第17話 北の塔の鍵
翌朝、迎えの馬車が来た。
看板を立てる場所がなかった。
御者は屋根の上へ積もうとしたけれど、私は膝にのせることにした。雨に当たれば、下の小さな字から流れてしまう。
「先生。私の膝にも、半分のせてください」
二人で看板を抱えると、ちょうどよかった。向かいに座ったクラウスさんは、どこへ目をやっても、お代はお返しのあとで、と読むことになる。
フルトを発った。
アンナさんは、茶屋の前で手を振ってくれた。渡し舟はもう出ていて、オットーさんが櫂を動かしている。今度は、向こう岸で舟をつなげるはずだ。
「いくな」
鳥の声に、御者が振り返った。
「そのまま、お願いします」
歩いてきた道を、西へ戻る。
雨宿りをした礼拝堂は、窓から見るとずいぶん小さい。リーデの市の広場では、屋台が片づけられていた。その先の宿で一晩泊まり、翌日の午後にミルデを通る。
蹄鉄亭の戸口に、ヒルデさんがいた。馬車には気づかず、通りの客に声をかけている。窓から手を出しかけたとき、車輪が石を踏んで、看板が膝の上で跳ねた。
「帰りに、寄りましょう」
マリエラさんが板の端を押さえながら言った。
「はい。約束がありますので」
ディルクさんの喉も、そのままにしてはおけない。
王都の屋根が見えたころには、空が赤くなっていた。王宮を出た日から数えて、十日目だ。
◇
ボルツさんは、馬車の扉が開く前に近づいてきた。
「おかえ――」
私が先に下ろした看板を見て、言葉を止める。
「今日は、客かい」
「仕事です」
「そうか。仕事か」
ボルツさんは馬車から鞄を受け取ると、私に渡してくれた。北の塔へ運ぶよう、誰かを呼ぶことはしなかった。
「ことづけ、いただきました」
「返事も聞いたよ。律儀な使者殿でね」
クラウスさんが、外套の土を払っている。
王宮の門は、昔と同じ高さだった。八つのときには、もっと高かった気がする。鞄を持ったまま見上げると、ボルツさんが門柱の横へ半歩よけた。
私は、看板の角をぶつけないように門をくぐった。
通された廊下には、部屋を割り振る役人さんが待っていた。輪に通した鍵を何本も持っている。その中から、長い鍵を一本外した。
「カーヴェル殿のお部屋は、以前と同じところで。寝具も、朝のうちに入れ替えさせました」
北の塔の鍵だった。
柄の端が少し欠けている。冬はそこに、手袋の糸がよく引っかかった。
私は手を出さなかった。
「客間を、お願いしていたはずですが」
クラウスさんが言うと、役人さんは紙の束をめくった。
「ええ、ただ、以前お使いの部屋が空いておりましたので。人手も足りず、そちらのほうが――」
クラウスさんは依頼状の写しを、紙の束の上へ置いた。役人さんの目が下がり、鍵も下がる。
「……東棟を、用意いたします」
鍵は輪へ戻った。ほかの鍵より長いので、下へ飛び出している。
別の役人さんが、マリエラさんに神殿の部屋の話をした。
「私も、先生と東棟へ行きます。明日は、助手として伺いますので」
マリエラさんは鞄を持ちなおした。底にしまった白い神官服を出すこともなく、私と同じ方へ歩いた。
客間には、寝台が二つあった。私は戸口に近いほうへ鞄を置き、看板を壁に立てかける。着替えを箪笥へしまおうとして、一着だけ出した。
残りは、畳んだままでいい。
◇
陛下にお会いしたのは、翌朝だった。
寝台の枕は、三つ重ねてある。陛下はその上に背を預けていた。薄い夜着なのに、襟もとが汗で濡れている。水を飲むたびに、医師が杯を支えた。
私は寝台の横の椅子に腰をおろした。膝を折る場所には、医師の鞄が置かれている。
「……よく来た」
「ご依頼状を、ありがとうございます」
机の上に、二冊の帳面を置く。陛下の目が、古いほうへ向いた。
「そちらの写しならば、預けられるか」
「今回拝見する一件の記録でしたら」
「ほかの名も、必要になる」
「その呪いをお引き受けしたときに、写します」
陛下は、紙の端を指で押さえた。指の下で、小さく皺が寄る。
クラウスさんが、仕事の条件を書いた紙を読み上げはじめた。
最初に診察をする。続いて、熱の原因の一件を処置する。返すか解くかは、糸を見てから陛下に選んでいただく。ほかの糸は、急ぐものから記録に残す。
「……全部、済むまでおれぬか」
「まず、拝見しなければ、何日かかるか分かりません」
「では、後の分は別に決める」
クラウスさんが、一行書き足した。
診察のお代は、翌朝の確かめまで含めて銀貨一枚。熱の一件の処置が、もう一枚。仕事のあとに払う、と続く。
「金額は、それでよいか」
「はい。誓約を結びなおすお仕事は、含まれておりません」
陛下はうなずいた。私は、次の行を指で追う。
帳面は私が持つ。今回の依頼と別の用件で私を引き留めず、仕事が終われば王宮を出られる。その行の下に、陛下の署名をいただくことになっていた。
「毎朝、以前と同じように来れば――」
「熱のある日は、休ませていただけますか」
陛下の手が、紙の上で止まった。
医師が取り替えたばかりの額の布から、水が一滴、枕へ落ちた。
「……お前は、熱の日にも、礼拝堂へ来ておったな」
「はい」
「知っておった」
陛下は自分の額へ手をやり、濡れた布に触れた。
「それも、書け」
クラウスさんが余白に書き加える。私は、書かれたところを読んだ。熱のある日は休む。字にすると、ずいぶん短い。
陛下が、寝台の向こう側へ顔を向けた。
「身代わりに、休みも交替もなかった経緯を調べよ。誰が、どう決めていたのか」
白い眉の魔術師長が、頭を下げる。
私の前の紙には、まだ余白があった。いま書いてほしいことをもう一度確かめてから、陛下と私がそれぞれ署名した。
◇
「では、袖を上げていただけますか」
陛下の右手首から腕へ、黒い糸が何本も重なっていた。首もとにもある。陛下に届いてから十日ほどの糸でも、結び目には、二年前や五年前の癖がそのまま残っている。
付き添いの神官が、マリエラさんへ顔を寄せた。
「聖女様、陛下のためにお祈りを」
「いま光を当てると、糸が隠れてしまいます。拝見し終わるまで、待ってください」
マリエラさんは、膝に置いた手を動かさなかった。
私は陛下の腕に触れ、新しい糸の下をたどった。手首の内側に、固く折りこんだ結び目がある。端を上から押さえて、ほどけないように巻いてある。
帳面を開く前に、分かった。
それでも、頁を開いて確かめる。二年前の夏の日付。その脇に、当時の私が描いた結び目の形がある。
「これか」
陛下が、私の指先を見ていた。
「お熱の原因は、この一本です」
「……返せるか」
「はい。その前に、ザイデル侯爵閣下を、こちらへお呼びください」
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