第18話 二百六十一番
侯爵は、寝室の戸口で足を止めた。
私を見て、膝の上の帳面を見る。左の頬へ当てた絹の布が、一度だけ下がった。
「……陛下。お加減は」
布は、すぐ元へ戻った。
「悪い。そこへ座れ」
医師が椅子を引いた。侯爵は寝台の脇へ寄ろうとしたが、椅子は窓の側に置かれた。陛下の右手が、よく見えるところだ。
部屋には魔術師長と、記録の紙を持ったクラウスさんもいる。さきほどまでいた神官は、扉の外へ下がっていた。
「王都には、いつお戻りになりましたか」
クラウスさんが尋ねた。
「昨日の昼だ。それが何か」
「承りました」
侯爵は、答えを書きつけるペンを見た。それから、私の腰の袋を見る。
私は古い帳面を膝の上へ置きなおした。二百六十一番の頁は、開いたままだ。
「陛下。お手を」
医師が右腕の下へ、細く畳んだ布を敷いてくれた。汗で肌が湿っている。手首に巻いた糸が、脈のたびに上下した。
一番上の細い糸を、指の背でよける。その下の輪を横へ送ると、奥にある固い結び目が見えた。
「二百六十一番。二年前の夏、陛下宛」
そこで、帳面に控えてある日付と、届いたのがその日の夜だったことを告げた。
「内容は、『熱を出して寝込め』です」
侯爵の右手が、椅子の肘掛けをつかんだ。
「その年は――」
陛下が顔を向ける。
「何だ」
「いえ。暑い夏でございましたので、陛下もお体を崩されたことがあったかと」
「二年前には、寝込んでおらん」
陛下は、私の手首へ目を移した。袖の先から、何も巻かれていない肌が出ている。
「そのころは、お前が預かっていたのか」
「はい。腕の、ここに」
私は、自分の右手首の内側を指した。
「届いたときの形を、帳面に描いてございます。端を内側へ折りこみ、上から押さえてあります」
帳面を少し傾けると、マリエラさんがのぞきこんだ。
「……頬の糸と、似ています」
侯爵は、絹の布を頬へ強く押し当てた。
「似ているだけで、何が分かる。貴族の名を、そのような――」
「マリエラさんは、お名前を読んではおりません」
私は、陛下の手首の結び目へ指を戻した。
「私が、いま読んでおります」
結び目の奥に、癖がある。折りこんだ端を押さえつける、あの手だ。林で、隊長さんの頬から読んだものと同じだった。
陛下が、クラウスさんへ顔を向けた。
「いまの日付の記録を持て。あの夏は、官職の任命を行った」
クラウスさんが、紙の端へ日付を写した。扉の外の者に渡すと、すぐ戻ってくる。
侯爵は、足を組みかけてやめた。革靴の先が、絨毯の縁をこする。
医師が陛下に水を勧めた。陛下は半分ほど飲んで、杯を返す。空いたほうの手で、胸もとの夜着を少し緩めた。
待っている間、私は熱の糸に重なっているものを、一本ずつ確かめた。返すときに巻きこまないよう、結び目の位置を指で覚えておく。
マリエラさんが、帳面を置く台を近くへ寄せてくれた。私が頁の角にのせていた小石を見て、クラウスさんが文鎮を差し出す。
「お使いください」
「ありがとうございます」
小石を袋へ戻す。リーデの井戸のそばで拾ったものだ。平らな面を下にすると、帳面から転がり落ちない。
扉が開き、日付の札を挟んだ宮廷の記録が運ばれてきた。
クラウスさんは、該当する行に指を置いた。
「ザイデル侯爵閣下より、ご子息を官職に推す願い出。陛下は、お認めになっておりません。こちらの日付です」
帳面と、同じ日だった。
侯爵の指が、肘掛けに食いこんだ。
「役目に見合う者を、と申し上げただけでございます。陛下のお役に立てる息子であると――」
「わしが断った日の夜に、これは届いた」
陛下は右手を持ち上げようとして、医師に止められた。
私は、布の上へ手首を戻してもらう。
「日付だけで読んだのではございません。糸の結び目に、送り主のお名前が残っております」
侯爵の目は、帳面から私の指へ移った。
「当時は、身代わりがおりました」
声が、低くなった。
「王家へは届かぬと、分かっていたのでございます。陛下に熱が出ることなど――」
言いかけて、口を閉じる。
陛下は、額の布を外した。医師が差し出す水盤へ、それを落とす。水が跳ねて、寝具にしみた。
「わしは、いま熱を出しておる」
侯爵は答えない。
「二年、これを預けたままにして」
陛下は私の腕をもう一度見た。それから、布の下の自分の手首へ目を落とした。
◇
「この一本を、どうなさいますか」
私が尋ねると、陛下は顔を上げた。
「解けば、糸は消えます。お返しすれば、送り主に同じ熱が出ます」
「……ほかの糸は」
「そのまま残ります。ほかの糸は、一本ずつ別のお仕事です」
陛下は、汗で濡れた袖口を見た。
「返せ」
「かしこまりました」
マリエラさんが、椅子を少し後ろへ引く。私の肘の動くところを、空けてくれた。
上に重なった糸を、指の間へ一本ずつ通す。強く引かず、輪のままよける。奥の結び目だけをつまむには、小指を手首の下へ回さなければならなかった。
マリエラさんの目が、私の小指を追っている。手は、自分の膝に置いたままだ。
侯爵が椅子を鳴らした。
「待て。そんなものを、わしへ向けてよいと思っているのか」
「ほかの方へは、お返しできません」
固い結び目が、指の腹に当たる。ほどくときのように、端を抜いてはいけない。
「二百六十一番。送り主、ザイデル侯爵閣下」
結び目ごと、裏返す。
黒い糸が、陛下の手首を一周して抜けた。よけていた糸が、腕へ戻る。その下から飛び出した一本は、窓の側へまっすぐ伸びた。
侯爵が右手で払う。
糸は、その右手首に巻きついた。
端を内側へ折りこみ、上から押さえた結び目が、同じ場所に収まる。
侯爵は、肘掛けから立ち上がりかけた。膝が伸びきらず、椅子へ座りなおす。絹の布を持った左手が、震えはじめていた。
陛下が、長く息を吐いた。
医師が脈を取り、額に触れる。
「まだ熱はございます。もうしばらく、お休みを」
陛下はうなずき、重ねた枕へ頭を預けた。杯を持つ手は、さっきほど傾いていない。
窓の側では、侯爵の額に汗が浮いていた。
頬の布を額へ当てる。頬へ戻す。二度目には、どちらを押さえればよいのか迷うように、手が途中で止まった。
マリエラさんが、水の杯を運んだ。侯爵が取り落としかけたので、底を支える。
「ゆっくり、召し上がってください」
侯爵は水を飲み、荒い息の間から、陛下を呼んだ。
「陛下。お命じを。これを、解かせて――」
陛下が私を振り返りかけた。
机の上には、さきほど署名した依頼状が置いてある。陛下の目が、ご自分の署名のところで止まった。
私は、侯爵のほうへ椅子を向けた。
「ご依頼でしたら」
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