第19話 二本目まで
「……解いてくれ」
侯爵は、陛下を見たまま言った。
私は返事を待っていた。右手首に巻きついた糸は、少しも緩んでいない。
侯爵が、私のほうへ顔を向ける。
「この熱を、解いてくれ。金は払う」
「お受けいたします。右のお手を、こちらへ」
侯爵は、差し出された布の上へ右腕を置いた。
「ついでに、歯もだ」
「頬の六番ですね。そちらは別の一件になります」
「……それも、頼む」
糸の固さを確かめて、それぞれ銀貨一枚とお伝えした。侯爵はうなずく。お代は、終わってからでいい。
魔術師長が椅子の脇へ寄った。返した右手首の一本と、前からあった左の頬の一本を見比べる。クラウスさんは、それぞれの位置を紙に描いていた。
「いまから、手首のほうを解きます」
侯爵の糸は、端を内側へ押しこんである。引き出そうとすると、上の輪が締まる。押さえているところを先に戻し、折りこんだ端を少しずつ起こした。
マリエラさんは、反対側から手もとを見ている。
最後の輪を抜くと、糸がほどけて消えた。
侯爵は右手をひっくり返した。手首をこすってから、また額に布を当てる。医師が脈を取り、椅子の背へもたれるように言った。
熱のあとには、頬を拝見した。
こちらの結び目は、よく覚えている。三年、隊長さんの顎にあって、この数日は侯爵の頬にあった。端の押さえ方は、さっきの熱と同じだった。
糸が消えると、侯爵は口を小さく開けた。
閉じる。奥歯を噛み合わせる。
絹の布を持つ手が、膝へ下りた。
「……済んだのか」
「はい。二件とも」
侯爵は、震えの残る指で財布を開けた。銀貨を二枚、クラウスさんの差し出した盆へ置く。
私は枚数を確かめて受け取り、新しい帳面の六番に、今日の解呪とお代を書き足した。古い帳面の二百六十一番にも、返した時刻と、そのあとで解いたことを記す。
クラウスさんに渡す紙には、二百六十一番だけを写した。
二年前に届いた日付。内容と送り主。右手首の結び目の形を、小さく描く。今日、陛下から侯爵へ返り、侯爵ご本人の依頼で解いたことまで書いて、紙を乾かした。
「こちらを、陛下へ」
帳面は二冊とも閉じて、私の袋へ戻した。
侯爵が、椅子から立ち上がった。
「それでは、陛下。私はこれにて――」
「別室で休め。まだ聞くことがある」
戸口の兵が、内側へ入ってきた。
陛下はクラウスさんの紙を受け取り、魔術師長へ渡した。
「この一件の被害を確かめよ。それから、街道へ出した兵のこともだ。隊長を呼べ」
侯爵の手が、空の頬へ上がりかけた。
「帳面を取り戻す件は、殿下のお許しを」
「どこまで許したのか、息子にも聞く。お前の兵が何をしたかもな」
クラウスさんが、フルトで書いた手帳を開いた。先ほどの宮廷の記録と並べて、机に置く。
侯爵は口を開いたが、何も言わなかった。もう、歯を押さえなくてもしゃべれるはずだった。
兵の差し出す腕を借り、侯爵は部屋を出ていった。銀貨の入っていた財布は、右手に握ったままだった。
◇
殿下のお部屋へ伺ったのは、その日の午後だ。
マリエラさんが戸口をくぐると、寝台の上の殿下が身を乗り出した。
「やっと戻ったか。早く何とか――っくしゅ」
侍女が布を差し出す。殿下はそれを取る間にも、もう一度くしゃみをした。
マリエラさんは、寝台の脇へ椅子を運んだ。
「どの糸から、拝見しますか」
「見れば分かるだろう」
マリエラさんは、顔を近づける。
鼻の付け根に、黒い糸が二本あった。左右から重なるように巻かれている。喉には別の一本。袖口からも、細い糸がのぞいていた。
「鼻でしょうか。喉でしょうか」
殿下は布で鼻を押さえた。
「……まず、これだ。食事の間くらい、止めたい」
枕元には、昼食の皿がまだ置かれている。スープはほとんど減っていなかった。
私は古い帳面を開いた。
「百十番と、百十一番。『鼻がむずむずしろ』。同じ方から、同じ内容で二本届いております」
「二本も要らん」
「はい。一本ほどいても、もう一本が残ります」
マリエラさんが、私の帳面を見てから殿下に向きなおった。
「この二本を、解いてよろしいですか」
殿下は、返事の前にくしゃみをした。布から顔を上げる。
「……頼む」
マリエラさんの手が、鼻の付け根へ伸びた。
手のひらの縁が、少し明るくなりかける。マリエラさんは一度、手を膝へ戻した。息を吐いてから、もう一度伸ばす。今度は、明るくならなかった。
私は、その隣に座った。
上にある百十一番の端は、固い結び目の下へ食いこんでいる。つまもうとすると、結び目ごと殿下の肌へ寄ってしまう。
マリエラさんは、端から指を離した。
下の輪へ左手の指を入れようとして、止める。指を寝かせて、爪の先から差し入れた。輪を押さえたまま、右手で上の結び目を戻していく。
りんごの袋をほどいていたときは、ここで私を呼んだ。
今日は、左手を動かさなかった。
殿下の鼻が、ぴくりと動く。
マリエラさんは両手の力を抜いた。くしゃみで顔が揺れたぶんだけ、手も一緒に動かす。糸を引っ張らずに済んだ。
侍女が新しい布を、寝台の端へ置いた。
ほどきかけの輪は、元に戻っていない。マリエラさんは下の輪を押さえなおし、少し浮いた端をくぐらせた。
一本目が、消えた。
殿下は鼻の横をこすり、またくしゃみをした。
「まだ――」
「二本目です。もう少し、そのままでお願いします」
マリエラさんは、次の結び目へ指を移す。
さっきまで上の糸に隠れていた輪が、見えている。同じ送り主でも、こちらは端の長さが少し違った。マリエラさんは短いほうを引かず、下を押さえてから、長いほうを戻した。
私は膝の上で、握っていた手を開いた。
最後の輪が抜ける。
マリエラさんの指の間から、黒い糸が消えた。
殿下は、鼻へ布を当てたまま待っている。
侍女が水差しを置いた。廊下を誰かが歩いていった。その足音が聞こえなくなっても、殿下はくしゃみをしなかった。
「……止まった」
マリエラさんが言った。
殿下は布を下ろし、鼻を一度こすった。それから、咳払いをして背筋を伸ばす。
「初めから、そうすれ――」
声が、裏返った。
マリエラさんは喉の糸を見た。私は帳面の頁を戻す。
「八十二番は、まだございます」
殿下は、口を閉じた。
マリエラさんは自分の指を眺めている。右手で、左手の指を一本ずつ握った。
私は百十一番、続いて百十番の横へ、解いた人の名前を書いた。
「十一本になりましたね」
マリエラさんはうなずいた。口を開きかけて、閉じて、もう一度だけうなずく。
侍女が、片づけた皿の代わりに、温かいスープを運んできた。殿下は匙を取った。一口飲んで、皿へ戻す。こぼれていない。
その間に、侍女頭がマリエラさんへ小さな紙を差し出した。
「明日からのお部屋と、祈りの当番を、決めさせていただきたいのですが」
マリエラさんは紙を受け取り、私を見た。
「先生」
「私が決めて、よろしいんですか」
マリエラさんは首を横に振った。
部屋の隅に置いた、自分の鞄へ目を戻す。鞄の取っ手には、練習用の紐が結んであった。
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