづき
「拝見してから、お伝えします」
ディルクさんは、財布を開けたまま待っていた。私は椅子へ座り、襟を緩めてもらう。喉の下に、黒い糸が巻いていた。結び目の端だけが、きれいにそろっている。前に見たものと、同じだった。
「新しい帳面の、一番ですね」
「増えちゃいないだろうな」
「こちらは一本です。解くお代は、銅貨六枚になります」
ディルクさんが、財布から銅貨を出す。二枚が重なっていたので、机の上で離した。
「それで、普通にしゃべれるのか」
「この糸による『お帰りください』は、止まります」
「……頼む」
机の端へ、六枚が並んだ。
私は帳面の最初の頁を開いた。ヒルデさんのお名前。その下に、ディルクさんへお返しした日がある。余白には、次に寄ったときに解くという約束を書いてあった。
「ヒルデは」
ディルクさんが戸口を見た。ヒルデさんは、食堂から出てきた客に鍵を渡している。客は荷物を抱えなおし、階段へ向かった。
「聞こえてるよ。次に来たときって、あたしも言ったろ」
鍵の輪が、帳場へ戻る。
「ノエラ。こっちの支度が済むまで待たせなくていいからね」
「はい」
ディルクさんが、襟をもう少し下げた。
喉仏が上下する。糸も一緒に動いたので、私は触れずに待った。
「少し顎を上げてください。話すのは、あとで」
そろった端の下へ、指を入れる。上から見ると整っている結び目も、裏へ回れば、糸がきつく重なっていた。前には、この結び目を丸ごと裏返した。今日は、最後に締めたところから戻す。
ディルクさんの手が、膝の上で握られる。私は片方の輪を押さえ、もう片方を緩めた。引き抜いた端が、指先で細くなる。戸口から、ヒルデさんの声がした。
「いらっしゃい。お一人かい」
ディルクさんの喉が動きかける。
「今は、まだです」
口が閉じた。
長い最後の輪を抜くと、黒い糸がほどけた。細い端まで消えたのを確かめてから、手を離す。
「済みました」
ディルクさんは喉へ手を当てた。上から下へ、二度さする。それから、私に向かって口を開いた。
「いらっしゃいませ」
少し小さい声だった。通りを行く荷馬車の音に、半分ほど隠れた。
「もう一度、よろしいですか」
「いらっしゃいませ」
今度は、机の端までちゃんと届いた。
ディルクさんは、自分の声のしたほうを見るように、顎を引いた。
「……言えた」
「はい。お代を頂戴いたします」
六枚を数え、財布へ入れる。解いた日と、お代を、一番の下へ書き足した。新しい頁は開かない。
ディルクさんが椅子から立ったところへ、ヒルデさんが空の盆を抱えて出てきた。
「済んだのかい」
「ああ」
「そうかい」
それだけ言って、ヒルデさんは机を拭く布を取った。
ディルクさんは、向かいの自分の宿を見た。金の杯の看板の下では、若い給仕が一人で客と話している。客は荷物を持ったまま、首を横に振っていた。
「うちの飯も、冷めるな」
ディルクさんは空の財布をしまい、通りへ出た。渡る前に、一度振り返る。
「もし、また同じことを言ったら」
「喉を拝見します。看板はこちらにありますので」
うなずいてから、ディルクさんは道を渡った。通りの向こうで、若い給仕が主人に気づく。ディルクさんは客へ頭を下げ、何か話しはじめた。こちらへ聞こえたのは、「部屋」という言葉だけだ。客はまだ首をかしげていたけれど、すぐには立ち去らなかった。私は一番の頁を閉じた。
◇
夕食には、豆と肉の煮込みが出た。いま看板にしている板の裏に、値段が残っている。私は一口食べ、昨夜の宿の煮込みを思い出した。豆が、こちらのほうが柔らかい。
「王宮じゃ、何を食べてたんだい」
ヒルデさんが、向かいの椅子へ腰を下ろした。
「パンと、スープと。お肉もありました」
「そりゃ、あるだろうよ」
何を話せば食事の説明になるのか考えているうちに、ヒルデさんは笑って立った。水差しを置きに来ただけだったらしい。
「今夜は、食べて寝な。明日の話は、明日だ」
私はうなずき、煮込みの続きを食べた。皿を返すころには、通りの荷馬車が減っていた。向かいの窓に灯りがつき、ディルクさんが戸口の敷物を振っている。喉の糸が消えても、敷物の埃は自分で払うらしい。
部屋へ上がる前に、看板を中へ入れた。ヒルデさんに教わって、戸の開く側から少し離して立てる。以前はそこに置いて、戸を開けるたびに倒しかけた。
「覚えてたね」
「倒すと、お代のところから擦れますので」
ヒルデさんが、板の下を布で拭いてくれた。
二階の部屋には、寝台が二つある。片方へ鞄を置こうとして、机へ移した。マリエラさんが来たら、そちらを使う。私は窓を少し開けた。向かいの給仕が戸を閉めるところだった。金の杯が、通りの風で一度揺れた。
机で、一番の記録を確かめる。以前、ここでヒルデさんから受けた依頼は、帳面のいちばん初めにある。そのあとには、マリエラさんが初めてほどいた足首の糸が続く。あのときは、まだ室内履きだった。
自分の靴を見ると、街道の土が乾いていた。布を湿らせて拭く。二足目に手を伸ばす必要は、今夜はない。
◇
翌朝、窓の下から声がした。
「いらっしゃいませ。朝の食事もございます」
ディルクさんだった。続けて、同じことをもう一度言った。昨夜より、よく通る声だった。
私は身支度を済ませて、一階へ下りた。ヒルデさんはすでに鍋をかき混ぜている。戸口を通りかかると、私の分の匙を皿へ置いてくれた。
「よく寝たかい」
「はい。一番も、戻っていないようです」
「朝っぱらから、よく聞こえるよ」
ヒルデさんは鍋を見たまま答えた。向かいの宿の声につられて、こちらをのぞく客もいた。ヒルデさんが顔を上げ、いらっしゃい、と迎える。
私は朝食のあと、看板を出した。まだ通りの片側にしか日が当たっていない。机を明るいほうへ少し寄せ、帳面とインクを並べる。
椅子を一つ置いたところで、男の人が足を止めた。袖に鉄の粉がついている。腰には細い道具を何本も差した革の袋があった。男の人は、下の小さな字まで読んだ。
「折れたものは、戻せるか」
「何が折れたのでしょう」
差し出された布の上に、鍵が二本あった。正確には、四つに分かれていた。同じところで折れていて、合わせれば二本になる。
「物を直すお仕事は、できません」
「そっちは、私がやる。直しても、次に試すと折れるんだ」
男の人は布を置き、右手を開いた。人差し指の付け根に、細い黒い糸が巻いている。
「二本とも、私の手の中で折れた」
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