第20話 看板を持って
マリエラさんは、朝食のパンを二つに割ってから言った。
「先生。私、三日だけ、ここで仕事をします」
昨日もらった紙が、皿の横に置いてある。空いていたところに、本人の字で何行か書き足してあった。
「今日から三日です。殿下の残りの糸で、私にほどけるものを」
「お休みは」
「夜は寝ます。昼にも、手を休める時間をもらいます」
紙の端を、パンくずのついた指で押さえる。
「祈っている間しか、新しい呪いを防げないことも、話します。前みたいに、ずっと隣に座っていれば何とかなると思われると、困るので」
「難しい糸があったら?」
「触る前に控えて、先生に伺います」
マリエラさんは、鞄から小さな帳面を出した。昨夜、クラウスさんに頼んで分けてもらったのだという。一頁目には、昨日の二つの結び目が描いてある。
片方は、端の長さが違う。ちゃんと描き分けてあった。
「三日で全部は、ほどけないと思います」
「残った分も、書いておいてください。次にお受けする方が、困りませんから」
「はい。それで、三日終わったら」
マリエラさんが、私の看板を見た。
「次の日の夕方、ミルデの蹄鉄亭に行きます。先生、そこでお会いできますか」
「はい。私も、あちらに仕事があります」
ディルクさんの一番。それから、ヒルデさんに、ただいまと言う約束もある。
マリエラさんは紙のいちばん下に、蹄鉄亭、と書いた。仕事の予定を決める紙に、帰る先が書いてある。
「では、侍女頭さんに話してきます」
立ち上がりかけて、残りのパンを口へ入れる。急いで飲みこみかけたので、お茶を差し出した。
◇
陛下の額の布は、今朝は枕元の水盤に戻されていた。
まだ寝台に背を預けていらっしゃるが、杯はご自分で持っている。医師が、夜半から熱が下がり始めたと教えてくれた。
私は右腕の糸を確かめ、首もとの一本にも触れた。
昨日、熱の糸を取り出したところには、隙間がある。ほかの結び目は残っていた。腕を一度裏返していただき、帳面と照らし合わせる。
「いま急いで追加の処置が必要なものは、見当たりません。ただ、馬車や橋の件は、次にお出かけになる前に」
「巡幸は、当分見合わせる」
陛下は、杯を台へ置いた。
「残りの仕事の話は、クラウスから届けさせる」
「お願いいたします。まずは、ミルデの蹄鉄亭へ。私が移るときには、次の行き先をお知らせします」
クラウスさんが書きつける。その手帳に蹄鉄亭の名前が載るのは、初めてかもしれない。
昨日の記録の下に、今朝確かめたことを足す。
診察と、二百六十一番のお返し。陛下のお仕事は、ここまでだ。
銀貨が二枚、盆にのって運ばれてきた。
「ご確認を」
私は一枚ずつ指で送り、財布へ入れた。侯爵からいただいた昨日の二枚とは、帳面の欄が違う。
クラウスさんは、続いて一枚の書面を広げた。
「呪い返し屋、ノエラ・カーヴェル殿」
そこは、聞き慣れてきた。看板と同じように、「呪い」の字から始まっている。
王家付き身代わりを退いたこと。今度の仕事を、独立した呪い返し屋として引き受けたこと。二冊の帳面は、本人の仕事道具であること。
読み上げる声を聞きながら、自分でも目を通した。
王家の依頼だけを受けるとは、書かれていない。仕事の終わったあとの出立を妨げないという行もある。名前の綴りを、もう一度確かめた。
陛下がペンを取る。署名の最後の一画は、フルトへ届いたものより長く伸びていた。
「写しを、門の掲示と書記局へ出します」
クラウスさんが言った。
私は書面を受け取り、インクが乾くまで待った。
「身代わりの務めの記録も、集めさせておる」
陛下が、机の向こうを見た。紐で綴じた古い書類が、まだいくつか積んである。
「休みの件もだ」
「そのお話は、また伺います」
書面を巻く。今回のお代の紙と一緒にせず、別の紐をかけた。
◇
客間へ戻ると、マリエラさんが鞄を開いていた。
神殿へ戻る荷造りかと思ったら、白い神官服を畳みなおして、底へ戻している。
「三日と、お休みの話、決まりました」
「よかったです」
「陛下も、同じ紙に書いてくださるそうです」
机の上には、殿下の残る糸を書き出すための紙が置いてあった。隅には、解けなかったものを書く場所も取ってある。
私は出しておいた一着を畳み、鞄へ入れた。
マリエラさんが、看板を渡してくれる。蹄鉄亭で裏返しにしてから、角が少しすり減った。古い品書きの側には、まだ煮込みの値段が薄く残っている。
「先生。りんごは、食べきれる数でお願いします」
「今日は、一人ですから、二つにします」
「半分の値段なら、四つ、って言わないでくださいね」
「分かっております」
「靴屋さんのものも」
「値切りません」
マリエラさんはうなずいて、私の鞄の紐を結びなおした。固く締めすぎず、持ち上げても緩まない。
「ほどくときは、こっちを引いてください」
「分かりました。逆を引くと、また締まりますね」
鳥が、肩の上で首をかしげた。
門まで送ると言うマリエラさんと、廊下を歩く。客間の鍵は、役人さんへ返した。輪に戻すところまでは、見なかった。
ボルツさんは、詰所でパンの包みを用意していた。
「今日は、これで済んだのかい」
「はい。お代もいただきました」
「そりゃよかった。こっちは代金のうちに数えないでくれよ」
温かい包みを、鞄の上へ置いてくれる。
「少しだけ、礼拝堂へ寄ってから出ます」
「ああ。門は、開けとく」
◇
王宮の礼拝堂は、私の覚えている匂いがした。
蝋と、冷たい石。入口の床には、縁の欠けた敷石がある。つまずかないように、一枚分だけ右へよける。マリエラさんも、同じところをよけた。
肩の鳥は、入ったときから黙っていた。
祭壇の前を通り、祈りの台の脇で足を止める。鞄を下ろさず、膝も折らなかった。
「ここでも、鳴きませんね」
「外へ出てみます」
中庭に面した戸口へ戻る。敷居をまたぐと、肩の上で羽が動いた。
「いくな」
礼拝堂へ戻ると、黙る。
街道の礼拝堂と同じだ。鳥の羽を指でなぞってみる。棘は、やはり硬い。
礼拝堂の奥には、もう一つ扉がある。北の塔へ通じる小道に出る扉だ。十年、帰りにはそこを使った。
今日は、そちらを開けてみる。
敷居の外へ、右足を出す。
鳥は鳴かなかった。
左足も出す。石畳に、両方の靴がそろった。塔の壁まで、午後の日が当たっている。
「……先生?」
私は一度だけ中へ戻って、同じ扉から出なおした。
鳥は、黙っている。
足も動く。塔へ向かって二歩ほど歩き、戻った。肩の重さは変わらない。
古い帳面を出し、百九十七番を開く。今日の日付と、王宮の礼拝堂と書いた。中庭側の敷居。北の塔側の敷居。それぞれの横に、鳴いたか、鳴かなかったかを記す。
送り主の欄には、何も書き足せなかった。
ペンをしまい、鞄を持つ。午後のうちに東門を出れば、今夜の宿には間に合う。マリエラさんが、私の足もとを見ていた。
「先生。そこ、礼拝堂の外ですよ」
肩の上を見る。
鳥は、目を閉じていた。
いつもお読みいただきありがとうございます。
今回で第一部完となります。
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